狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

通州事件と「集団自決」の重大な関係

2008-04-21 06:55:28 | ★集団自決

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「集団自決」で住民を「自決」に追いやったのは何か。

当時の日本人は鬼畜米英の捕虜になったら男は八つ裂きにされ、女は辱めを受けて惨殺される信じていた。

更に沖縄には前年陥落したサイパンでの米軍の住民虐殺の情報や、

大陸帰りの帰還兵や従軍看護婦から聞かされた中国兵の日本居留民への虐殺行為の情報も、

鬼畜米英の恐怖に輪をかけていた。

盧溝橋事件の直後、北京近郊の通州で起きた中国人による恐るべき日本人居留民の虐殺事件が沖縄の住民を震撼させ、捕虜になる恐怖を募らせていた。

当時の新聞には大々的に報じられたこの通州事件も、

現在では教科書に載ることもなく、日本の近現代史から忘れ去られつつある。

だが、この忘れ去られた通州事件を視野に入れずして、

「集団自決」当時の敵兵に対する住民の絶望的恐怖感を理解することは出来ない。

通州事件は、昭和12年(1937)7月29日に起こった中国兵による大規な日本人虐殺事件である。

虐殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民の約260名。

中国兵は、婦女子に至るまで、およそ人間とは思えないような方法で日本人を惨殺した。

朝日新聞の報道で概略すると次のようになる。

中国人による蛮行(通州虐殺事件)
当時第二連隊長萱嶋中将。
「私の目撃したものはあまりに残酷であり、一生忘れることのできない印象となっている。旭軒とかいう飲食店では、四十から十七、歳までの女七、八人がみな強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されていた。そのうち四、五名は陰部を銃剣で突き刺されていた。
 錦水楼という旅館はもっとも悲惨で、そこは危急を感じた在通州の日本人が集まった様子で大量虐殺を受けていた」
 
 元陸軍少佐、桜井文雄氏(千葉市)。
 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の遺体が横たわっていた。某飲食店では一家全部首と両手を切断され、十四、五歳以上の婦女は強姦されていた。旭軒では女が全部裸体にされ強姦射殺され、陰部にほうきを押し込んである者、腹部をたてにたち割ってある者など見るにたえなかった。
 東門の近くの池では首を電線で縛り、両手に電線を通し、一家六人数珠つなぎにした死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容にあたり『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のように針金を通された子供片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などがチリ箱の中や塀の陰から出てきた」

『東京裁判(上)』P310 朝日文庫 朝日新聞東京裁判記者団

日本人の感覚では聞くに堪えないが、中国の歴史ではこういった残虐行為はよくあることである。

■通州事件が日本の教科書から消えた理由■
 
では、何故歴史上稀な中国兵による日本の民間人虐殺事件が戦後語られなくなったのか。

全ては、勝者の復讐劇に過ぎなかった東京裁判にある。

東京裁判では敗者に有利な証拠の提出は全て却下された。

日本側弁護団は通州事件を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長はこれを却下した。

復讐心に燃える連合国側には、通州事件に触れると、日中戦争における「日本悪玉論」が崩れてしまうという判断があったからだろう。

中国の歴史では通州事件のような残虐行為はよくあることだが、例え歴史的事実でも、これが語られなくなり教科書から消えると、もはや歴史ではなくなる。

沖縄の「集団自決」を語るとき論者の視点からは既に当時の住民が通州事件から受けた恐怖心への認識は欠落してしまっている。

それどころかサイパンにおける米兵の残虐行為や、

通州事件の身も凍る残虐行為への恐怖心は、

巧妙に「残虐な日本軍」への恐怖心にすり替えられている。

 

■通州事件と「集団自決」の関係■

沖縄住民が大陸帰りの県人(例えばチビチリガマの大陸帰りの従軍看護婦(★注1)から、中国人の残虐性に恐怖し、攻撃してくるして来る米軍にパニック状態になったとしても不思議ではない。

いや、不思議ではないどころか、今後「集団自決」を論じる時にはサヨク勢力が意識的に隠蔽する通州事件を徹底的に解明して、戦時中これが捕虜になる恐怖心に与えた影響を解明すべきだろう。

★注1:チビチリガマの「集団自決」http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu
129.htm

「集団自決」を語るサヨク学者の視点に通州事件の欠片もない。

中国に気を使い、日本の歴史学者が口を閉じ、教科書も新聞も雑誌も一行すら書こうとしないこの世紀の大虐殺。

しかも後の「集団自決」の実行者の心理に大きな影響を与えたと見られる残虐事件。

この事件を【資料保存】として下記に引用及びリンクします。


◆通州事件http://www.history.gr.jp/~showa/tushu.html

盧溝橋事件発生から3週間後の7月29日、北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。
 世に言う「通州事件」である。
 中国に気兼ねする余り、我が国の歴史学者が口を緘(かん)し、教科書も新聞も雑誌も一行すら書こうとせぬこの世紀の大虐殺―――。
 恨みを飲んで殺された200数十名の同胞への鎮魂の気持ちを込めて、この事件を書き留めておこう。

通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。

通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。

1937年7月29日、約3000人の中国人部隊が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。

事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一般的だったが、近年は反乱首謀者である張慶餘の回想記により、中国側第二十九軍との間に事前密約があったとの説も有力になっている。

なお、中国側ではむしろ「抗日蜂起」と看做されている。

 

虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は受理されたので、そこから惨劇の一端を拾い出してみよう。
 当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、7月28日の南苑戦闘に参加した後、30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人は凡(およ)そ次の如く証言した。
 「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
 まさになぶり殺しではないか。
 中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
 「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」

(注)近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊であった。彼らは女中数名を惨殺、残る10数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑したのであった。
 その凄惨極まる処刑場の情況については、当時だれ1人これを知るものもなかったが、当日近水楼に泊まり合わせた同盟通信特派員・安藤利男氏が命がけで銃殺場から脱走し、北京にたどり着いた結果、世界はその実相を知ったのであった。
 安藤氏の手記は「続対支回顧録」に、体験談は寺平前掲書に収録されている。
 安藤氏の体験記は「通州の日本人大虐殺」として「文藝春秋」昭和30年8月号に掲載され、その後「文藝春秋にみる昭和史」第1巻(昭和63(1988)年1月)にも転載されたが、それには、いかにも戦後のものらしい解釈がつけ加えられている。

 支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴(おもむ)いた桜井文雄証人によれば、
 「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(ゴミばこ)の中や壕(ごう)の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」(中村粲著「大東亜戦争への道」展転社刊より)

                     ◇

チビチリガマの「集団自決」を指導した大陸帰りの従軍看護婦

「集団自決」体験記 玉城※※(字儀間)
 昭和十九年当時、私は大山医院で住み込みの看護婦をしていて、後にチビチリガマで「自決」された知花※※さんとは、とても親しくしていました。---彼女は「満州」で従軍看護婦をしていたそうですが、そこで知り合った本土出身の男性との結婚の了解を得るため、両親のもとにいったん帰って来たのだそうです。しかし戦況が悪化して「満州」に戻ることができなくなり、しばらくは大山医院で働いていたそうですが、私が大山医院に勤める頃からは、北飛行場の医務室で看護婦として働いていました。

 彼女は、医務室の薬が切れると大山医院に取りに来たりするので、話をする機会がよくありました。当時は女に生まれて、国のために何が出来るかと考えると、従軍看護婦の道ぐらいしかありませんから、私は従軍して戦場で働き、天皇陛下のために死のうと考えていました。しかし諸事情から、従軍看護婦の道を諦めざるを得なかった私にとって、「満州」で従軍看護婦をしていた彼女は憧れのお姉さんでした。とても有能な人で、看護婦の免許のほかに産婆の免許を持ち、話すことも知的でいつも希望に燃えていました。---

 「※※ちゃん頑張るんだよ、大和魂で負けたらいかんよ。最後の最後まで頑張らんといかんよ。最後はどうなるか分からんし、私もどうなっていくのかわからんけど、もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」彼女はそう言うと、「満州」で「支那事変」帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。

 ----戦争が激しくなると、「満州」にいる恋人のことが心配で落ち着かなかったのでしょう、大山医院の院長先生に相談に来ることもありました。「ねえ、先生、どうしよう、どうしよう」と彼女が言うと、医院長先生は「どうもこうもない。戦争だぞ。お前はもう、ここで働きなさい。満州には帰れないだろう、そうでないと一人の恋人のために命を捨てることになるぞ」と彼女をたしなめていました。

 ※※さんは戦後、チビチリガマの「自決」のことが明るみに出てから、いろいろ思われたようですが、私は彼女が悪いんじゃない、すべて日本の教育が間違っていたんだと思います。彼女は日本の教育をまともに受けただけなんです。日本の教育が、彼女を「大和魂の女性」にしたんだと思います。また従軍看護婦時代に、「支那事変」帰りの兵隊にいろいろ聞いたことも、後の行動に大きな影響を与えたのだと思います(「読谷村史」より抜粋)


従軍看護婦時代に、「支那事変」帰りの兵隊にいろいろ聞いたことも、後の行動に大きな影響を与えたのだと思います。

上記引用の読谷村史の最後の部分引用部分は「集団自決」の心理状況を検証する際に考慮すべき必須事項である。

 

関連エントリー;

「集団自決」は「南京大虐殺」の結果だって? 「チビチリガマの集団自決」

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8 コメント

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Unknown (キー坊(沖縄人))
2008-04-29 00:48:34
相変わらず、沖縄戦における日本軍の所業を正当化する言い訳を延々と行っていますね。

中国戦線において自国を蹂躙された中国軍は、確かに鬼畜のごとき所業を日本人に対して行ったでしょう。が、同様に南京などで、日本軍も鬼畜のごとき行為をそれ以上に中国人に対してやった。

サイパンはどうか知らないが、沖縄戦では米軍は沖縄人に対して、そんな行為をやらなかった。これが現実であります。
むしろ、友軍(日本軍)の方が捕虜になった沖縄人をスパイとみなして次々処刑した。友軍による沖縄住民処刑の数は何百名、いや数千名と見積もられる。これが現実であります。

>「満州」で「支那事変」帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。


この事はつまり、体験者の日本兵から聞かされたという、中国の女性が日本軍に残虐な行為をされた事を言っているのでしょう。
沖縄戦の米兵も天使のごとき人間ばかりではなかったでしょうが、現実には中国戦線で日本兵がやったような所業、あるいは中国兵が日本人にやったような残虐行為はやらなかったのが現実です。


>彼女は日本の教育をまともに受けただけなんです。日本の教育が、彼女を「大和魂の女性」にしたんだと思います。また従軍看護婦時代に、「支那事変」帰りの兵隊にいろいろ聞いたことも、後の行動に大きな影響を与えたのだと思います。(「読谷村史」より抜粋)

宮平秀幸も1992年ビデオテープ証言で、「あの恐ろしい皇民化教育が集団自決のような悲惨な事態を引き起こしたのだ」と、似たような事を言っています。
宮平秀幸は、沖縄のマスコミ関係者には「嘘つき」という事が知れているから報道しないだけですよ。
Unknown (狼魔人)
2008-04-22 06:32:16
◆涼月さん

>しかも攻め込んだのがソ連軍ですから、ソ連軍を絶対に悪者にはしませんでしたし。

戦後、社会主義国は楽園だという幻想に乗った歴史観に日本は毒されましたね。

ソ連を悪く言うのはタブーでしたもの。

こういった諸々のタブーを称して安倍前首相は戦後レジームと言ったのでしょう。



◆akane

何度でも歓迎ですよ。

一つ大事なことを書き間違えました。

>>「俘虜」は悪事を犯して収監された囚人である、という原義は現在全く無視されています。

「俘虜」ではなく「虜囚」との私の書き間違いです。

スミマセン。

肝心なところで間違っては困るのですが(笑)、「俘虜」は戦前から「捕虜」と同意義に使われていましたが、

戦陣訓でわざわざ「虜囚」と戦前でも聞きなれない言葉を使った理由は、戦場といえども(強姦、略奪等を犯して)虜囚の恥を受けてはならない、という訓示だったからです。

「虜囚」を意識的に「捕虜」(俘虜)に誤解させたのは戦後のサヨク勢力の謀略です。
度々お邪魔します (akane)
2008-04-22 00:21:54
>「俘虜」は悪事を犯して収監された囚人である、という原義は現在全く無視されています。

恥ずかしながら初耳でした。比較的活字は読む方、新聞やニュースにも興味あり、授業の世界史日本史も割と好き、といった学生時代でしたが、気づかない間に偏っていた自分の知識や刷り込まれている無意識が結構怖いです。


>太平洋戦線に比べて平穏な状態が続いていた満州

エントリー主旨から逸脱してしまいますが、これは目にしたことがあります。昭和17年末、夫の徴兵を機に家族で暮らしていた満州から本土へ引っ越す決意をした女性の話。
「今、東京は食糧不足で危険。満州が安全だと言ってそちらに行く人もいる」と反対され、満州の社宅奥様仲間からも「私は親をこっちに呼ぶ手配してるのに?」と言われる。それでも夫に万一のことがあって自分が子供達を養うことを考えたら、言葉の通じる故郷の方が何とかなるから、と帰国を決行。
引き留めてくださった社宅の奥様方、お子さん方のほとんどがなぶり殺しか自決されたと、終戦後にやっと知ったそうです。
また、満州の中国人は、子供を欲しがって置いて行けとせがんだそうです。自分に子供が何人いても、日本人の子供は頭がよいからと。終戦の混乱の中でさらわれて売られた子供もかなりいたと、引き揚げ者の間では普通に語られていたようです。

子供の頃に見た、残留孤児帰国事業のニュースだけではこういった当時の空気までは分かりませんでした。
Unknown (涼月)
2008-04-21 23:17:30
満州の話題が出ていたので
満州における動きについてですが、よく左翼連中が言うのは「日本軍は住民を見捨てた」ということ。


ところが実際は、対ソ戦に備えて日本軍は住民に避難指示を出しているんですよね。
日本軍はソ連軍に比べて数で劣るから戦線を縮小せねばならずその地域にいる住民に避難指示出してました。
ところが太平洋戦線に比べて平穏な状態が続いていた満州では避難指示が出されてもそれに従うことなくそのままい続けたと。

結果ソ連軍の侵攻による惨劇が繰り広げられたわけですが、そういった状況を全く無視していますからね左翼は。

しかも攻め込んだのがソ連軍ですから、ソ連軍を絶対に悪者にはしませんでしたし。
Unknown (狼魔人)
2008-04-21 18:18:53
◆きんじょうさん

>「物静かで政治的な主張をしないことで知られる日本が動いた。

物静かも結構だが今回の善光寺のように一応の意思表示をしなければ相手にもされません。

Zenkojと欧米人の好きな禅のZenが、ダブって「物静かに主張する日本の僧」のイメージになったのですかね。

いずれにせよ日本にとっては良いイメージですが、世界が注目する絶好のチャンスに日本の政治家の媚中振りには呆れますね。


◆八目山人さん

>日本軍がフィリピンの邦人を解放したとき、女性全員が強姦されていた話は、昭和30年代には聞いた事があったのですが、今ではgoogleで検索しても、1件も出てきません。

一方、「従軍慰安婦」と称する「戦地売春婦」の婆さんたちが今でも大声を出しているのは恥を知らない文化のせいなのでしょうか。


◆akaneさん

>それは「生きて虜囚の辱めを受けず、降伏するのは恥ずかしく卑怯なことだから潔く死ね」などと教育されたせいではない。

「虜囚」について戦後サヨクによって捏造された「捕虜」という解釈が1人歩きしていますが、「俘虜」は悪事を犯して収監された囚人である、という原義は現在全く無視されています。

これも「サヨク陰謀」の成功した例でしょう。

これについては明日再エントリーの予定ですので覗いて下さい。
満州や樺太での自決 (akane)
2008-04-21 13:55:20
大陸でも日本軍が卑怯にも逃げたせいで
残された民間人は大変な苦労をし、
子供は親切な中国人に助けられて残留孤児になりました、
という物語にされてしまっていますが
(報道の断片や独自授業などによりうっすらとそんな印象が刷り込まれる)
満州で看護婦をしていた人の談話で、まだ軍が残っているうちから
「毒薬を分けてください」と病院に懇願に来る人が大勢いたそうです。

当時の人は、「自決なんかしないで、降伏すれば助かる」
なんて信じられる状況にいなかった。
それは「生きて虜囚の辱めを受けず、降伏するのは恥ずかしく卑怯なことだから潔く死ね」などと教育されたせいではない。
むしろ「相手は虜囚となったらどんな辱めを受けるか分からない蛮人どもだ、親からもらった大切な身、陛下の赤子、ひいては国の財産である命で、お前一人の勝手で粗末にして良いものではないが、そういう状況になったら自決しても許す」という意味合いが強かったのではないかと愚考します。
フィリピンでは (八目山人)
2008-04-21 11:23:26
 通州事件は、祖母の姪が被害に遭っていて、時々聞かされました。(隠れていて、助かったそうです。)それでも日本人のたしなみからだと思いますが、酷い殺され方に就いては、言わなかった。
 サイパンの話も「正論」に載っていたと思います。全く出てこないのが、太平洋戦争が始まって、日本軍がフィリピンの邦人を解放したとき、女性全員が強姦されていた話は、昭和30年代には聞いた事があったのですが、今ではgoogleで検索しても、1件も出てきません。逆に戦前フィリピンへ出稼ぎに行っていた日本人が、フィリピン人にひどい事をしていたなどと言う話が、何件も出てきます。
 この陰謀は、左翼が60年掛けてやってきた成果です。
Unknown (きんじょう)
2008-04-21 09:41:47
通州事件のことはほとんどの日本人が知りませんね。自虐史観の左翼には都合の悪い事件です。

ところで善光寺の聖火リレー辞退に関しての欧米の記事だそうです。2チャンネルにありました。

「善光寺が発した静かな怒りは、世界の全仏教徒のみならず宗派を超えた 宗教指導者が身を切るほどの警告となった」@CNN(アメリカ)

「ZENKOUJIは一滴の血も流さず、一個の石(投石?)も用いずに最大級の デモンストレーションを成し遂げた」@NBC(アメリカ)

「日本の対中外交の勝利をもたらしたのは、政治家ではなく若き僧侶だった」@F2

「2000年の時を越えて、遠い東の国にBuddismの精神が変わらず受け継がれている ことをZenkojiはこれ以上にない方法で示した。我々は、我々と同じ価値観を 共有する日本国民と日本の仏教界に強い尊敬と親しみの念を覚える。」@IDN(インド)

「物静かで政治的な主張をしないことで知られる日本が動いた。拡声器もプラカードも 用いないその静かな抗議の声はしかし、どんな喧騒よりも深く強く世界の人々の心に 届くに違いない。」@BBC(イギリス)

「聖火リレーのボイコットを表明したその日も、Zenkojiは静かだった。その日、 Zenkojiの境内で取材を続ける私は、全身にしみこむ鐘楼の深く低い音に思わず 立ち尽くした。憎しみや悲しみを洗い流すこの聖なる音色1300年にわたり 受け継がれていることは世界の奇跡である。」@AE通信(オーストラリア)

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