瀬崎祐の本棚

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詩集「具現」  貞久秀紀  (2017/06)  思潮社

2017-07-29 20:58:35 | 詩集
 105頁に38編を収める。「現代詩手帖」に”写生の試み”として連載されたものを中心にしている。
”写生”とのことであるが、どこまでも客観的な記述などあり得ないことは自明の理である。切りとる風景はすでに恣意的であるし、どの風景の何をどのように記述するか、それは自ずから思想であるだろう。むしろ、安易な主観を極力排して対峙する姿勢が、かえってより強く記述の主体性を持つのかもしれない。

「青葉」では、枝がおちてきた雑木林を抜け、ひとつの岩に出会う。

   それは岩で
   ともにいるひとりのひとにここに座ろうとわたしがよびかけ
   その言葉がわたしをふくめたふたりにわかり
   ある日それだけでたのしく座っていた

 なんとも不思議な文章である。写生といいながら、ここで記述されているのはその岩が抱いている物語である。しかし、その物語は岩を写生しようとしたことからはじまるのだ。

 このようにこの詩集にあるのは、対峙する外部の物の形を借りて、作者が自分の内から取り出そうとしたものに新たな形を与える試みであるだろう。それはおそろしく規律的で、自己抑制的でもある行為である。しかし、それ故にこそ自由に自分の内と向き合える、ということにもなるのではないだろうか。

 「ゆく道なか」。11行の短い作品で、主語、述語などの文法上は2つの文章から成っている。「ふり返り/想い起こすもの」は「はじめから/鳥のすがたでいた」のである。ここで写生されているもの(鳥)は、描くものとして選ばれたときから(はじめから)”想い起こすもの”を担わされている。作者の意識と外部事象が寄り合ったものが写生されている。それを両の手ですくいあげれば、

   まだ羽のある
   白灰の身がらをもつ小鳥が
   ふたたび手をのばすことができたならはじめてこの鳥にゆきあたり
   あたたかく触れうるものとして横たわり
   ひとりのわたしが近づいてきた

 これから歩む道なかでわたしを待っていたものがあるのだろう。それにあたたかく触れることによって新しいわたしも出現するのだろう。
 ほら、写生をすることは、こんなにも自由な行為なのだ。
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