~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

ピュロン

2016-08-09 20:47:06 | 日常
映画「戦場のメリークリスマス」では、物語のラスト、
戦犯として処刑されるハラのもとに、
ロレンスが訪ねて来て言います。

「(あの戦争では)
 自分が正しいと信じた人間がいただけで、
 誰も正しくはなかった」

戦後70年を迎えた去年、深く考えさせられたのは、
アメリカ国民の半数以上が、

「原爆投下は正しかった」

との見解を示した調査報告でした。
(アメリカ民間調査機関:ピュー・リサーチ・センター)

原爆投下が正しいはずなどありませんが、
人間は自身が帰属する人種・国家・社会・組織等により
モノの観方は大きく左右されます。

私自身、もしも違う国に生まれ、違う教育を受けていたら、
正誤・善悪の判断は全く異なっていたはずです。
自分が正しいと信じている事の多くは、
条件付きの、相対的で不安定なものに過ぎない事を、
どこかで意識している必要があるようにも思います。

               ===◯===

自分が正しいと思っていることを、
「もしかしたら間違っているかも知れない」
と疑ってみる所に《正しさ》は生まれるのではないか?

そう考えたのは、古代ギリシャに生きたピュロン。
懐疑派の哲学者と言われています。

ピュロンが学生の頃、とある沼のほとりを歩いていると、
懐疑派哲学の師匠が沼に落ちて溺れているのを発見、
すぐに助けようと思ったものの、

「いや待てよ、
 人を助ける事が正しい行為とは限らない」

と考え、その場をあとにします。
なんとか自力で這い上がった師匠、
去りゆく弟子の背中に向けて、こう呟いたそうです。
「ピュロン、それでいいんだ・・・」

これは、人命に関わる事でも疑うのか?・・という、
アンチ懐疑派の作り話と言われていますが、
それはともかく、広い意味で懐疑派は、

世の中の大勢が、特定の誰かを崇拝したり、
社会全体が、一つの方向に傾こうとしたり、
美談・立派さ・正義・正論が振りかざされるような時、

「本当ですか?意外と怪しいのでは?」
と疑念の光を当てて警鐘を鳴らす、
そうした役割を担うがゆえに尊いとされます。

              ===◯===

とかく人は、勇気を讃え、勇ましさを称揚しますが、

武器を手にする勇気、
手にした武器を捨てる勇気、
人類が、いや私自身が振り絞るべきは、どちらの勇気なのか?

戦没者慰霊の祈りをあらたにする8月が巡る度、
心の中のピュロンと向き合い、自らに問うものであります。




               







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