過去〜現在〜未来

何故、人には差別があるのかを仏法の道理から考えて見ます。

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一眼の亀

2008年01月22日 | Weblog
海の底に一匹の亀がおりました。この亀の寿命は、「無量劫」と申しますから、半永久とも言える寿命であります。
この亀は、目が1つしかなく、手足も無い、誠に不自由なうえ、おなかは鉄が焼けるように熱く、背中は雪山のように冷たく、二重の苦しみに責められておりました。
この亀の願いはただ1つ、熱いおなかを冷やし、冷たい背中を暖めることでありました。
おなかを冷やし、背中を暖める方法は1つしかありません。赤栴檀(しゃくせんだん)という木の中でも尊い木がありまして、この赤栴檀に、丁度、亀のおなかを収める程の穴があいていて、その穴におなかを入れて、おなかを冷やし、背中を太陽に当てて暖める、これしか、二重の苦しみから逃れる方法はなかったのであります。
ところが、この亀は千年に1度しか海上に浮かび上がることができません。
広い海にぽつりと浮かび上がっても、浮き木に巡り会うことは希であり、たとえ浮き木に巡り会っても、赤栴檀の浮き木に巡り会うこと、これまた希なことであります。
また、運良く赤栴檀の浮き木に巡り会っても、亀のおなかの丁度入る穴があいているものは希であります。穴は大きくても小さくてもいけない。ぴったり合うものでなければ、すぐに波のために落とされるからであります。
不思議にも、自分に丁度合う穴のあいた赤栴檀の浮き木に巡り会ったとしても、この亀は目が1つしかありませんので、西を東と見てしまい、近づこうとしても、かえって遠ざかるというようなことにもなります。
ましてや、手足が無いわけですから、赤栴檀の浮き木に近づくこと自体、至難のわざであります。
このように、この一眼の亀は、計り知れないほどの永い間、苦しみ続けるのであります。
このお話の中の、「海」とは生死の苦海に、一眼の亀を私たち衆生に譬えられております。
おなかの熱いことは、私たちが瞋恚(しんに=いかり)のためにおこる八熱地獄の苦しみであり、背中の冷たいことは、私たちが貪欲(欲望)のためにおこる八熱地獄の苦しみに譬えられております。
千年間、海の底にいるということは、私たちが悪業を作って、一旦、地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道(三途)に堕ちてしまったならば、2度と浮かぶことの難しさに譬えられ、千年に1度浮かび上がることは、再び人間に生まれ変わることの難しさ、釈尊の出世に会うことの難しさに譬えられております。
赤栴檀以外の木に巡り会い易く、赤栴檀には中々巡り会えないということは、『法華経』以外の一切経に会うことはできても、仏様の最高の教えである『法華経』に会うことの難しさに譬えられております。
たとえ、赤栴檀に巡り会っても、自分のおなかに丁度合う穴のあいたものに巡り会うことの難しさは、私たち衆生がせっかく最高の『法華経』に巡り会っても、『法華経』の肝心であります。「南無妙法蓮華経」を唱え難いことに譬えられております。
目については、全く信心の無い人を無目に、利他の心の無い人を一目に、仏法を自分も求め、他をも弘めようとする方を二目に配されております。
また、この亀に手足の無いことは、私たち衆生が、「自分は智慧が有る」と慢心を大なり小なり起こして、その実は、最高の教えを見下し、程度の低い教えを最高であると思っているようなものであります。
末法の世には、このような慢心の人が多いために、邪宗教が持てはやされ、大いに栄え、正しい真実の仏様の教えが流布することを妨げるのであります。
虚心に慢心を捨て、正しい師について仏教を学べば、自ずから正しい宗教にたどり着くのであります。しかし、その正しい師に巡り会うことも又難いのであります。
                              (この項続く)
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