きょうは、
患者家族としての立場から 感じたことを書こう。
夫の母が、直腸がんの手術を受けた。
69歳。
小柄だが、よく動く元気な人で
これまでは 病気知らず。
お産以外での入院など、はじめてである。
さいわい、
術後の経過も良好。
ほかに病気がなく、
日頃から 体力のある人だからこそで、
第一段階はクリアできたと
ひとまず ほっとしている。
しかし、
術前の説明には いろいろ考えさせられた。
今どきの説明って、
そこまで言うのかってくらいに
可能性のあることすべて、
本人にも 家族にも 話すんだなあ。
ある程度、医療の知識のある人間なら、
これとこれは、
とりあえず可能性がゼロではないというだけで
まず 考えなくてもいい合併症だとか 後遺症だとか
自分のなかで整理して聞ける。
けれど、
まったく そんなこと知らずに
はじめて聞く者にしてみれば…
すべて 自分に(自分の家族に)
あてはまる話だと思いながら 聞いてしまう。
その結果、
なんて おそろしい状況になってしまったんだと
どよ〜ん とした気分になってしまう。
そりゃ、
ひとむかし前??のように
それぞれの医師に
説明の裁量も ある程度まかされていて、
なかには
あれこれ 説明を加えることで
この患者さんには
不安を与えることにしかならないと判断した医師が、
「なんもアンタは心配せんでよろしい。
まかせておきなさい」
としか言わないこともあったり…
それが 最善とは言わない。
けれど、それも
それぞれの患者さんや その家族の資質に応じて
説明を取捨選択しての結果なら、
ありではないのか と思う。
どんな患者さんにも 家族にも
一律に、ただただ説明責任、義務とばかりに
100%どころか
120%以上の 可能性をふくめた説明を
もれなくおこなうというのは
いかがなものか。
考えてしまった。
ある程度は知識のあるわたし自身にしても、
8年前、
自分の手術前日にされた説明は
いくら 医師が言葉を選び配慮したものであっても、
一瞬 気持ちを萎えさせるのにじゅうぶんなものだった。
で、同意書にサインしなきゃ
手術してもらえないんでしょ。
するしかないんでしょ。
さっさとサインでもなんでもするわよ
どうにでもしてちょうだいよ
という、ふてくされたような気分になったもの。
あとでなにかあったときに、
「そんな話、きいてなかった」
ということで 裁判にでもなったりしたら
医療者側が 負ける とか
そういうのも あるんだろうけど、
患者さんや 家族の術前をより
安心できるものにするため というよりは
医療者側の保険としての説明になってしまっているようで、
よいありかたとも 思えない。
自分の手術前日の説明では
気分が萎えた と書いたが、
実際 わかっていることばかり
(ゼロではない、わるい可能性の話)
だったので、
あえて あらためて聞かせてくれなくてもいい
という思いもあった。
まったく なにも知らない状態であるとしたら、
わたしは現実にあること、ありうることを
知りたがり屋で、
知ってから 現実のその状況にのぞみたいと考える人間だ。
けれど ぎゃくに、
詳しいことは知らなくても、
ただよくなることだけを信じてのぞむほうがありがたい
と考える人も いるだろう。
「で、ここから ちょっとこわい話なんですが」
「あ、OOさんがそうなるという意味ではないんですが、
可能性としてはあるわけでして」
「で、またこわい話になるんですが」
。。。こんなかたちで進行される説明に、
わたしは 一緒に聞いている義母や 義妹が
どんな表情で どんな気持ちでいるのかと
ハラハラしどおしだったのだ。
いけないというのではないけれど、
誰にでも なんでもかんでも
ありとあらゆる悪い可能性を話す
という説明は いかがなものかと思う。
せめて、もっと各人に合わせた
柔軟な説明が 可能にならないものかな。
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