すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

内藤良一氏を調べていた

2007年06月15日 | ヒトゴロシ













天野良治氏の陳述書http://www.geocities.jp/technopolis_9073/zinkotuhp/arcive/syougen3.htm



黒い太陽731の1・2・3http://blog.goo.ne.jp/tagomago1021/e/fc77f3d0205960f0bdd3d466d69f7b89

石井 四郎
1892(明治25)年6月25日生
1959(昭和34)年10月9日没
千葉県出身
陸軍軍医 医学博士
妻は荒木寅三郎の娘
1921(大正10)年 京都帝國大學医學部首席卒
学生時代はボート部に所属
陸軍軍医となる
1924(大正13)年~1926(大正15)年 京大で細菌学・衛生学・病理学を研究
 この間に博士号を取得
1928(昭和3)年~1930(昭和5)年 ヨーロッパに派遣される
軍医学校教官
1931(昭和6)年 細菌戦部隊創設を提唱
1932(昭和7)年 兵器本廠付
1933(昭和8)年 軍医学校部員
 陸軍軍医学校に防疫研究室を創設・主宰
1933(昭和8)年 ハルピン近郊に加茂部隊を設置
1936(昭和11)年 関東軍防疫部長
1940(昭和15)年 関東軍防疫給水部長
第731部隊長
「石井式濾水器」を発明し、これを用いて給水活動を行う
 自ら隊員たちの前で自分の小便をこの濾過器で濾してきれいな水に変え、それを飲んでみせたと伝えられる
1942(昭和17)年 軍医学校付
1945(昭和20)年3月 軍医中将に昇進
 5月 第731部隊長に再度就任
 8月 ソ連軍の侵攻でハルピンを脱出 帰国
新宿区若松町で陸軍が使用していた建物を利用して旅館を経営
極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷に当たって戦犯容疑を受けるが訴追を免れる
1959(昭和34)年10月9日 喉頭癌のため死去


【終戦と731部隊の免責】
 1945年敗戦ののち、GHQによって東京裁判が行われる。しかし、GHQは731部隊による人体実験、虐殺などの事実を知りながら、それらのデータを手に入れる事を条件に、731部隊に対する一切の責任を免除した。この交渉に当たったのが内藤良一であった。内藤はこの過程でGHQとの結びつきを強める。

【日本ブラッドバンクの誕生】
 1950年、大阪の茨木市で開業医として生活していた内藤の所に2人の旧友が訪れる。宮本光一(日本特珠工業社長、陶器製爆弾、石井式濾水器製作)、二木秀夫(二木班班長として生体実験、主に結核菌の研究)である。この2人の尽力を得て、内藤は厚生省、日本赤十字、GHQに働きかけ、同年11月に「日本ブラッドバンク社」が誕生する。

【元731部隊員を結集させ、売血を開始】
 日本ブラッドバンク社が設立され、まず内藤らが手がけたことは血液の収集とそれをさばく販売ルートであった。まず、血液を集めるために大阪、神戸に採血プラントを設置。名古屋、東京にも採血プラントを設置し、各所長は野口圭一(731部隊隊員)、北野政次(731部隊部隊長)が務めた。1957年には京都プラントができ、やはり所長には731部隊関係者の太田黒猪一郎が就任している。販売ルートに関しては当時、日本国内での絶対的な乾燥血漿の不足、朝鮮戦争への供給など十分あった。

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2 コメント

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Unknown (なかむら)
2007-06-19 06:17:33
悪い人ほど、長生きするんですね。石井四郎って60年も生きたのか。凍傷と気圧の実験はインパクトがありましたね。
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Unknown (tago)
2007-06-19 07:54:46
石井さんは反省とか後悔とかをしてりたように見えるのですが、内藤さんはさらに悪事を重ねていくってゆー反省自省の念が見れないのがますますナイス。「黒い太陽」はもう少し特撮を凝って欲しかったですね。
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