昨日、久しぶりに「くずは砲台跡」をで訪れました。
TOPの写真は、昨年枚方市教育委員会から発行された「楽しく学ぶ 枚方の歴史」に載せられた、くずは砲台の設計図です。
昨年、市史編纂所のB先生にご教示いただいてから、
改めて何度か行って見ましたが、行く度に少しづつ何か感じられるものがあります。
そして、最近出版された「歴史読本臨時」増刊6月号「歴史を歩くVOL3 司馬遼太郎の幕末維新」に掲載された、大変わかりやすいイラストを片手に、現地と重ね合わせてみました。
石碑のある堤は、外堀の南外側になります。
予備知識無く見ていると、ただの田園風景なのですが・・・
右側の一段高いところは、砲台場の基礎の残った部分。
左側の一段低い部分は、外堀の名残なんです!
元治元年、この砲台が建設された時の大義名分は、「異国船が摂海(大阪湾)から淀川を遡上し朝廷のある京への侵攻することを防ぐため」と言われていますが、あのでかい黒船は淀川を遡上出来ません、本音は西国雄藩、特に長州の軍勢が京に上ることを防ぐ事だったのです。
そして、もう一つの機能が元治2年に付加されます。
くずは関門、つまり関所の設置です。
ここで、京街道を上り下りする旅人のチェックをします。
京街道を少し東に捻じ曲げて、堀を渡り関所(砲台場)の中に入れ、チェック後外でまた西に道を捻じ曲げて京街道に戻しています。
その関門のあった付近の土手です。
関門を北に出ると、前方に立派な寺の御堂が木々に囲まれて見える。
真言律宗 別格本山 木津寺(久修園院 くしゅうえんいん)開創は行基、716年(霊亀2年)聖武天皇勅願の七堂伽藍という壮大な寺です。
しかし、元和元年(1615)大阪夏の陣で敗走する西軍の兵がここに身を隠しついに火をかけて自殺したため堂宇は消失。しかし、本尊釈迦如来立像は神亀2年(725)の製作と伝えられ現存しています。
元禄15年(1702)頃と言いますから「忠臣蔵」の頃に作られた、地球儀と天球儀が残されており、枚方市の指定文化財になっています。
また、龍馬ファンの僕なら、これも抑えておかなければいけませんね、それは、大阪夏の陣で西軍の将長曽我部盛親が捕まったのもこの寺の近くの藪です。
幕末ネタで、特筆すべきものが実はあるのですが・・・まだ研究中、お楽しみに!
白丸印付近から見た久修園院が左の写真です。
いつか、新資料を持って皆さんと「幕末ファン倶楽部散歩会」で訪ねたいと思っています。
前回の「幕末散歩」で訪れた時よりパワーアップして「くずは砲台」を探索しましょう! こちらもお楽しみに!