ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味43 正月行事にみるケガレ祓いの様相1 餅を焼く意味

2016年10月18日 09時48分34秒 | 日本の歴史と民俗
   正月行事にみるケガレ祓いの様相

   第1章 餅を焼く意味

餅を焼くにも解禁日がある 
 餅は食べるためにのみ焼くのではない。餅を焼く行為自体に意味があることを『正月行事』の中から見出していこう。
 事例1 大分県東国東郡国東町1-128
シゾメ(仕事はじめ)正月2日は朝早く起きて雑煮を祝う。この雑煮は餅を焼いて入れ、味付けは味噌を用いるのが普通である。

 朝早く起きるのは射日・招日神話の痕跡をとどめているからである。射日・招日神話については第3章でもあつかう。雑煮はケガレ祓いを意味する。雑煮に焼いた餅を入れるのもケガレの餅はケガレの太陽を意味するからである。餅は焼くことが決っているわけで、食べる人の好みには左右されていない。事例1は正月2日のシゾメの例であるが、元日についての記述をみると、雑煮には丸餅をそのまま入れている。このときは焼いていない。そしてトシトコ様に上げるといって、鍋墨をちょっとつけた餅を1個入れるという。つまり元日の餅も2日の餅もケガレ祓いの意味を残しているのである。
 事例2 岡山県真庭郡新庄村2-71
焼き初め(正月4日)この日、餅を焼いて歳神に供えるとともに、ぜんざい(しるこ)をつくって食べた。〔美甘村田口〕の一町田家では、山入り木に切り目をつけて焼き初めの餅を押しこんでいた。

 この調査地では元日に雑煮をつくり、餅に雑煮の汁をかけて食べるとの記述があるので餅なし正月ではない。しかし正月4日に「焼き初め」として、この日はじめて餅を焼く。焼く日を決めているのである。この日は初山入りの日でもあるというので、くずれてはいるが、やはり餅なしの解禁日でもあったと考えられる。ケガレを祓う意図はぜんざいを食べること、山入りして切った木に切り目をつけて、ケガレの象徴としての餅を押し込むとするところにもうかがわれる。ぜんざいはケガレとしての小豆を使うのである。
 では山入り木に切り目をつけて、焼き初めの餅を押し込むことがなぜケガレ祓いになるのだろうか。これについては成り木責め、鍬初め、鍬入りとも関係しているので『散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で詳しくあつかうが、山から木を切ってくるとは山の象徴を下界に下ろすということなのである。だから山から下ろしてきた木に焼き初めの餅、つまりケガレの餅を押し込むとは山にケガレの太陽を鎮めるのと同じことなのである。その意味が早くに忘失されてしまったので、山の神を迎えるとまで意味を変遷させて今日に至っているのである。これは山の神の起源について結論めいたことを述べているのだが、この問題は稿を改めて多くの事例を検討して、詳述しなければならない。
 事例3 岡山県井原市2-86
雑煮 (元日)神祭りがすんで雑煮を食べる。雑煮の具は鰤、かまぼこ、ほうれんそうなど、醤油汁でたき、餅にかけて食べる。(略)正月三が日間は餅を焼いて食べてはいけない。

 元日に雑煮をつくり、餅にかけて食べるとの記述があるので餅なし正月ではない。しかし三が日間は餅を焼いてはならないというところに、餅を焼くことが何気ないことではなく、正月の行事のなかで意識的であったことが見える。なぜ餅を焼くことが意識的であったのか。それはやはりケガレを象徴的につけるということが餅を焼く意味だからであろう。
 事例4 岡山県笠岡市2-98
正月三が日には餅を焼いて食べてもかまわないが、ただ正月にかぎらず餅をついた日には焼いて食べてはいけない。〔尾坂の一部・六条院町〕では、正月三が日は餅を焼いてはいけないという。

 事例によって、つまりその家により、地域により、焼くことへの対応がまちまちなのは、事例3もふくめて元にどんな意味があったのかが忘れられているためである。
 事例5 岡山県赤磐郡吉井町戸津野2-162
正月4日 初めて餅を焼く。

 ここの例でも餅はすでに三が日のうちに使っているのであるが、焼いてもいいのは4日からなのである。
事例6 三重県志摩郡大王町船越3-138
この火ではじめて餅を焼いて食べる。それまでは餅は焼けぬことになっている。時刻は夜明け前の4時過ぎである。

 この火とは元旦の明け方近くに、船越神社の境内で、子供たちによって集められたオニサエギを燃やした火である。オニサエギとは「径2、3寸の松割り木を2つに割って、平年は12本、閏年には13本、けし炭で横線を引いたものである。門松の根元に置いたオニサエギは、船越神社でのオタイに使用される」と説明されている。これは元旦のことであるが、やはり餅を焼く解禁日が設けられているわけで、しかも夜明け前と指定しているのは、元が射日・招日神話にあることの痕跡である。
 事例7 三重県志摩郡大王町波切3-148
元旦の名ノリ(アアタラシキ)の最後で
船頭が「だんな、たぬしや」というと、子供らが「餅焼け餅焼け」とはやして終わるのである。タヌシヤは金持ちの方言である。「餅焼け」はこの名ノリがすまぬと正月の餅は焼いて食べることができない定めであるから、もう餅は焼いてもよいぞ、というのだという。

 名ノリとは、山の神のふたつの当屋が漁師の家々を1軒1軒元旦に回って、今年も大漁でありますようにと祝福のことばをのべて回礼することであるという。夜中であること、1軒1軒回ること、漁師の荒い声でわれ鐘のように大声でどなることなど、ケガレ祓いの行為が変化したものと推察できる。であるならば名ノリが済むとは正月を迎える準備がととのったことになり、本来なら餅は遠ざけて正月になるはずであるが、かなり変貌していて食べるために焼くということになっている。大王町波切は漁村である。そもそも稲作の行事だったものが漁村の習俗にまで変貌しているのである。
 事例8 埼玉県4-108
大宮市植水では三が日は餅を焼いてはならぬとか、所沢市山口ではこの間には何も捨ててはならぬとかいっている。

 以上の8件の事例は、この日までは餅は焼けないという例である。しかし、なぜ焼いてはいけないのかはいずれにも記されていない。では解禁日になって、焼けるようになった餅をどうしているかといえば、食べるとしか記されていない。すでに焼く意味がケガレを祓う行為につながることが忘失されているからである。

 それでは8件の事例から餅の解禁日を抜き出してみよう。
事例1 正月2日、はじめて餅を焼いて雑煮に入れる。
事例2 正月4日、はじめて餅を焼いて歳神に供えるとともに、ぜんざいに入れて食う。
    焼き初めの餅を山入り木に押し込む。
事例3 三が日は餅を焼いて食べてはいけない。
事例4 餅を搗いた日には焼いて食べてはいけない。
    正月三が日は餅を焼いてはいけない。
事例5 正月4日、初めて餅を焼く。
事例6 元旦の明け方、はじめて餅を焼く。
事例7 元旦の名ノリが終ると、餅を焼いて食べてもよい。
事例8 三が日は餅を焼いてはならぬ。

 事例1は元日だけは餅を焼いてはいけない例。事例2、3、4、5、8は三が日間は餅を焼いてはいけない例。事例6、7は新年を迎えるまでは焼いてはいけないという例である。ということは「餅なし正月」における餅のあつかいとよく似ている。ケガレの餅を運び去ったり、祓ったりしたのだから、新年には餅はあってはならないというのが「餅なし正月」である。餅を焼いてはいけないというのは至浄の新年を迎えたのだからケガレの象徴としての餅の焦げ色をつけるべきではないという意識の現われではないか。それが事例1、2、3、4、5、8、である。しかし正月に餅を供えたり食べたりすることが次第に当たり前になっていったので、ケガレの餅を遠ざけねばならないという根元的な意識がなくなり、痕跡として、正月に餅を食べたり供えたりはするが、ケガレの象徴としての焦げ色の餅は三が日間はあってはならないという行為に移行していったのではないか。
 だから事例6、7以外は元日や三が日には焦げ色の餅を避けている。ところが6、7は元旦早々にすでに餅は焼けるのである。そこで考えられるのは、6も7も三重県志摩郡大王町のともに漁師町である。ということは本来、農村の正月行事であったものが漁村へ入り込んだもので、それには時間的な経過があって変貌をとげたのである。ケガレの餅は正月にはそぐわない、という正月と餅の本来なら対立的な関係が、農村部でもそうなっていったように、次第に淡くなり、新年とともに餅があることは当たり前になり、元旦のはじめから祝いとしての神聖な餅としてあつかわれるようになったのではないか。

焼いた餅によってケガレを祓う
 次は、焼いた餅、つまりケガレをつけたとされる餅をどうしているか、どのように祓えやっているのか、その痕跡が残っている例を見ていこう。
 事例9 鹿児島県薩摩郡甑島1-45
磯餅焼き、竈焚き 〔瀬上〕ここではカマタキ(竈焚き)といって、女の子供たちが中心になり、近くの山の裾や田のあぜの上などに数人が集まり、小さいかまどをカマ土や石を集めて作り、そこで火を焚いて、餅を煮て食べる。これは正月の2日の行事で、今もよく見られる。今では男の子も女の子にならってやるが、古くは女の子だけがやるものであった。

〔中甑〕ここの町でもやはり正月の2日に竈焚き、またはイソモチヤキ(磯餅焼き)といって、海辺や山のぐるりにいって、いろりを組んでそこで女の子が餅を煮たり、焼いたりして食べる。
〔里の村東〕旧暦正月の16日に、今でも竈焚き、磯餅焼き、をおこなっている。男の子も女の子も、何人かずつでもやって海岸にいき、持ってきた瓦と石を使ってジロを作り、そこで餅を焼いて食べる。家で子供の数だけのお重を作ってもらいそれを持って集まり、海辺でカイビナ(貝)をとり、鍋で雑煮を作ることもある。焼いたり煮たりした餅は、はじめのものだけ皆でよく拝んでから、海の波の遠くに投げ入れる。これは竜宮様にあげるのだという。
〔里の園上〕旧暦1月15日か16日に磯餅焼きをする。いろいろのごちそうを持って、主に女の子が、それに男の子もまじって磯辺にかまどを築き、そこで餅を焼いたり煮たりして食べる。餅が焼けるとそれを海に投げこみ、「竜宮様にあげもす」といって、今年もよい年であるように皆でお祈りをする。

 4つの地区で少しずつ違いはあるが、まずこの行事は近くの山の裾や田のあぜ、海辺や山のぐるり、海岸、海辺、磯辺などと表記される場所へ出かけていく。第1章の「小豆 ケガレの象徴として」の事例15「七日節句」でも述べたようにこれは共同体の外縁、境界である。そこでケガレの象徴である餅を焼くなどの行為によって、ケガレを祓えやることを意味している。雑煮を作ることもあるというのも、雑煮もケガレを象徴するから同じ主旨である。特に里の村東と里の園上では焼いた餅を海に投げこむというのは境界へ祓えやる行為そのものである。竜宮様にあげるというのは後の付会であろう。
 おもに女の子たちの行事となっていて、特に瀬上では「古くは女の子だけがやるものであった」としているが、古くは正月行事に女性は遠ざけられていたが、この事例ではその痕跡が見られないこと、子どもの行事になっていること、本土から稲作とともに移入した民俗であると考えられることなどから比較的あたらしい型である。新しい、古いというが、ここでの新旧は稲作の列島への伝播当時の古さを残したものか、それ以後のものか、といったかなり歴史的に長い尺度で言葉をつかっている。
 事例10 岡山県笠岡市陸地部2-102
トンド トンドの残り火で餅を焼いてその餅を歳神様に供え、それをとっておいて、大風が吹いたり、ドンドロ(雷)が鳴ったときに出して焼いて食べると大風があたらないし、ドンドロが家の上で鳴らずよそへ逃げるという。トンドの灰と焼き餅を屋根の棟におくと類焼を免れるという。

 すでにケガレの意味は忘失し、災厄を除くことに行事の主旨は転換している。焼き餅を屋根の棟におく、というところに、屋根に上げることでケガレ祓いがされることの痕跡を見ることができる。
 事例11 岡山県岡山市円山2-175
14日お飾りまかり ドンドの餅(正月の餅をつくとき、つくっておく)を焼く。このドンドの餅を焼いたのを切って、家の内外の神に供える。昼には正月と同じようにお供えをする。ご飯のへりには、ドンドの餅をひっつけておく。しかしこのドンドの餅は食べないで、フェエト(こじき)、猿まわし、人形つかいなど、正月にやってくる人たちにやったものである。

 まかりとはおろすことで、14日はお飾りを下ろす日である。ドンド用にあらかじめ作った餅があり、正月にやってくるフェエトなどの小正月の訪問者たちに与えることになっている。これによってケガレが運び去られる。以上の3例は焼いた餅を境界へ行って食べる、海へ投げる、屋根に上げる、小正月の訪問者に与えるということで、ケガレを祓い去る目的が明確である。

焼いた餅に意味がある
 事例12 島根県島根半島2-44
〔諸喰〕トンドの火で焼いた餅は新藁に包んでとっておき、6月1日にとり出して氏神に供える。

 事例13 岡山県笠岡市北木島2-124
〔金浦から大井一円〕にかけては、14日の夕方、日の入りと同時にドンドをする。餅を焼いて食べる。焼いた餅を歳神様に1個お供えをすると、雷が落ちないという。

 焼いた餅であることに威力がある。そこに焼いたことの元の意味が籠っている。元の意味とは、焼いた餅を小正月の訪問者である歳神様に与えてケガレを運び去ってもらうという意味である。それが好転して雷よけになったのであろう。
 事例14 岡山県邑久郡牛窓町平山2-136
ドンド 〔白茅〕火が盛んに燃えるころ、「さぎっちょうや ドンド 餅のカゲをやいてくえ」と、はやしながら、シメ飾りや門松を燃やし、歳神様に供えたお餅をちょっとこがして、枡にいれて持って帰り、小さく切って神様ごとに供え、雑煮にいれて食べる。これもかぜをひかないまじないである。〔白茅〕ではオドクウ(お土公)様に供えた餅を焼くのだという。

 餅を焦がすことに意味を残しており、事例13と同様、失われた本意のあることを感じさせる。この本意が忘れられると、焼くことの重要だった痕跡として、占いやまじないに変わってゆく。枡に入れて持って帰るのも、なぜ枡かを考える必要がある。これは桶に通じるのではないか。第3章の「1 桶が重要であること」で詳述する。オドクウ様に供えた餅を焼くというのも、オドクウ様はケガレを負っているからである。オドクウ様のケガレについては『散歩の手帖』27号の「オドクウ様からスサノヲへ」を参照のこと(「34」)。
 事例15 岡山県和気郡備前町友延2-166
15日トンド このトンドの火でトンド餅を焼く。そして藁灰を餅の上に載せて家に持ち帰り、灰は入り口や雨だれおちへまくと、長虫や百足(むかで)の魔よけになる。(略)トンドの餅は切って小豆粥の中へいれる。この粥をまず神に供えて、あと家内一同が粥を食べる。

 事例16 秋田県男鹿半島4-69
セド 16日に正月の飾り物を1か所に集めて焼くことをセド(柴燈または採燈)といっている。(略)真山神社では正月3日の夜、行なっている。(略)ここでもセァドウといって氏子が夜中に真山神社に集まり、神酒・餅・煮た大豆などを供えて神官が祝詞をあげてから餅焼きをする。社殿のそばに餅焼き場があり、そこに用意された生の薪木一棚ほどに火を点ずる。(略)その燃えさかる中に神に供えた大餅をヒバシと称する長さ6、7尺くらいのゴマ木(ぬるでの方言)の先端の枝を利用して又状のところに載せて焼き、真黒焦げになったのを数十片に切断して、災難除けに村中に配る。

 歴史的時間の経過するなかで、行事に演出や権威づけがされるが、要は焼いた餅を村じゅうに配ることである。そのための餅焼き場まで用意されている。それほどかつて餅を焼くことに意味があったことを示している。その意味とは焦げ色をつけることでケガレを象徴させているということである。
 以上のように、餅は焼いてこそ、その存在価値を発揮するのである。その価値とはケガレの象徴である焦げ色をつけた餅を食べたり、供えたり、祓えやったりすることである。ではそれぞれの行事のなかで、どのようなふるまいとしてケガレの祓い方が残存しているのか。前章の最後に示した課題を焼いた餅について追究していこう。

事例1からふりかえると、焼いた餅のなりゆきは次のようになる。
① 雑煮などに入れたり、煮たり焼いたりして食べる。大分県、岡山県、三重県、甑島。
② 歳神などに供える。岡山県、島根県。
③ 山入り木につける。岡山県。
④ 海に投げ込む。甑島。
⑤ 屋根の棟におく。岡山県。
⑥ こじき、遊芸人にやる。岡山県。
⑦ 村じゅうに配る。秋田県。

こうして並べてみると、①②⑦はすでにケガレとしての餅の意味が忘れられて、しかも神聖なもの、縁起のいいものとなっているので食べたり、配ったり、歳神に供えたりして祝いの意味で用いられているのである。したがってこれらは新しい形である。③から⑥はどれもケガレを祓う行為が残存しているのである。餅はケガレの象徴として焼かれ、焦げ色をつけられ、③から⑥のようにさまざまなやり方によって祓えやられてきたのである。ただしこちらも現在の行事のなかで、ケガレ祓いをしているとは意識されていない。

コメントを投稿