マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

家路

2015-02-28 20:15:15 | 教会の風景
今日は、午前中の授業とチャペルの後、準備をして東村山へ。
毎月開かれている家庭集会に参加しました。
賛美と聖書、互いの近況報告と祈りというシンプルな集いです。
お茶とお菓子を頂きながらの歓談の中にも、真面目な話あり、笑い話ありと2時間ばかりの集いはあっという間です。

その後、教会に戻り、明日の礼拝の準備を済ませ、今は家路にあります。
帰宅後は説教準備の続きです。

さて、月末ですので、2月の礼拝説教(旧約聖書講解分 申命記24-25章)のあらすじを掲載しておきます。

 約束の地を受ける世代に主の命令が続く。その中には社会的弱者の生活への考慮も含まれている。「権利を侵してはならない」(24:17)とは、他の箇所では「裁判を曲げてはならない」(出エジプト23:6)と訳される。不公平に扱われがちな人々への関心と公平な態度が求められている。また、ルツの落穂拾いの記事(ルツ記2章)を彷彿させる規定も見られる(24:19-21)。そうした行為の動機付けを、『思い起こしなさい』と呼びかけて、イスラエルの民の過去、主の贖いと結びつけている。私たちも、自身の過去と主の救いを心に留め、困難な境遇にある人々への関心と考慮、行動へと向かいたい。
 民の争いが想定され(25:1)、正しい裁判と適切な処罰を教えている(25:2)。さばきつかさの監督下、罪に見合った回数だけむち打たれる。しかし、その回数の上限は四十とされた(25:3)。『卑しめられないため』とあるように処罰される者の尊厳を守り、行き過ぎた処罰を防ぐためである。罪を犯したとはいえ、その者は兄弟である。ちなみに、この規定違反を予防するため、上限を三十九回としたようだ。本来は教会の戒規や指導も建徳的である。正しい判断と適切な訓戒により、悔い改めへと導くことを目的としている。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あれから1年

2015-02-28 01:56:14 | 神学校・講座
後期の期末を迎えて、忙しい日々を過ごしています。
先週は、神学校の入会試験が行われました。
新年度は7名を新たに迎えることになります。
それにしても、自分が受けた入会試験からもう1年が経つと思うと早い...


そして、今晩は卒業生を送る会。
夕食とお楽しみプログラムで楽しいひとときを過ごしました。
卒業生と在校生、教職員もそれぞれの持ち味が発揮されていて、私も一参加者として楽しませてもらいました。
みなさんの笑いのセンス、日常的に時間のない条件の中での準備と企画力に、感心するやら羨ましいやら。


今年度の卒業式、春休みまであと2週間ほど。
試験や課題も控えていますので、何とかきちんと締めくくりたいところです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釈然としない

2015-02-11 23:28:17 | 教会の風景
このところ、一つ一つの仕事や課題を何とかかろうじてこなしていますが、自分としてはどうも不完全燃焼気味。
何というか、釈然としないとでもいいましょうか。

自分の満足のためにしているわけではないのですが、内容があまりにも貧しく拙いもので申し訳ない残念な気持ち。
それと期限との間で板挟みになり葛藤を感じています。

今は集中力の持続が課題であり、祈り求めているところです。
こうしたことを通して、自分の内面の貧しさに直面させられるとともに、なお恵み豊かな主ご自身に望みを置く訓練ということなのでしょう。
日々のチャペルの説教や学び、交わりの中で教えられ、励まされ、支えられています。


さて、2月も半ばですが、月報に掲載した先月の礼拝説教のあらすじをアップしておきます。

旧約聖書の講解説教、申命記22-23章より。

 約束の地に入る世代への具体的な教えが続く。同族の者がなくした家畜や着物を見つけた場合、『知らぬふりをしない』で持ち主の手に戻すよう努める(22:1,3,4)。知らぬふりという訳語の原意は身を隠すことだ。(詩篇55:1)では、ダビデが「神よ。…身を隠さないでください。」と祈っている。神は苦しみの中で呼ばわる者に身を隠さない。神の民にも、共同体意識で隣人を保護する態度が期待された。律法には「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)とあり、主イエスの良きサマリヤ人のたとえ話(ルカ10:30-37)にも通じる。

 約束の地では、異邦の民に囲まれながら、イスラエルは主のみこころに歩むことが求められる。申命記の『主の集会』という語は、シナイ山での契約更新の回想で用いられ、主とイスラエルの契約関係を想起させる。一方、アモン人やモアブ人は主の集会には加われないとされた(23:3)。しかし、実際にはその後のイスラエルの歴史でこの命令は守られず、捕囚からの帰還で不信の罪を犯したと悔い改めたことが伝えられている(エズラ9:1-4)。私たちは、キリストによる新しい契約に基づいて、神の民の一員とされている恵みと重みとを覚える。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほどよくアレコレと

2015-02-03 00:06:31 | 神学校・講座
今日は、学校の課題と係の仕事、教会の仕事を、それぞれいくつか終えました。
明日提出の旧約釈義のレポートも何とか形にできました。
とても十分とは言えませんが。

今はホッと一息です。





そして、これは神学英語のクラスのテキストです。
組織神学の人間論に関するものです。
前回のクラスでは、聖書に基づいたself imageについて論じられているところを読みました。
テキストの内容も良いですが、英語の文章を速く読むコツを教えてもらったり、トレーニングになるのでなかなか充実しています。
最近の宿題は、時間を計りながら前回のクラスで読んだところをもう一度読むということになっています。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする