”佐藤多一”

豊橋市のイベントなど

越の国

2009-10-22 17:13:41 | つれづれ草
"呉越同舟"という言葉があります。熟語から読むと呉と越が同じ舟に乗る。ということになりますが、中国の孫子が最初に例えた言葉です。中国の南部に呉の国と越の国があり、互いに勢力を競い合い、争いが耐えなかった。そうした仲の悪い者同士でも、舟が沈むような事態になれば、互いに助け合い、同じ舟にも乗りこむ。という意味で、生命の危機に陥れば、敵同士でも助け合う。ということです。最近では、単に仲の悪いもの同士が同席するようなときにも使われています。

 越という国は、中国の南部、広東州や雲南省に位置し、呉の国は越の北方で、長江(揚子江)の南部に位置していました。越の国自体は、紀元前334年に滅びますが、(農民や町民など)民族の多くは滅びることなく、その地に残るか別の地に移住することになります。越の南はベトナム(越南)で、漢の時代から唐の時代まで中国王朝の支配下にあり、中国の影響を受けています。越の雲南省付近は、越南(ベトナム)に近く、紅河(フォン河)を伝って交流が図られていたと考えられます。辺境の雲南省から多くの人が越南に働きに来ていたものと思われます。越南では、海運(南海貿易)が盛んで、南シナ海から台湾海峡を経て、台湾や琉球諸島などと交易していたものと思われます。さらに対馬海流に乗って、日本(北陸地方)にたどり着き、越の国(越州)を築いたものではないかと考えます。中国を追われた越民族(雲南省付近)が、越南から船に乗って移住してきたのかもしれません。
 
 日本海や東シナ海は、琉球諸島や日本列島側は、北上する対馬海流が流れ、大陸側は、南下する海流が流れています。この海流を利用して、一周することができます。船が東シナ海で難破するとベトナム付近に漂着することもあるといわれています。東シナ海はよく低気圧が発生する場所で、台風の通過も多く、急に天候が荒れることがあり、天気予報のない時代は、航海の難所であったものと思われます。
日本の越国は、北陸地方全域を有する大国になっていましたが、7世紀、壬申の乱以降、三つに分割され、それぞれ越前、越中、越後国となり、現在にその名を残しています。日本人は、雲南省の民族と似ているところがあり、日本人のルーツではないかとも言われています。ベトナムの人とも似ているところがあるかと思います。中国南部に越国を築いた民族の血を引いているのかもしれません。丹後地方など北陸には、浦島太郎の伝説が残っています。琉球諸島(竜宮城)との交流も行われていたのではないかと思われます。

縄文遺跡

2009-10-10 16:43:11 | つれづれ草
 青森市の郊外の丘陵地に、日本最大級の縄文遺跡、三内丸山遺跡があります。遺跡には、直径1mの6本の柱からなる高さ20mの大型建造物や床面積90坪の建物などが復元されています。この集落は、今から5,500年前に始まり、4,000年前までの1,500年間続き、最盛期には500人ほどの人が定住して共同生活していたと考えられています。またひょうたんや豆類などを栽培し、栗の木を植林して、その実は食料に、枝や幹は道具や建築用材に利用していた痕跡が残されています。の中央には、幅12メートルの道路が設けられ、道路の脇にはお墓が配置されています。

 遺跡の復元が正しいとすると、なぜこのような大型の建造物を造ったのか、メインストリートは何のために必要であったのか、などと考えさせられます。様々な説が考えられていますが、6柱、20mの大型建造物は祭り・祭祀(さいし)のため、90坪の建物は集会場・共同作業場ではないか、といった宗教的な施設との考え方が主流であります。

 宗教的な建造物は、その権力を誇示するため、しばし巨大化しますが、この集落に立てられた5,000年前には別の目的があったように思えます。弥生時代の遺跡には、首のない人骨が多く見つかっていますが、三内丸山遺跡の墓にも、数は少ないですが首のない死体が埋葬されています。弥生時代以前の日本には、ボルネオに見られる首狩の習慣を持つ種族や、そのほかにも狩猟生活する種族などが住んでいたのではないかと思います。互いに言葉も通じず、略奪や戦いになることも多かったと思います。定住集落では、男は戦ったり、逃げたりできますが、女・子どもはなかなか逃げられません。男が戦っている間、女・子どもはこの20mの高さの塔の上に逃げていたのではないでしょうか。はしごを巻き上げてしまえば上ってこられませんし、柴などを用いて火をつけても柱は燃えることはありません。また、円筒形の土器に水を入れて塔の上に置いておけば、消火ができますし、相手に向かって投げれば武器になります。遺跡では無造作に壊された土器の破片が数多く発掘されていますが、こうした目的であったものとも考えられなくはありません。遺跡の20mの建造物は、敵を追い払うまでの女・子供のための避難施設であったのではないかと思います。

 90坪の建造物は、ログハウスのような丸太組みの箱舟であったのではないかと思います。幅10メートル、長さ30メートル、旧約聖書記述の四分の一程度ですが、年代はノアの箱舟の時代と一致しています。幅12メートルのメイン道路は、箱舟を進水させるための道路であったものと思います。三内丸山遺跡の集落を築き1,500年間繁栄させたのは、同じころメソポタミア南部に大集落を築いていたシュメール人ではなかったかと思いますが定かではありません。

吉野ケ里遺跡の頃

2009-10-03 16:51:00 | つれづれ草
 佐賀県筑紫平野で発掘された吉野ケ里遺跡は、弥生時代、紀元1世紀頃の遺跡であります。弥生時代は、一般的に紀元前300年から紀元300年まで600年間をさしています。中国では、漢の時代から三国時代を経て、晋の時代に入る頃までの時期にあたります。モンゴルでは、同じ時代の紀元前300年から500年間にわたり、遊牧騎馬民族が栄えていました。中国ではこの民族を匈奴(狂暴な野蛮人の意味)と呼び、長い間戦争を繰り返し、秦の始皇帝は、侵略をおそれ万里の長城を築いた。晋の陳寿によって著された歴史書「三国志」の一節に弥生時代の日本について記載された「魏志倭人伝」があります。陳寿は元々蜀の人であり、三国志の中で魏を正統としながらも蜀についての私的な思いがところどころ盛り込まれていると思われます。魏志倭人伝には、邪馬台国という国があり、卑弥呼という女王が治めていたことなどが記述されています。国の所在については畿内説、九州説などがありますが、年代は吉野ケ里遺跡の頃と一致しています。

 博多湾の志賀島で発見された金印には「漢委奴国王」と刻まれています。漢の倭(わ)の奴(な)の国王と読んでいますが、金印の文字は倭ではなく委であります。委は委員や委任などの熟語に用いられ「ゆだねる」という意味で使われます。奴は「ぬ」とも読み野蛮なとか卑しい人を意味します。そのまま読めば、漢がゆだねた野蛮な国の王ということになります。弥生人が自分たちのことをアイヌ(アイヌ語で人間に意味)と言っていてかは分かりませんが、イヌという発音を「委奴」と当てはめたかもしれません。ほとんど漢字の分からない弥生人は「委奴」でよかったと思いますが、後に漢字が伝わり「奴」と言う字の意味を知るようになり、「委」という漢字の変わりに「人」という意味の人偏をつけ「倭」としたのではないかと思います。魏という字は、委と鬼からなっています。したがって魏国とは「鬼にゆだねられた国」ということになります。いつの頃から魏と表現されたのかは分かりませんが、蜀の陳寿が魏に対する想いを表したのかもしれません。

 魏志倭人伝のなかで倭人について「以朱丹其身体 如中国用粉也」と記述されています。赤い顔料をその体に塗るが、中国の粉「おしろい」を用いるようなものだ。という意味であります。アイヌやアメリカに渡ったインデアンが顔や体に描いた模様や入れ墨のようなものであったと思われます。卑弥呼については、「名曰卑弥呼事鬼道能惑衆」との記載があります。名を卑弥呼といい鬼道事に能があり衆を惑わす。という意味になります。中国で鬼という字は、「死者の霊」の意味であり、霊能力があって民衆を惑わかして治めていたものと思われます。また、「献上男女生口三十人」などの記載もあり、たびたび魏の国へ生口「奴隷の意味」を献上しています。当時の日本が単一民族ではなく、(鬼と呼ばれる人など)様々な人種が住み、争いが絶えなかったと思われ、争いで捕らえられた者が奴隷として送られたものと思われます。