"呉越同舟"という言葉があります。熟語から読むと呉と越が同じ舟に乗る。ということになりますが、中国の孫子が最初に例えた言葉です。中国の南部に呉の国と越の国があり、互いに勢力を競い合い、争いが耐えなかった。そうした仲の悪い者同士でも、舟が沈むような事態になれば、互いに助け合い、同じ舟にも乗りこむ。という意味で、生命の危機に陥れば、敵同士でも助け合う。ということです。最近では、単に仲の悪いもの同士が同席するようなときにも使われています。
越という国は、中国の南部、広東州や雲南省に位置し、呉の国は越の北方で、長江(揚子江)の南部に位置していました。越の国自体は、紀元前334年に滅びますが、(農民や町民など)民族の多くは滅びることなく、その地に残るか別の地に移住することになります。越の南はベトナム(越南)で、漢の時代から唐の時代まで中国王朝の支配下にあり、中国の影響を受けています。越の雲南省付近は、越南(ベトナム)に近く、紅河(フォン河)を伝って交流が図られていたと考えられます。辺境の雲南省から多くの人が越南に働きに来ていたものと思われます。越南では、海運(南海貿易)が盛んで、南シナ海から台湾海峡を経て、台湾や琉球諸島などと交易していたものと思われます。さらに対馬海流に乗って、日本(北陸地方)にたどり着き、越の国(越州)を築いたものではないかと考えます。中国を追われた越民族(雲南省付近)が、越南から船に乗って移住してきたのかもしれません。
日本海や東シナ海は、琉球諸島や日本列島側は、北上する対馬海流が流れ、大陸側は、南下する海流が流れています。この海流を利用して、一周することができます。船が東シナ海で難破するとベトナム付近に漂着することもあるといわれています。東シナ海はよく低気圧が発生する場所で、台風の通過も多く、急に天候が荒れることがあり、天気予報のない時代は、航海の難所であったものと思われます。
日本の越国は、北陸地方全域を有する大国になっていましたが、7世紀、壬申の乱以降、三つに分割され、それぞれ越前、越中、越後国となり、現在にその名を残しています。日本人は、雲南省の民族と似ているところがあり、日本人のルーツではないかとも言われています。ベトナムの人とも似ているところがあるかと思います。中国南部に越国を築いた民族の血を引いているのかもしれません。丹後地方など北陸には、浦島太郎の伝説が残っています。琉球諸島(竜宮城)との交流も行われていたのではないかと思われます。
越という国は、中国の南部、広東州や雲南省に位置し、呉の国は越の北方で、長江(揚子江)の南部に位置していました。越の国自体は、紀元前334年に滅びますが、(農民や町民など)民族の多くは滅びることなく、その地に残るか別の地に移住することになります。越の南はベトナム(越南)で、漢の時代から唐の時代まで中国王朝の支配下にあり、中国の影響を受けています。越の雲南省付近は、越南(ベトナム)に近く、紅河(フォン河)を伝って交流が図られていたと考えられます。辺境の雲南省から多くの人が越南に働きに来ていたものと思われます。越南では、海運(南海貿易)が盛んで、南シナ海から台湾海峡を経て、台湾や琉球諸島などと交易していたものと思われます。さらに対馬海流に乗って、日本(北陸地方)にたどり着き、越の国(越州)を築いたものではないかと考えます。中国を追われた越民族(雲南省付近)が、越南から船に乗って移住してきたのかもしれません。
日本海や東シナ海は、琉球諸島や日本列島側は、北上する対馬海流が流れ、大陸側は、南下する海流が流れています。この海流を利用して、一周することができます。船が東シナ海で難破するとベトナム付近に漂着することもあるといわれています。東シナ海はよく低気圧が発生する場所で、台風の通過も多く、急に天候が荒れることがあり、天気予報のない時代は、航海の難所であったものと思われます。
日本の越国は、北陸地方全域を有する大国になっていましたが、7世紀、壬申の乱以降、三つに分割され、それぞれ越前、越中、越後国となり、現在にその名を残しています。日本人は、雲南省の民族と似ているところがあり、日本人のルーツではないかとも言われています。ベトナムの人とも似ているところがあるかと思います。中国南部に越国を築いた民族の血を引いているのかもしれません。丹後地方など北陸には、浦島太郎の伝説が残っています。琉球諸島(竜宮城)との交流も行われていたのではないかと思われます。