森とまちをつなぐ「半農半X」日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

里山の道は不動尊への道だった

2016-10-17 19:53:41 | 石仏・石造物
 昨日散策した天竜区熊地区の道は、山に囲まれた田園風景のなかにピッタリの石仏が並んでいた。
 はじめは六地蔵かと思ったが、よく見るといろんな石仏を寄せ集めたように思える。

                         
 というのも、いちばん左の観音は「西国三十三所」と彫られていた霊場巡りを巡拝した記念塔だった。
 刻字された上の如意輪観音は片膝立て・頬杖という典型スタイルだ。

                        
 同じ並びに馬頭観音らしきスリムな石仏もあった。
 手に持っているのは蓮の花だろうか。
 さらに、「笠付き角柱」の石塔もあり、それぞれよく見れば様々なキャストが揃った場所だった。

    
 しばらく歩くと神沢(カンザワ)の滝がある荒沢不動尊にたどりつく。
 ここには36体の石仏が点在している。
 彫刻したのは浜松の「松下萬吉」という人が奉納したようだ。
 入り口の鳥居は大正時代に作られたもので、往時のにぎやかな祭りが想像された。

                          
 不動明王には「三十六童子」の眷属・使者がいるということにちなんで配置・点在された石仏が空間を厳粛にする。
 それぞれ表情や持ち物が違ったり、役割があるようだが、よくわからない。

 
                           
 それぞれの石仏を管理する大変さが伝わってくる。
 中山間地の人口流出、高齢者ばかりの集落、農林業の不振などがこの薄暗いながらの神聖な場所からも迫ってくる。
 それでも、周りに繁茂していた四角柱の「四方竹」を伐採したり、通路を整備したりの地元の努力の痕跡がありがたい。

 それにしても不動明王の力が通用しなくなっているのだろうか。
 空海が広めた仏教と神道とのごちゃまぜパワーが色あせてきたということなのか。
 奈良時代以降、日本型「現世利益」を貫いてきた「縮小日本」の生き方は、いまだ健在だがさすがほころびが見えてきた。

天高い秋の季節はやっと天日干しの稲わらをしっかり応援していた。         
 
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