たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

理想のひな型

2017-10-05 01:21:50 | Weblog
 自分のなかで理想を構築していくことと、理想のひな型が自分の頭のなかに居座っていることとは、明らかに違う。
 世界中に散らばる沢山の名文句や理想的な名シーンをいちいち自分の心と体験の中に飲み込みながら理解して、自分固有の理想を構築し続けていなくては、幸せには到達しない。理想のひな型を丸呑みして、それと異なる現実を排除していくやり方では、むしろ不幸を生んでしまう。

 理想のひな型を妄信してしまうと、理想が妄想化されてしまう。理想とは、現実に根付いた、期待している未来なのだが、自分の未来そのものを誰かが造ったひな型に身を任せてしまう、そのちょっとした怠惰さこそが、破滅を生みやすくする。いつしか、目を閉じながら、「これが幸せなんだ」と自分に言い聞かせるような生活を強いられるようになってしまうだろう。
 理想のひな型のなかの人物を演じれば演じるほど、はじめは確かに客観性のある一歩下がった系の見方ができて楽しめていたはずなのに、どんどん抽象化されない一個人としての遣る瀬無さが蓄積する。

 こんな痴話喧嘩をしてみたい、って理想のひな型なのか、本当に心から怒っているのか、そのちょうどオンラインに立っている瞬間、左側に現実を見据え、右側に自分の理想を構築していこう。
 だって、演技でケンカしているのか一線を超えて演技じゃなくなっちゃったのか、わからなくなったときの切なさの行き場を、相手が偶然に同じひな型を持っていることこそが運命だと悪戯に名前をつけてしまうような拠り所に託してしまうと、お互いの行き違いが現実となって直面した瞬間に、誰とも分かち合うことができなくなっちゃうから。だから、ほら、また一人で、電車を待ちながら、泣きそうになってきちゃうでしょ?

 でも、だからといって、完璧に努力だけで決定づけられる幸せに魅力を感じないのも、それはそれで事実。
 ある程度の割合で偶然性に運命と名前をつけてみても良いけれど、、それは、あくまで、必然性をベースとした上でのおまけ。ただ、そこに、ベースとしていたひな型の1つが共通であることに、ときめきを感じるくらいの余裕はあってもいいかもしれないよね。

 誰かにとって瞬間的に嫌がるかもしれない問いを投げかけることで、何かの議論を提供した瞬間に、いつも俺が感じるのは、この人たちには、アツくなれるだけの権利がある幸せがあるのだなぁ、ということ。(俺がしかけるような)現実世界のくだらない争いには、常に、参加権を持っている人と、蚊帳の外を強いられている人とに分かれる。そして、参加している人は、自分(の習慣こそ)が正義であることを、問いを発した(俺などの)本人に対して、異常だと宣言することでねじ伏せようとすることに躍起になるばかりで、その議論そのものに原理的に参加できないでいる人のことなど、気にも留めていなかったりする。
 世界を敵にまわしても、、を日常的に実戦できる技術が確立されている現代、自分の理想を試すには絶好なのだ。

 だけど、しょせん俺は勝てるゲームしか仕掛けないことを、きっと見抜かれているだろうと思う。
 それは、、貴女が、混じりけの無いくらいに純粋で、理想のひな型を大事な想い出として胸にしまい込んでしまい、否定しようがない幼さに囚われ続けていて、俺がそんな姿に囚われ続けているから。

 不純になる権利もあれば、これまでの理想のひな型を捨ててしまう権利もあるし、ひな型をベースに自分固有の理想を構築する権利もある。
 もちろん、これまでのように、理想(のひな型)じゃないからって、時を止め続ける権利もあるんだぜ。

 何をしていても、原理的に失敗しないのだから、好きに生きれば良いさ。俺は、俺が創った理想のひな型を、ただ提案しているだけなのだから。
 ただし、できるだけ、本トの笑顔でいてほしい。それだけは、押し付けていたいな、と思う。
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