たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

理想と期待

2013-03-28 18:58:43 | Weblog
 憧れを手にしたとき、その内部において、それが幻想であったと思ったら、そこからチャレンジしていくか、また新しい憧れを抱くか、二つに一つだ。
 あくまでも評価基準は気持ちに依ることだけにしないといけないと思う。今までずっと憧れに思ってきた習慣があるから、とか、他人からとてもよく評価されている言葉だから、とか、そういうことは、あてにならない。

 人の集団化現象のすべては、「貢献」に繋がらないといけない。自分たちだけはとても楽しいけれど、その他の人たちには多大なる迷惑をかけるような、友達関係、カップル、グループ、バンド、研究室、共同研究、学校、会社などには、本質的な価値がない。より悪くするために、悪い方向へ落ち込んでいくために、一緒にいるわけではない。そんなの、どんなに素晴らしく輝かしい評価が上から下ったとしても、徳が低すぎるのだ。
 そんな集団を形成していくなら、俺は一人のほーが良い。もし、憧れている関係性や言葉を手にしたとき、他への「貢献」に結びつくなら、その環境でチャレンジするようにし、否なら、また新しい理想を描けば良いのだ。
 俺の本質的な評価基準はココにある。

 集団内でのより良きに加え、集団外でのより良きを考えられるようであるなら、今持っている言葉や能力にいっさい関係せず、優秀な人である。しかし、能力があると思われている人が多い環境へ行けば行くほど、自分勝手が正当化されるような社会形成がされているのも、事実である。
 ならば、俺が俺に要求することとしては、気持ちかつ能力向上としなければならない。そして、どんな形であれ、時間を一緒に共有してくれるすべての人に期待することは、内部と他への「貢献」したいという気持ちのみである。

 要求レベルは、とても高いかもしれない。理想が高すぎるかもしれない。
 でも、たった一度の人生、これくらいの理想を掲げたほうが楽しいと思うし、俺が選ぶ人は、この基準を今現在満たしている、優秀な人であると思う。俺が選ぶレベルも上がっているのだから大丈夫、実空間に惑わされずにきちんと見抜ける。問題は、それが維持されていくという保証を、本質的にお互いに築くこと。

 どんな言葉を得たとしても、貢献が継続しない、もしくは復活する見込みが無いなら、新たな理想を抱くほーが聡明であり、俺はある種、冷徹にこれを実行できてしまうが、俺が望んでいるのは、カワラナイデずっと続くことである、ということも知っている人は、信頼している人のなかでも、まだまだ少なかったりする。
 まぁ、こういうほうが、人間っぽいでしょ?
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