たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

新たな時代への神器

2017-05-21 02:58:59 | Weblog
 研究の世界では、政治力学的であることと科学的であることを混同する者が後を絶たない。
 この疲弊しきった世界では、個人のなかに上司を神とする信念の割合が大きすぎるわりに、政治家らしい側面よりも研究者である側面を強調したがる故、そのような混同が起きる。科学的であるということは、再現性を軸とした論理構造と、その論理構造を再現性によってさらに精緻にしていくことができるということを信じることである。決して、有名な人や権威がある人や、多くの人から「信用できる」と評されている研究者を信じることではない。この混同を解くことこそが、科学としてのスタートであるし、個人としてのスタートでもある。

 しかしながら、科学的である側面がある一方で政治力学的な側面があり、その両者の考え方が自分のなかで矛盾し続けるのは構わない。構わないどころか、とても良いことかもしれない。人は矛盾する生き物だからである。むしろ、この矛盾の存在と向き合うことをせず、無理矢理な近似を使いながら、二つの考え方がともに解けているのだ!と勘違いするほうが問題である。その短絡的な考え方が、引用数が多い論文やIFの高いジャーナルこそが(科学的に)優れているはずだ!等の勘違いを起こすのである。
 だから、個人の主義主張の中の思想と思想の矛盾についての追及が厳しい社会もまた、あまり良いとは言えないのではないかと思う。それは犠牲者を出すことを前提とした進捗へと繋がっているからだ。

 あらゆる価値観が個人のなかに沢山宿っていて良い。それらを無理矢理に繋げる必要も無いし、純粋さも不純さも、共存できうるのである。ある価値観の側面が、別の価値観を高めることだってある。だから、不純な気持ちで貫こうとした発想が、そのまま最も純粋な心に繋がっていることだってある。
 にもかかわらず、「○○は、どーせこうだから」と、誰かに何かのキャラ付けを無理矢理託すことは、自分たちの持っている何かの感情の総和を、たった一人(たった一つの集団)に押し付ける行為であり、そのガンさえ取り除けば世界はより良くなるという、間違った信念に基づいている。

 本当の意味で純粋さだけを抽出したいなら、それを持ってして、何かをより善くしたいなら、個人個人に立ち返らなければならない。
 誰が不純であるかを考え、その人を排除すれば良いという短絡性は、確実に破滅に向かわせる。それと同じように、誰かを革命家だと決めつけて世の変化を任せたり、誰かは絶対に正義であると決めてしまう短絡性も危険なのだ。

 新たな時代へのカギとなりうる神器は、必ず、矛盾し合ういくつかの価値観が共存した心のなかに存在する。多くの人は、新たな発想とは、たった一つの純粋な価値観を突き詰めた先にあると勘違いして、ピュアな場所ばかりを探そうとしてしまうが。。

 あらゆる価値観を認めようと、そう口で言うのは簡単である。
 重要なのは、自分の中のあらゆる価値観の存在と可能性を認めようとすることなのではないか?と俺には思えるのである。
コメント
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