たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

世間体と幼さ

2016-02-24 02:25:14 | Weblog
 これは本当に価値があるんだろうか?と考えなくなってしまったら、一気に老け込んでしまうのかもしれない。
 何かの価値基準を当たり前のように有り難がって、そこを曲げてしまう選択肢を必要以上に怖がってしまうと、その外側の価値観から見ていると、あまりにも本末転倒な結果になってしまうように感じるが、その価値観の中に当然に生活している人にとってみると、それは「大人」として「生きていくために」重要なことなのだ。

 確かに、自分の周囲におけるマジョリティに準拠した価値観を見出し、そこに「反応」だけして生きていくことは、ラクかもしれない。でも、その、誰かが決めてしまった定常的な価値観に即して生きることは、必ずしも安泰ではないし、何よりもそこにアジャストしてしまうことで、確実に失ってしまう自分の本当の気持ちをないがしろにしてしまうと、もったいない気もする。
 こういう中学生的な意見は、相手の年齢が中学生に近くなればなるほど、ウケる確率が高くなる。

 まぁでも、つまらない世間体に合わせることが大人になるということで、それに関して誰かを犠牲にすることを都合よく「生きていくために」という言葉で繰り返すのであれば、その定義においては、生きていかないほうがいいのかもしれない。
 ただそれは、ヒエラルキーやお金に対して無頓着になるということでもないし、ましてや、ただただチャラチャラして生きるということでもないのだけどね。

 世間体至上主義者にとっては、ここの前提を疑ってみることすら、子供っぽく見えるのだろう。それはその前提を取っ払ってしまっている人からしたときには、意固地になっているほうが子供っぽいだろう、と言葉の定義が変わってしまい、両者は分かり合えない。
 世慣れて生きていくことが悪だとも思わないし、そこに属さないで生きていこうとすることが善だとも思わないし、当然のことながら、その逆同士を決めつけることも完全に間違っている。

 善悪を決定づけるのではなく、そういった傾向に見える、というだけなのだ。
 あくまで、ただ、世慣れてしまうと老けてしまい、中学生のような意見を大人になっても平気で言えるバカは幼く見えてしまう。

 ただし、あなたがもし、何は無くとも、とにかく長生きすることは徳が高いことだと考えるのであれば、子供っぽいほうが良いだろう。
 気持ちの上でも、非平衡状態をより長く維持しているほうが生命らしいと言えるはずだと俺は思うからだ。

 「長生き」の前に、「若さを保ちながら」という一文を入れるだけで、状況は一変するけどね。
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