マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。
更新も内容もマイペースですが、12年目に入りました。

もどかしさ

2017-04-25 23:52:11 | 教会の風景
新年度が始まったばかりのつもりでいたのですが、4月も月末にさしかかります。
このところ、日常の雑務に追われて、なかなか学業に集中できておらず、もどかしさが募ります。

目の前の日常の雑事と先を見据えた取り組み、実務的なことと長期的な展望の中での学業、どちらも手放せませんから、葛藤を感じる日々です。

ちょっと気晴らしにコラージュでも。






さて、先月の礼拝説教(旧約聖書からの講解分)のあらすじを掲載しておきます。
ちなみに、3月から士師記に入りました。

2017年3月 士師記2章
 ヨシュアの没後も主への信仰に立つ、イスラエルの民に関する記述(ヨシュア記24:31)を(士師記2:7)でも、くり返している。だが、士師記はもう一つの不都合な事実を伝えている。(2:10)「その同世代の者もみな、 その先祖のもとに集められたが、 彼らのあとに、 【主】を知らず、 また、 主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」主の所有の民でありながら、主と主の御業を『知らないほかの世代』になっていった。ここから信仰継承について考えさせられる。「主を知らず」「わざも知らない」という表現が使われているが、まず私たち自身が主とその御業を知っているか、と問いたい。伝えるべきメッセージを持っているだろうか。そして、次世代を意識して、伝え、教えているか。「その先祖のもとに集められた」とあるように、自分たちの世代に与えられている持ち時間に限りがあることも意識しておきたい。
 もし神が私たちに自己責任だけを押し付けるような方ならば、私たちは神の御前に心安らかに立つことはできない。主に背いたイスラエルが非常に苦しんだ時、主は民の中からさばきつかさを起こして、救われた(2:16)。強国の支配下で劣勢でも、主がさばきつかさを立てて、その者と共におられ、民を救った(2:18)。それは、『主があわれまれたから』だと言われている。そもそも、主を捨てて他の神々へと向かったのはイスラエルの民だ。彼ら自身の罪が主の怒りを招き、略奪者たちに圧迫され、苦しめられ、うめいていた。それにもかかわらず、主はそのような民を救った。主のあわれみはどこまでも深い。今の私たちがあるのも、主のあわれみのゆえであることを心に留めよう。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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