たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

過去形ホンモノの意義

2017-05-16 00:11:47 | Weblog
 すれ違いで、何か実質的にめんどくさくなっても、気持ちさえ分かり合えてしまえば、寄り添うことができる。
 逆のほうが遥かに問題で、実質的に型にははまるけど、気持ちが何も分かり合えていないと、最終的に溜めてしまったリスクが突然暴発することがある。

 パラメータやステータスがピタっと合致することを善しとすることがあまりにも多い世の中、気持ちの豊かさと共鳴性が失われつつある。誰に褒められたいのか?誰に一番好かれたいのか?誰を好きで、誰が嫌いで、どんなことをくだらないと思っていて、どんなことを大事に思っているのか?この観点を、マジョリティに流されないようにするために、私たちは真面目に勉強をしてきたはずなのに、結局、お勉強界のマジョリティに従ってしまうのだとしたら本末転倒なのに、それに陥る人があまりにも多い。だから、「再現性」ではなく「論文」や「先生」を神にしたがったりして。
 「たとえ世界を敵に回しても」という極限状態をいきなり想像しなくても良いとは思うけど、「どんな人だったら、わざわざ世界を敵に回さなくても、一緒にやっていけるだろうか?」ということを大前提にしてしまっているような態度だったら、ホンモノなんて掴めるはずがないじゃないか。

 周囲の考えや、それを考慮しているであろう相手の判断もすべて引き算して、本当の気持ちだけを抽出しようとしたときに、その抽出法が確かであると賭けられるかどうか。そこにどれだけの時間を費やせるかどうか。
 何が必要で、何が不要で、何が無難で、何が危険が高いか?をまず考えるのではなく、どんな気持ちを持っている人(たち)と一緒にいるべきかどうか?という観点で集団を選んだとき、初めて集団から本当の意味での実力を与えられるのである。よく「東大では優秀な友人が得られる。これこそが一生の宝だ」という人がいるが、これはとても虚しい発想である。(それが後天的解釈だったとしても)必要不必要で友人を選んだり、必要不必要で自分の得るべき知識を選んだり、そのために無理してそこにアジャストしても、すべては空虚なだけ。そんな簡単なこと、小学校で気がつかなかった?

 でも、たとえちゃんと気持ちで選んでもね、、結果的に一過性のホンモノにしかならないことはよくあること。
 でも、、、過去形でも、ホンモノだったって、気持ちを貫いて形成した思い出は虚しさにはならない。

 相手が変わってしまっても、最後にその人から貰った信念を、自分一人で貫くことが可能だから。
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