田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

江藤正氏の野球談議

2008-05-06 23:43:47 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
春の連休の後半、竹田農園の草刈りに行ってきました。
お昼は、江藤正翁(元 南海ホークスのエース)と木陰で昼食とビール、野球談議に時の立つのも忘れました。

(休耕田)
竹田農園には600坪(2反)の休耕田があり、放置するとイノシシの住みかになり、周辺の田んぼ、畑がえらい被害になるので、年に3回は草刈りが必要。
今年最初の草刈りに、朝から。
ただ草を刈るだけでは能が無いと、イチジク、南高梅、ミカンの苗を植えて3年、イチジク、梅は、ようやく雑草より背丈が高くなり、刈りやすくなる。
しかし、柑橘類は、田んぼの湿気のある土が合わないらしく、2本は消滅(枯れたか盗まれた)、一本は、あまりの小ささに誤って草刈り機で切断と今日は散々。
苗の植え付けは、冬につき、来年の冬、イチジク、梅を大量に植え付ける予定。
80%刈ったところで、タイムリミット。
残りは来週に。
草刈り前の休耕田の前でパチリ(下に写真)。

(江藤正翁の野球談議)
この10日間、腰痛で外出は控えていたのとことだが、今日は、農園の木陰での昼食に。
「家にいると寒いが、外は暖かいなー。ビールも美味しい」と江藤翁。
炭火で牛肉をあぶりながら、面白い野球談議を聞かせらもらう。

<キャッチボール>
「台湾で戦争が終わり、帰国の船を現地の小学校に寝泊まりして待った。
野戦重砲隊の小隊長だったが、部下に、10歳年上のプロ野球選手がいた。
八王子商業(?)の出身でイーグルスでピッチャーだった古谷という名前。
私も法政大学でピッチャーだったので、周りが投球を見せてくれというので、二人でキャッチボールをした。
「上手いもんですねー」と周りは感心していた。
私が上手かったのか、古谷さんが上手かったのかは分らない。
もう、古谷さんもなくなっていると思う。」
(後で、googleで調べると1929年に甲子園に出た古谷倉之助氏が八王子実業団~金鯱~大洋で、スラッガーとして鳴らしたとある。
この方とキャッチボールをしたのではと思う。最初ピッチャーで後で打者に転向?)

<巨人の投手陣>
「私が投げていた当時(1949年)巨人の投手陣は強力だった。
別所、藤本、大友、中尾(サウスポー)、入谷(明治)の5人で全員完投能力があった。
打撃よりこの投手力で巨人は強かったのだと思う。
当時のエースクラスは、今の投手より、球に力があったと思う。」

<強打者>
先日の柳川バス旅行で聞いた、ハンク・サウナーについて、インターネットで調べると、大リーガーのブロマイドとその経歴を丹念に掲載している方がいて、ブロマイドを見ると、なるほど、牛のような厳つい体つきだったと私が、江藤翁に話すと、「ハンク・サウアーにいついて、知っている人がいるとは嬉しくなるねー」と、ニコニコしながら、当時の強打者について

「ハンク・サウアーは2メートル近くあったのでは。初めて見たのは後ろ姿で、フスマのような体躯に、バケツのような頭が乗っているような感じ。
一際目立つ体格。
このバッターに、西鉄のエースの川崎徳治選手が投げて、ベンチに戻るなり、グローブを投げ捨てて、
「江藤さん、もう野球やめたい、自信なくなった」と。
「どうした」と聞くと、
「アウトコースに大きく球を外したのに、レフトスタンドに引っ張って持っていかれた。」
 このバッターと並んで驚いたのが、引退した年に来日した、ジョー・デマジオ選手。
大阪球場で模範バッティングを披露、最初、阪急の天保(?)選手がバッティング投手をしたが、球が軽すぎてスライスするので、球の重い江藤翁に御鉢。
対戦してみると、姿勢がいい、どこに投げても打たれる感じ。
案の定、喜んでガンガン打って、全てスタンドに。
アウトコースではピッチャーに打球が来ると思い、全てインコース。
サードを守っていた蔭山選手がグラブに当てた球もスタンド入り。
蔭山選手本人から聞いた。
(2007/11/18のブログ記事に記念写真)
このデマジオに近いのが、大岡虎雄選手だと思う。」

<田中マー君>
「楽天の田中は力のある球を投げる。
巨人のスタルヒンに似ている。球の質や体格。」
私が、スタルヒンはいつごろ活躍したのかと聞くと、
「昭和29年、肩を壊して、高橋に移籍したとき、スタルヒンもいた。新設の球団で、私のような故障選手をたくさん集めていた。
このときは、肥り、球も遅かったが、巨人の沢村投手と一緒に投げていたころは、素晴らしく早い球を投げていた」

<心がけ>
「 最近の選手で、先輩のキャッチャのサインを見るのにガムを噛んでいるのがいた。こうした選手を見ると腹が立つ。伸びない。顔にも態度にも本物の選手はどこか、ハットさせるものがある。」とニッコリ。

 あと、3日で江藤翁も86歳。これからも長く元気でいて欲しいもの。
 木陰で、パチリ(冒頭の写真)
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 休耕田の草刈り | トップ | 草刈りの後 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あの頃のユニオンズは…。 (当馬敏人)
2008-05-07 08:58:20
そう言えば、あの頃のユニオンズは西鉄ライオンズにいたアンダースローの武末氏や毎日オリオンズにいたトラック諸島出身の相沢氏といった方も投手陣でいらっしゃいました。
確か、ユニオンズ初年度の6月にこんな事がありました。
川崎球場の対西鉄戦で、この年に富士高校から入った田村満という投手が3番手で投げ、結果1イニングで7四球、4つの押し出しという大乱調を演じ(これは日本記録との事)、浜崎真司監督がたまりかねて交代させたその後の投手が江藤翁だったそうです。
結局、1点追加されてチームも大敗、田村氏はこの試合をもってプロから足を洗ったと言いますから、やりきれない話です。
江藤翁の野球人生の中には、こういうほろ苦い事もあったのですね…。
返信する
ほろ苦 (takeda)
2008-05-07 18:41:50
お久しぶりです。
江藤さんの話では、選手は商品で、移籍することで球団に金がはいれば、平気で移籍させる球団代表もいたとのこと。高橋に行く時も、「肩を痛めて、つかいものになりませんよ」と言うのに、いいから、行け、次に東映に移籍する時も同様だったそうです。しかし、応援してくれる方もたくさんおり、35歳で引退してから、30年間、65歳まで電電公社(NTT)でサラリーマン生活をきちんと遂げることとなったそうです。助けてくれた方、お1人お1人よく覚えておられ、こうした方の思い出を話す時は、いかにも楽しそうです。ほろ苦い経験があって、楽しい思い出が生じたもののようです。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事