すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

金川真大(29),小林薫(44),加納恵喜(62)、2月21日朝死刑執行

2013年02月21日 | ヒトゴロシ
法務省は21日、同日朝に3人の死刑を執行した。
昨年9月の前回執行から5カ月ぶり。昨年12月の政権交代で自民党政権となってから初の執行となった。

法務省によると、執行されたのは、
茨城県土浦市で起きた9人殺傷事件の金川真大死刑囚(29)
奈良市の女児誘拐殺害事件の小林薫死刑囚(44)
名古屋市のスナック経営者殺害事件の加納(旧姓・武藤)恵喜死刑囚(62)

谷垣禎一法相は就任会見で、「被害者感情、国民感情から見て、死刑制度には十分理由がある。基本的に必要だと思っている」と述べ、死刑に肯定的な姿勢を示していた。



3人の死刑が執行されたことについて、人権団体「アムネスティ・インターナショナル日本」は21日、「死刑制度に固執し、政権交代後の執行を恒常化させようとする政府の意思表示で、強く非難する。
死刑執行を停止し、廃止に向けた全社会的な議論を速やかに開始すべきだ」との声明を発表した。


谷垣禎一法相は3人の死刑執行を受けて21日、法務省で会見し、「(死刑は)人の命を奪う極めて重大な刑で、その重みを改めて感じた」と述べた。一方、死刑制度については「現時点で見直す必要はない」と改めて明言した。

谷垣法相は刑場での立ち会いは行わず「(法相として)立ち会った方がいるのは事実だが、極めて例外的で、私は考えていない」と説明。就任から約2カ月で執行に踏み切った経緯や、3人を選定した理由については「十分検討した。個別事案へのお答えは差し控える」と述べるにとどめた。

就任以降、死刑執行に前向きな姿勢を示していた谷垣法相。この日の会見でも死刑制度について「賛成、反対があるのはよく承知しているが、犯罪抑止や被害者感情など、さまざまな事情で存続してきた」と強調した。今後の執行について「死刑確定された方々の心情にも影響するため差し控える」と前置きした上で、判決確定から6カ月以内に死刑を執行しなければならないとした刑事訴訟法の規定に言及。「法の精神を無視することはできない」と主張した。

制度存続に対する海外からの批判については「国際的動向より、治安維持、国民の安心安全の確保を考えるべきだ」と述べた。

一方、日本弁護士連合会の山岸憲司会長は同日、「大臣就任からわずか2カ月足らずで、真に慎重な検討がなされたのか大いに疑問」と執行に抗議するコメントを発表した。





[土浦連続殺傷事件]
平成20年3月19日午前9時過ぎ、茨城県土浦市の無職金川真大(当時24歳)は、近所に住むAさん(当時72歳)を背後から文化包丁で刺して殺害した。通報で駆けつけた茨城県警は、現場に放置されていた自転車から金川を容疑者と断定し2日後の21日に全国指名手配した。

一方、金川はJR常磐線の荒川沖駅付近から携帯電話で茨城県警に「早く捕まえてごらん」などと挑発する電話を繰り返した。そこで、茨城県警は沿線に170名の捜査員を配置。荒川沖駅にも改札口やホーム、駅前のロータリーなど要所に配置して警戒した。

ところが、23日午前11時過ぎにニット帽をかぶり両手に滑り止めのゴム手袋をはめた金川が堂々と改札口から自由通路を通り、男子高校生2人(当時、18歳と16歳)を持参したサバイバルナイフで刺し、騒ぎで駆けつけた私服捜査員の額を刺して逃走。更に、付近にいた男性や女性を次々に刺して、ターミナルビル1階で会社員のBさん(当時27歳)の頸部を刺して殺害。金川は、19日の犯行を含めて2人を殺害、男子高校生と女性2人に重傷、5人に軽傷を負わせた。

犯行直後、金川は駅から300メートル離れた交番から土浦署にインターホンで「俺が犯人だ。早く来ないと犠牲者が増えるぞ」と通報。駆けつけた捜査員が金川を現行犯逮捕した。

金川は、取調べで「人を数人殺せば死刑になると思った」と死刑願望が動機であることを供述。そこで、水戸地検は金川の精神鑑定を依頼。その結果、専門医は極度に自分が重要であると思い込む゛自己愛性人格障害゛が認められるもの、犯行に関する責任能力には問題ないと診断した。これを受けて水戸地検は9月1日に起訴した。

公判では、犯行を認めた上で「ゲームに熱中する一方で、現実の自分には希望が見いだせず、毎日がつまらなかった。父親が定年退職すると、自分が働かねばならないと思い、つまらない毎日と決別するため、確実で苦しまず死ぬには死刑が一番だと思った」と供述。また、「遺族や被害者に対しての謝罪の気持ちは感じない」と犯行に対する反省、後悔も無かった。

平成21年12月18日、水戸地裁は、「極めて残忍な犯行であり、死刑願望を満たすという動機は強く非難されなければならない。わが国の犯罪史上、まれな重大な事件であり、反省の態度も全くない」と指摘して死刑を言い渡した。弁護側は、即日控訴したが同月28日、金川本人が控訴を取り下げたため死刑が確定した。

早くつかまえて

「あなたたちは常識に洗脳されている。俺は洗脳されていない」 金川真大被告初公判

「死刑でなければ、また殺し続ける」らしい金川真大君

死刑判決の金川真大被告には凌遅刑がヨイと思われます






[奈良市女児誘拐殺人事件]
平成16年11月17日午後1時50分頃、新聞配達員の小林薫(当時36歳)は女児を誘拐していたずらをしようと計画。奈良県奈良市内学園中の路上で下校途中の小学校一年生・K子さん(当時7歳)に、「車で送ってあげる」などと言葉巧みに誘って知人から借りていた車の助手席に乗せて誘拐した。

小林は、誘拐現場から10キロほど離れた奈良市三郷町にある自宅のアパートに女児を連れ込み、K子さんの頭を水がはってある浴槽に押さえつけ殺害した。殺害後、小林はK子ちゃんの歯を抜くなど残忍な手口で証拠隠滅を図った。また、K子さんが首からぶら下げていた携帯電話を使ってK子さんの遺体を撮影。この画像をK子さんの母親に送りつけるなど異常な行動をとった。

その後、小林はK子さんの遺体を車に乗せて、誘拐現場から約6キロ離れた同市平群(へぐり)町の宅地造成地の道路側溝に遺棄した。小林は、アリバイ作りのためかK子さん殺害後、スーパーで買った野菜を勤務先の新聞販売店で同僚に配ったり、行きつけのスナックに顔を出したりした。

一方、K子さんの両親は娘が誘拐されたとみて警察に通報。通報を受けた奈良西署が緊急配備をしていたところ、翌日午前0時6分、道路側溝にうつ伏せで倒れていたK子さんの遺体を発見。警察は、直ちに誘拐及び殺人事件として捜査本部を設置した。

捜査本部は、K子さんが誘拐されたところを目撃していた同小学校の女児2人に事情を聞いたが、K子さんが乗り込んだ車は、「緑色の自動車だった」という以外に手掛かりは掴めなかった。また、K子さんが持っていた携帯はGPS機能付きだったが、電源が切られているため追跡ができなかった。

だが、犯人からK子さんの遺体画像を送ってきた通信記録を携帯電話会社に照会すると、平群町、三郷町と斑鳩町、王寺町にまたがる地域であることが判明した。また、翌月12月14日、K子さんの母親に、「次は妹の番だ・・・」という内容の脅迫メールも同様に同一地域からの発信だった。更に、K子さんの携帯に登録されていない携帯にもメールが送信されていることが判明。この所有者を調べると小林薫にたどり着いた。

そこで、捜査本部は小林の内偵を行った。すると、小林は平成3年7月、大阪市内で女児にいたずらして、強制わいせつ罪で起訴されたのをはじめ前科があることが判明した。また、小林の行きつけのスナックでも店の従業員や客に、携帯電話にデータファイルされていた子供の性的暴力画像を見せて一人悦に入っていたなどの証言を得た。

この結果、捜査本部は12月30日午前、新聞配達を終えて店に戻ってきた小林を任意同行を求めて警察署で事情聴取した。と同時に、小林のアパートを家宅捜査した結果、K子さんのランドセルを発見。さらに殺害当日に送られてきた遺体画像の背景に写っていたカーペットやクッションから血痕が発見された。この証拠を突きつけられた小林は、K子さん殺害を認めたため同日、誘拐および殺人容疑で逮捕した。


小林は、大阪市内で出生。3人兄弟の長男として育ったが、小学校4年生の時に母親が3男の出産で死亡。この時の悲しさを、「ぼくは、5時間以上もないた」と小学校の卒業文集につづった。3男は重度の障害であったため、同居していた祖母はつきっきりの状態となり、小林は構ってもらうことがなかった。必然と孤独感が支配していった。また、家庭も経済的に恵まれていたわけではなかった。このため、小林は小学校の頃から新聞配置のアルバイトをした。

中学校を卒業と同時に就職したが、勤務先では長続きせず新聞販売店を転々とした。大阪の新聞販売店では、20万円の金を持ち逃げしたり同僚とトラブルを起こしたり評判はすこぶる悪かった。

平成18年9月26日奈良地裁は小林に対して、「女児の遺体を傷つけた行為に対しては゛死者への尊厳が感じられない冷酷、非情な犯行だ゛と断じ、遺族の処罰感情も極めて強い」としたうえで死刑を言い渡した。小林は、公判では終始反省した態度は見られず、「全国から注目されて自分の名が残ることに満足している」、「早く死刑にしてほしい」と供述していたとおり、控訴せず死刑が確定した。

その後、小林は収監先の大阪拘置所から弁護士に、K子さんの両親へ謝罪の手紙を託していたことが判明した。「霊界というものが存在し、お嬢さんに会えたら、心から誤りたい」という内容だったが、これに対してK子さんの両親は、「謝罪を聞いても娘が帰ってくるわけではない」と手紙の受け取りを拒否した。


イイ顔の出来上がるまで小林薫君の判決.殺意については「(女児を風呂に入れた際に『おっちゃん、エッチ』と騒がれた)

一味違う宅間守・前上博・小林薫他「殺人者はいかに誕生したか」長谷川博一著


・血液型B型
・毎日新聞販売員
・自宅 販売所の住み込みマンション(リバーサイドやまと)
 奈良県三郷町勢野東1丁目 管理会社 山興住宅(SANKO)
・勤務先 毎日新聞西大和ニュータウン販売所 
 奈良県北葛城郡河合町中山台2丁目13-7
・妻と中学生の娘がいるとウソをついていた
・元トラック運転手
・犯行当日は休みだった
・濃い緑の乗用車「カローラⅡ」押収済
・自宅から女児の携帯&ランドセル&ジャンパー&名前入りの給食袋見つかる
・遺体の写真を飲食店店主に見せる
・自宅から大量のポルノコミック
・毎日から揚げ弁当を食べていた


1968年(昭和43年)大阪市住吉区大領5、燃料販売店 ”「小林商店」” の長男として生まれる。
1978年、小林薫が10歳のとき、母親を亡くす。(弟出産時に死亡)
1981年大領小学校卒業(在学時から新聞配達、男女別の更衣に異論を唱えていた)
1984年大領中学校卒業(不良グループの使いっぱしりをする一方で弱い女の子の 泣く姿に興奮)
1984年私立履正社高等学校入学(高校在籍中に幼女わいせつ行為で補導もしくは 逮捕歴あり、卒業できたかどうかは不明) 高校卒業後(一応報道紙面にはこう表記されている)、大阪市内の飲食店勤務のほか、 トラック運転手の経歴もあり。
1989年年大阪府箕面市内で幼女8人にいたずらしたとの強制わいせつ容疑で送検。 またこの1989年頃、窃盗で逮捕されている模様だが詳細は不明。
1991年7月大阪市住吉区内で女児(5歳)を襲い絞殺しようとした殺人未遂容疑で逮捕。 この頃、父親より絶縁を宣言される。 上記事件に関して懲役3年の判決、服役期間は不明。 服役終了後から1996年までの期間の職歴の詳細は不明。
1994年ころ、大阪市生野区小路のやきとり店勤務の情報あり。
1996年ころより毎日、朝日などの各新聞販売所で勤務。(いずれも短期間で解雇) この間、奈良市富雄に近い朝日新聞販売所でも4ヶ月間の勤務歴あり。
2004年6月滋賀県の読売新聞販売所で1ヶ月間勤務。
2004年7月より河合町の毎日新聞販売店にて配達員として勤務。
2004年11月17日、有山かえでちゃん(7歳)(現在各紙は小一女児と記載)を誘拐。 三郷町勢野東1丁目5番12号リバーサイド大和2階の自宅で殺害後、 平群町菊美台2の農道脇に死体遺棄。 また、母親に添付画像つきの犯行メール送信。 11月下旬、なじみの飲食店で「残酷な携帯サイトから送られてきた」と言いながら、 携帯電話の画像を常連客に見せる。
2004年12月14日河合町より「次は妹(実名記載)を狙う」と脅迫メールを女児の両親、 親類などへ送信。その際、被害女児の携帯電話から自分が所持していた知人名義の 携帯に女児の画像をメール送信。
2004年12月30日午前4時半、奈良県警西和署による任意同行。 本件に関して容疑が固まったため同日逮捕。 捜査本部のある奈良県警西警察署に移送される。
2004年12月31日わいせつ目的誘拐容疑で奈良地検へ送検。


前科
1989年 (20歳) 大阪・箕面 幼女強制わいせつ容疑で送検
1991年 (22歳) 大阪・住吉 幼女の首を絞め殺人未遂容疑で逮捕
2004年 (36歳) 奈良 わいせつ目的誘拐容疑で逮捕(幼女誘拐殺人・死体損壊・死体遺棄・脅迫)


「生きるのは面白くない」「早く死刑判決を受けて死にたい」。奈良地裁の公判の被告人質問で、投げやりな態度を見せた小林薫死刑囚(44)。
しかし、2006年9月の同地裁の死刑判決に対し、自ら控訴を取り下げて判決を確定させた後は「生」への執着を見せた。

 07年6月に新たに弁護人を選任し、「控訴取り下げは無効」と控訴審の期日指定を求めて大阪高裁に申し立てた。
08年12月には再審請求もしたが、いずれも認められなかった。

 控訴審の期日指定を求める申し立てを行った際の弁護人の一人、石塚伸一・龍谷大法科大学院教授は「小林死刑囚は、1審の裁判で『わざと殺したわけではない』という主張をきちんとできないままだったことに不満を持っていた。新たな再審請求の準備をしていた最中だったので、主張ができないままの執行は残念で仕方がない」と話した。

(2013年2月21日 読売新聞)

殺人者はいかに誕生したか―「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く
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[名古屋市スナック経営者強殺事件]
平成14年3月14日未明、無職の武藤恵喜(現姓加納、当時52歳)は、名古屋市中区栄のスナックで経営者の千葉春江さん(当時61歳)の首をマイクのコードで絞めて殺害した。

武藤は、窃盗と無銭飲食を目的に客を装って店に入ったが、千葉さんが武藤の挙動に不審を抱き、出入り口のドアの鍵を閉めるなどしたため、武藤と口論になった。そこで、武藤は咄嗟に千葉さんの首を絞めて殺害した。殺害後、武藤は店の売上金約8千円を奪い千葉さんの衣服を脱がせて性犯罪に見せかけるよう偽装した後、逃走した。

武藤は、昭和58年に長野県諏訪市の旅館で経営者の女性(当時64歳)を電気コタツのコードで首を絞めて殺害し、現金などを奪った強盗殺人罪で懲役15年の判決を受けて服役。刑期をほぼ満期で服役後、無銭飲食や窃盗などを繰り返していた。

-死刑判決-
平成15年5月15日名古屋地裁は、「悪質かつ残忍な犯行」と断じたが、窃盗や無銭飲食目的で店に入ったのであり計画性はないと判断。武藤に無期懲役を言い渡した。これに対して検察側は、量刑不当として控訴した。平成16年2月6日名古屋高裁は、「偶発的反抗の面も否定できない」としながらも、「抵抗する店の人を殺害する事態になることは予測できた」と指摘して武藤に死刑を言い渡した。

平成19年3月22日最高裁は、「殺害後に指紋を拭き取ったり、被害者の衣服を脱がして偽装するなど犯行は極めて悪質」と断じて武藤の上告を棄却。死刑が確定した。



絞首刑
現在の日本における死刑の執行は、落下のエネルギーを用いて刑が執行されるので、より細かい区分では「縊首(いしゅ)刑」ともいう。
ただし、首を絞めることは同じなので絞首の一形態であるとするのが最高裁判所の判例(死刑受執行義務不存在確認訴訟)である。


首吊り(縊頸)
固定された索状物に首を掛け本人の体重で頸部を斜めに圧迫すると、頸部大動脈(頸動脈と椎骨動脈)、気管などが強く圧迫され、窒息状態となる。
これらにより、血液が脳に供給されなくなり、中枢の機能が停止し絶命に至る。このことを、法医学では縊頸(いけい、いっけい)と呼ぶ。
多くの場合、自殺に用いられる。必ずしも足が完全に地面から浮いていることは要さず、足や尻をついた状態でも縊死は成立し得る。

絞首刑における首吊りは、絞首台を使用し、高所より落下するエネルギーを用い、その衝撃で頚椎損傷などを起こし、即、意識を失い、確実に死に至らしめる。
頚骨骨折で即死する場合もある。ラットやマウスの殺処分方法である頚椎脱臼と理屈は同じである。
過去の歴史や海外の絞首刑では、こうした落下式ではなく、首に掛けた縄を引き上げる方式も存在する。







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