敏腕Pの日々のつぶやき

テアトルシアター代表。担当舞台作品について他、演劇やスポーツ等々の雑感を気の向くままに。

Jumko AtIanta

2018年01月30日 | スポーツ
日本女子マラソン界で一等最初に
世界一になったレジェンドの
浅利純子が結婚して高橋姓に。
と昨日書いたのだけれど……。

逸材と称されながら、競技人生は
アップダウンの激しいものだった。

1992年、大阪国際女子マラソン。
当時ペースメーカーはおらず、
ダイハツはエース浅利のために、
小鴨由水をその役割でエントリー。
がしかし、浅利は6位に沈み、
初マラソンの若き小鴨が優勝。
同年夏のバルセロナ五輪代表に。
浅利は一転サポート役に回った。

翌年の大阪。
三度目の正直で手にした女王
2位安部友恵とは僅か1秒差で、
しかもトップの安部が競技場直前、
コースを間違えたタナボタV。
今尚語りぐさのレースとなった。

同年夏のシュトゥットガルト。
浅利は世界陸上のマラソンで
金メダルに輝いた。
安部は銅。

95年、東京国際女子マラソン。
レース終盤に転倒しながらも
トラックでのデッドヒートで
原万里子に競り勝ち優勝。
ついに五輪切符を手にする。
しかし。
96年アトランタではマメを潰し、
血みまみれで完走するも17位。

98年、29歳で臨んだ東京で
再びゴールテープをトップで切り、
翌年の世界陸上にも出場したが、
故障を抱えた参戦となり16位。

オリンピックイヤーの大阪では
自身初の途中棄権に涙した。
シドニー代表を逃し、翌01年引退。

※※※

大阪国際女子マラソンについて
昨日も随分書いたけれど、
浅利純子の話でも多く登場した。

大会宣伝物のデザインにも触れ、
近年でいえば、31~32回大会だけ
「マラソンの女王」ではないと
昨日書いたわけだが・・・

ちなみに30回の覇者は赤羽有紀子。
5度目の42.195kmでの初優勝。
くだんの31回は重友梨佐、32回は
「爆走娘」こと福士加代子が制し、
「ママさんランナー」で知られた
赤羽が33回に二度目の戴冠。

34回は外国勢のプロコプツカに
優勝を譲るのだが、35回に福士、
36回は重友と、2011~17年は
三人で月桂冠をわけあった。

さて、赤羽の結婚相手は
大学の同級生の浅利周平。
だが、浅利純子とは血縁であない。

と、話が振り出しに戻りました。

高橋純子は今、秋田県鹿角市に。
ジュニアの競技力向上を目的に
故郷の行政とともに「浅利純子杯」
と冠した駅伝大会を開催。
近隣県からも参加があり、
昨夏が11回目であった・・・。
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