たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

自己責任は実在する

2018-02-23 13:28:09 | Weblog
 「で、結局、誰が悪いのか?」
 を考えたときに、みんな、すぐにラクな結論に飛びつきたがる。悪人を、少数派の全員にしてみたり、特徴的な人にしてみたりして、「マジョリティーでいるために空気を正しく読んでいればそんなことにはならないはずだ!」と、安心を自分の心に与えたくなるのだ。

 確かに、ある事件・事故について、誰か一人の責任として決めつけるのは危険である。
 しかし、その人のダメな部分が運悪く出現してしまった、という程度には、自己責任は存在するんじゃないかと俺には思えるのだ。

 多くの人は、目の前の事象に対して、マナーを重視し、モラルを軽視する。だから、マナーの視点で、クズかどうかを判定しがちである。
 マナーを守っていたのにも拘らず、モラルのダメさが暴発して悪事に発展してしまった場合、時代はその人を悪人にするかもしれないが、少なくともその当時については、みんな不運なだけだったと肯定したがる。
 逆に、少々のマナーを欠きながらも、自身のモラルに従って行動した結果が何らかの事件・事故に発展した場合、時代はその人を善人にするが、少なくともその当時については、みんな「自分はあーはならないわ」と否定したがる。
 時代が進めば進むほど、マナーは変わるし、頭の回転をゆっくりにして考えられるから、モラル寄りの結論になるので当たり前だ。マナーがダメでもモラルがきちんとしていた結果なのであれば、どんなに騒ぎになったのだとしても、それは最終的には自己責任にはなりえないと思う。問題は前者の場合、つまりマナーは無難だったけど、モラルがダメだった場合だ。

 その当時のマナーや「普通」にとってみれば、その行為は仕方なかったのだとしても、きちんとしたモラルさえあれば防げたということは、この世の中には沢山ある。
 そして、このモラルというものは、どーしてもDNAやら環境やらの依存性が低い気がして、どれだけ本人自身が意識して磨き上げてきたか?に依存する気がしている。だとすれば、その人がその罰を受ける理由は特段にはないが、その事態に引き込まれることそのものは、みんなにも平等に起こりうることが偶発的に運悪く出現してしまっただけで、自己責任としても問題ない場合もあると思う。
 だが、これは、ほとんど実装されないという意味では、実在はしない。概念上として、存在するのみであり、それを言及しても、あまり意味がないのかもしれない。

 だとしたら、どんな場合が、「お前が悪い」と言えるのであろうか。

 マナーもモラルも基準に満たしていたとしても、自らが深く罪を感じ、自分の能力でどうにかすべき、どうにかできたんじゃないかと思い悩み、かつ、瞬間的に自分以外のすべての人間がパペットに見えてしまった場合、「俺がどうにかしなきゃいけなかったのに」と自己責任として考えたくなるときがある。
 俺は、この瞬間だけは、自己責任の実在をこの世に認めたいと思う。だって、少なくとも俺にとって、そのほうが、遥かに納得できるから。

 本気で守りたいと思ってしまった誰かを目の前にして悲しい想いをさせてしまっているとき、周囲の何パーセントが悪くて~等と思考したり、これはマナー重視でモラル軽視の多数派がそもそも~等と思いを巡らせたり、原理的に仕方ない物理現象なのだと認識させられたりするよりも、、遥かに遥かに、とにかく俺自身が100パーセント悪いんだ、どうしてどうにもできないんだろう、と理解し、今にも押しつぶされそうな罪悪感を背負いながら生きたほうが、明日を前向きに歩けることは、ある。

 俺のせいにするわけがないくらいに優しくて意地悪な…、、いや、主観的にも客観的にも、直観的にも論理的にも、マナーとしてもモラルとしても、俺のせいにはならないに決まっているんだけど、何もできない不甲斐なさを納得するためには、どーしても「俺のせいにしてほしい」と願ってしまう。
 「ごめんなさい」と唱えながら眠りにつくとき、中間的な小さな笑みを思い出して、これだけでも世界で何人が見られる帰結なのかと少しだけ優越感に浸りながら、また「ごめんなさい」と呟きながら気を失う。

 「できること」は、もう少ないけれど、、それでも、何かの、何らかの役に立つことが、、ほんの少しでも気持ちが軽くなるようなことが、伝えられたらなって思って、いつも何かを書き、何かを喋っている。
 それが、俺にとっては、自己責任を果たすことだし、せめてもの罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。
コメント
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