システムを上手に利用するだけ利用して、小狡く実力以上の言葉を持とうとする後輩を、あなたは応援したくなるだろうか?
もし、助けてもらうということを前提にして、他人任せにすることをベースとするのであれば、むしろ、自分の哲学に即したチャレンジをして、失敗し続けることが重要だ。
特に重要なポイントなのは、権威のある人間に助けてもらうことではなく、いかに大事な信頼関係を結び、その人達から継続的に助けてもらえるか?ということだと思う。権威は現状を継続させるために重要であると解釈されがちだが、俺らは、実空間に暮らしているだけでなく、感情の世界に支配されて暮らしているわけで、ここが満たされないと大変な思いを背負うことになってしまうのだと思う。
逆に言えば、信頼関係から助けられてさえいれば、感情が満たされつつある状態が続き、時差はあるが、結局のところ、実世界でもどうにかなるのだ。
見えたことすべてをその実空間上でそのまま処理できるのであれば物理学は必要ない。見えていること以外に、ある前提を想定して、一度別の場所や空間や考え方に持っていくからこそ、真理が掴めそうになる。それが物理学の共通の発想だと思う。確かに眼には見えないかもしれないが、「場」という概念があるから古典力学や電磁気学が成り立ち、フーリエ変換するからこそ見えてくる像もあるわけだ。エントロピーも見えないし、波動関数も二乗しなければ何なのか実態が掴めない。だが、それらは確かに現実に存在しているものなのだ。
だから、、というわけでもないけど、少なくともそれと同じように、日常生活においても、現実的に成り立つかどうか?ということを考えることと同等に、自身の感情の上で不満がないか?と確認する作業は重要である。
感情を大切にする、ということは、実は、現実をきちんと冷酷に観ることから始まる。
自分が今おかれている状況を、雰囲気に惑わされずに、きちんと掌握することで、始めて、自分の本当の感情を後天的に論理として認識することができ、その感情の進むべき方向が決定され、現実にすべきことがわかってくる。
空気や周囲の当たり前に惑わされず、何も誤魔化さずに、自分の置かれている状況を冷酷にただ見る、ということは、簡単なようで、意外にも難しい。
なぜなら、無難な自称大人たちが、現実をきちんと観ようとする行為に対して、テキトウないちゃもんをつけて、それを止めることを提案し、自らの責任逃れを繰り返すことで、ついには、クリティカルで特異的な行動を規制し始めるからだ。
さらに、何よりも、現実をきちんと認識し、自分の言葉で具現化し、自分の方向性を決めていく行為は、自分で自分を殴る行為に他ならず、自分で自分を殴ることで、自分で最後トドメを刺すのは、とてもとても辛い現実であることがほとんどだ。
ただ、、それを乗り越えてくれない限りは、このケースはどうしようもない。
俺が、いくら外から光を当て続けて、こういう状況に置かれているのだ!、と言っても非常に無意味で、その言動に対して怒りしか生じさせられない無能さに、俺はすでに飽き飽きしている。
飽き飽きしている気持ちを増幅させて、『もうやめてやる!』と言い切ってみた時に、ほんの少しだけ、それを咎める気持ちが出てくる。今度はその気持ちを増幅させて、『絶対にあきらめない!』と言い切ってみる。そうすると、また、ほんの少しだけそれを咎める気持ちが出てくる。これを繰り返すことで、ぎりぎりのところで純粋さを保てている。
だから、俺自身は、少なくとも、ひと時も、目的を忘れてはいない。
どんな時でも、どんなことをしていても、どんな状況であろうとも、俺の本当の研究テーマである、穴に落ちたライオンをいかに救出すべきか?、という根本的な問いから何もブレてはいない。
もちろん、俺が俺自身の現実を一緒に観てくれる信頼関係の多さは、俺の努力によるものではないし、感謝はしているが、みんなの何かの努力によるものでもないと思う。単純に、運がイイだけ。
その不条理をいかにしてちゃんと享受できるか?そこが勝敗の分かれ目だと俺は思っている。
もし、助けてもらうということを前提にして、他人任せにすることをベースとするのであれば、むしろ、自分の哲学に即したチャレンジをして、失敗し続けることが重要だ。
特に重要なポイントなのは、権威のある人間に助けてもらうことではなく、いかに大事な信頼関係を結び、その人達から継続的に助けてもらえるか?ということだと思う。権威は現状を継続させるために重要であると解釈されがちだが、俺らは、実空間に暮らしているだけでなく、感情の世界に支配されて暮らしているわけで、ここが満たされないと大変な思いを背負うことになってしまうのだと思う。
逆に言えば、信頼関係から助けられてさえいれば、感情が満たされつつある状態が続き、時差はあるが、結局のところ、実世界でもどうにかなるのだ。
見えたことすべてをその実空間上でそのまま処理できるのであれば物理学は必要ない。見えていること以外に、ある前提を想定して、一度別の場所や空間や考え方に持っていくからこそ、真理が掴めそうになる。それが物理学の共通の発想だと思う。確かに眼には見えないかもしれないが、「場」という概念があるから古典力学や電磁気学が成り立ち、フーリエ変換するからこそ見えてくる像もあるわけだ。エントロピーも見えないし、波動関数も二乗しなければ何なのか実態が掴めない。だが、それらは確かに現実に存在しているものなのだ。
だから、、というわけでもないけど、少なくともそれと同じように、日常生活においても、現実的に成り立つかどうか?ということを考えることと同等に、自身の感情の上で不満がないか?と確認する作業は重要である。
感情を大切にする、ということは、実は、現実をきちんと冷酷に観ることから始まる。
自分が今おかれている状況を、雰囲気に惑わされずに、きちんと掌握することで、始めて、自分の本当の感情を後天的に論理として認識することができ、その感情の進むべき方向が決定され、現実にすべきことがわかってくる。
空気や周囲の当たり前に惑わされず、何も誤魔化さずに、自分の置かれている状況を冷酷にただ見る、ということは、簡単なようで、意外にも難しい。
なぜなら、無難な自称大人たちが、現実をきちんと観ようとする行為に対して、テキトウないちゃもんをつけて、それを止めることを提案し、自らの責任逃れを繰り返すことで、ついには、クリティカルで特異的な行動を規制し始めるからだ。
さらに、何よりも、現実をきちんと認識し、自分の言葉で具現化し、自分の方向性を決めていく行為は、自分で自分を殴る行為に他ならず、自分で自分を殴ることで、自分で最後トドメを刺すのは、とてもとても辛い現実であることがほとんどだ。
ただ、、それを乗り越えてくれない限りは、このケースはどうしようもない。
俺が、いくら外から光を当て続けて、こういう状況に置かれているのだ!、と言っても非常に無意味で、その言動に対して怒りしか生じさせられない無能さに、俺はすでに飽き飽きしている。
飽き飽きしている気持ちを増幅させて、『もうやめてやる!』と言い切ってみた時に、ほんの少しだけ、それを咎める気持ちが出てくる。今度はその気持ちを増幅させて、『絶対にあきらめない!』と言い切ってみる。そうすると、また、ほんの少しだけそれを咎める気持ちが出てくる。これを繰り返すことで、ぎりぎりのところで純粋さを保てている。
だから、俺自身は、少なくとも、ひと時も、目的を忘れてはいない。
どんな時でも、どんなことをしていても、どんな状況であろうとも、俺の本当の研究テーマである、穴に落ちたライオンをいかに救出すべきか?、という根本的な問いから何もブレてはいない。
もちろん、俺が俺自身の現実を一緒に観てくれる信頼関係の多さは、俺の努力によるものではないし、感謝はしているが、みんなの何かの努力によるものでもないと思う。単純に、運がイイだけ。
その不条理をいかにしてちゃんと享受できるか?そこが勝敗の分かれ目だと俺は思っている。
重い質問ですね(笑)
自分が感じたすべての怒りは、論理的に解釈すると、自分自身の能力不足に行きつくと、俺は思っています。思考力を使って、自分の能力を向上させる方向に持っていくしかないですね。
それから、助けるという行為は、何かを期待してはいけないですし、それで訴えられたとしても構わない、という気持ちにならないと、助けるなんて無理だと思います。
助けることは助けられること、助けられることは助けること、です。
本当のライオンは人間のフリして人間に同情を求めないし、助けてもらっておきながら「実はライオンなのらー」と噛み付いたり、自己責任でしょーなどと嘯きません。弱い人さんが遭遇したのはくっさい着ぐるみきた乞食の間違いですから、実際咬み傷も大したことないはずです。
自己愛にウジ虫うつされた事を認めるよりライオンに咬まれたと思いたい気持ちはわからないでもないですが、それも奴らのシナリオです。
本当のライオンは人間のフリして人間に同情を求めないし、助けてもらっておきながら「実はライオンなのらー」と噛み付いたり、自己責任でしょーなどと嘯きません。弱い人さんが遭遇したのはくっさい着ぐるみきた乞食の間違いですから、実際咬み傷も大したことないはずです。
自己愛にウジ虫うつされた事を認めるよりライオンに咬まれたと思いたい気持ちはわからないでもないですが、それも奴らのシナリオです。
ここ、一応公開されてるけど、いいの?(笑
俺的には全然いいんですけど。