たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

評価されていることが評価されるシステム

2016-11-07 02:39:15 | Weblog
 名誉ある言葉が自分にくっつけばくっつくほど、生涯その言葉を持つことが難しい人間が、自分に対して何かめんどくさいことを言ってくる確率が低くなる。この事実は、学歴を高める、唯一のメリットと言ってイイ。

 何かの言葉を持っていないと、いちいち論破しなくてはいけなくなってくる。あなたがあらゆる本を読み尽くし、あらゆる論理展開をマスターしていたとしても、そこまでの議論に辿り着いていないどうでもいい連中が、どうでもいい事柄について躍起になってあなたに議論をふっかけてくる。この煩わしさを回避するためには、持っていると評価されているとみなされる言葉を自分が持てば良いわけだ。

 そう、みんな、評価されているということを、評価の対象にしたがるからだ。

 ノータイムで正確に評価するためには、世間一般として評価されている言葉をどれだけ持っているか?を確認すればイイ。ここにあらゆる評価は正当であるという暗黙の了解が入っているのだが、多くの人はそこまで考えない。その人が一般入試で入ったのか推薦入試やAO入試で入ったのか、など誰も気にしないし、その人がどんな分野でどのような研究室の環境でどういう内容の論文を書いたかということよりも、名の知れた学術雑誌に何本論文を書いたか?ということしか気にしない。
 評価する側の人間はこのようなバカでもいっこうに構わない。たとえ無能なクズを評価してしまったとしても、舞台さえ与えておけばいつかはそれらしい結果を出してくれ、バカな世間は「やはりあの時の評価には先見の目があったのだ」と言ってくれるだろう。たとえ有能な超人を評価しなかったとしても、舞台さえ与えなければ永遠に結果は出ず、またしてもバカな世間は「やはりあの時の評価には先見の目があったのだ」と言ってくれるだろう。

 このように、評価されていることが評価されてしまう世の中は、実力や本当の生産性から乖離してしまい、結果として必ず疲弊する。
 本当に価値があるのか、どれほど重要な成果なのか、という本質的な考察がまったく入らないままに、評価されている言葉を得ているのだから、評価に値するのだ、などというロジックを振りかざしている限り、腐っている現状はカワラナイ。何かの生産性があることを宣言して長時間仕事をしているフリが上手い日本人は、このロジックを振りかざしまくっている。
 そして、真実を観ようとしないままに、こう口にするのである。「事実を直視するよりも、目をつぶって、幸せでありたい」と。社会の風は冷たいぞ、と警告してくれる(本当の意味ではまったく)生産性のない個人は、自らの体験として本当に社会の冷たさを知っているわけではなく、長いものに巻かれている限りルールを知らなくても良いと主張しているに過ぎず、たいていの場合で、世間体を意識した「幸せ」を目指しており、そのためには、真面目で損している人間をさらに踏み台とすることも厭わない。

 本を読めば読むほど、真実を知れば知るほど、社会性から離れていってしまう現代社会。それはある意味では当然である。クソの役にも立たない哲学は、philosophy(愛知)=philo(愛)+sophia(知)なのだから。
 しかしそれでも、もしあなたが、手っ取り早い幸せなんかよりも真実を愛するのであれば、何が評価に値するのか、今一度、考え直してみるべきだろうと思う。
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