狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「恥さらしの祈念碑」宮古島に建立 強制連行された性奴隷 

2008-09-09 07:47:42 | 従軍慰安婦

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沖縄タイムスの歴史観がお粗末なものであることを計らずも暴露したような「慰安婦」に対する恥さらしな記事です。

いや、お粗末というより無知だね。

無念の死 記憶後世へ/宮古島市に「慰安婦」祈念碑【社会】
 【宮古島】太平洋戦争中に、朝鮮から強制連行され、無念の死をとげた「従軍慰安婦」たちを悼み、戦後も苦難に満ちた人生を生きる元慰安婦らの記憶を後世に伝えようと、宮古島市上野野原で七日、慰安婦の祈念碑が建立された。除幕式で参加者らは戦争のない世界の実現へ向け「平和運動の出発地にしよう」との思いを新たにした。(伊集竜太郎)

 碑文は「慰安所」が沖縄には百三十カ所、宮古島には少なくとも十六カ所あったことなどを記録。「彼女たちの記憶を心に刻み次の世代へ託します」と誓った。

 慰安婦の出身国十一カ国と、戦禍の中で女性への性的虐待があったベトナムの計十二カ国の言語で平和希求の思いが書かれた。三つの祈念碑のうち、中央の碑には慰安婦が好きだったという桔梗の花が刻まれた。

 除幕式には、中国に強制連行された韓国出身の元慰安婦、朴順姫さん(85)や慰安所の存在を証言した住民らも参加。朴さんはアリランの唄を涙を流しながら歌い、「安らかに眠ってください」と、アリランの碑へ献花した。

 昨年、日韓の合同調査団が同市内で、地元住民から慰安婦の置かれた状況などを聞き取りした。

 証言者の与那覇博敏さん(75)が被害の事実を後世に伝えようと祈念碑建立を提案、所有地を無償提供した。

 今年二月に市民や日韓研究者らで「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」(尹貞玉、高里鈴代、中原道子共同代表)を発足。十二カ国から約六百の個人・団体が賛同し、碑建立に取り組んだ。

 洗濯帰りの慰安婦が休んでいたのを与那覇さんが目撃した場所の目印として、祈念碑の手前に「アリランの碑」と名付けた岩が置かれた。

 与那覇さんは「小五のころ、この近くに日本軍の慰安所があった。その事実を知っている者として後世へ残す責任の重さを感じている。この場所を平和運動の出発地として活動していく」と決意を語った。祈念碑横に「平和の森」を五年以内に建設予定という。

 参加者は当時、慰安婦が口ずさんでいたというアリランの唄を歌い、桔梗の花を献花して、故人の霊を慰めた。 (沖縄タイムス)

                                               ◇

>朝鮮から強制連行され、無念の死をとげた「従軍慰安婦」たちを悼み、

全国紙では使用されなくなった「強制連行」や「従軍慰安婦」の文字が平気で踊るのが沖縄タイムスの特異な歴史観。

それに「無念の死」と意味深な見出しになっているが、これを書いた伊集記者は、強制連行された従軍慰安婦軍の命令で自決させられ無念の死をとげたたとでも言いたいのだろうか。

普通の人間なら誰しも死ぬときは無念だろうが。

同じ記事を報道するのにも琉球新報は、さすがに「慰安婦」と記して「従軍」ははずしているし、

「強制連行」も「強制」をはずして記している。

哀史刻み、伝える 日本軍「慰安婦」の...(2008.9.8)

哀史刻み、伝える 日本軍「慰安婦」の祈念碑除幕2008年9月8日 【宮古島】日韓の研究者や宮古島市民らでつくる「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」は7日、戦時中に朝鮮人慰安婦が宮古に連行された歴史などを伝える「日本軍『慰安婦』の祈念碑」の除幕式を同市上野野原で開いた。同会によると、アジアを中心に12カ国約600の個人・団体から賛同を得ており、同様の碑は国内でも例がないという。
 碑は3種類。「女たちへ」と題した碑文は、戦時中の女性への性暴力の悲惨さや平和の大切さを訴えた。その両脇の碑文に日韓やタイ、ベトナムなど12カ国語で「全世界の戦時暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世の中を祈ります」と記した。宮古島で「朝鮮人慰安婦」が歌っていた「アリラン」を伝える「アリランの碑」も建立された。
 碑建立は、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の学生、洪允伸(ホンユンシン)さんらが2006―07年、宮古島で「慰安婦」に関する証言の聞き取りを地元住民の協力を得て実施したことなどがきっかけ。
 証言者の一人、与那覇博敏さん(75)が自らの所有地で、小学5年生ごろに「慰安婦」を目撃した場所を建立地として提供することを申し出た。日韓の研究者らも賛同し今年2月に建てる会を発足、寄付を募った。
 除幕式は伊志嶺亮市長や宮古での「慰安婦」の様子を証言した住民、韓国から満州へ連行された元「朝鮮人慰安婦」の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)らも参加し碑に献花。宮古高校吹奏楽部の演奏で「アリランの歌」を斉唱した。
 建てる会の尹貞玉(ユンジョンオク)さん=「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」元共同代表=は「世界各国からここへ来て平和を考える場所になることを願う」、与那覇さんは「この場所を平和への活動の出発点にしたい」と呼び掛けた。(古堅一樹)(琉球新報)

                   ◇

沖縄タイムスの伊集記者と琉球新報の古堅記者を比較すると、どっちもどっちだが、この記事に関する限り琉球新報は比較的まともで、沖縄タイムスは「慰安婦問題」では歴史に無知であることを晒している。

一事が万事で、沖縄タイムスの集団自決へ対する歴史観も、この程度のもだとあきれ返る記事だ。

>同会によると、アジアを中心に12カ国約600の個人・団体から賛同を得ており、同様の碑は国内でも例がないという。

こんな恥さらしの碑を建立するのは宮古島以外に例が無いのは当たり前のこと。

恥を知るなら即刻「大恥晒しの碑」を撤去し、宮古の良識を示すべきであろう。

宮古島の「慰安婦の碑」に関して情報を頂いた太平山さんが、実際に「慰安婦の説明会」に参加され、詳しいレポートをコメント欄に投稿されているので、保存資料として下記に転載させていただきました。

                   ◇

 

①公開   反戦平和暴力団 2008-09-08 12:03:42 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
狼魔人さま

こんにちは。この件については後程、合間を見てもう少し詳しく報告したいと思います。まずは一言、バウネットジャパン・韓国挺身隊問題対策協議会は実に「狡猾」であると。そのやり方といい、主張する内容といい、暴力団といっても過言ではありません。さしずめ「反戦平和暴力団」といったところでしょうか。否、まだ暴力団のほうが可愛いかもしれません。

一例を挙げれば何故に韓国軍がベトナムで犯した犯罪までをここ宮古島で記念しなければならないのだと、心底怒りが湧いて来ます。韓国で建てるのが筋だろうと。

捏造、怨恨、虚言、妄言、因縁付け、難癖付け、脅迫、ゆすり、たかり、傲慢無礼、狡猾、冷酷非情、etc。どこにも平和を愛する心などありません。逆である。私は朝鮮対する認識を根本から変えました。それまでも朝鮮には厳しいとは自身思っていましたが、それでもまだまだ甘かったようです。

それではまた。
 
②公開   元慰安婦証言 2008-09-08 18:28:08 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 

元日本軍「慰安婦」朴順姫さんの証言
(*会場に入場する際に前もって配布される)

1.連行された時の状況

植民地朝鮮の平安南道(今は北朝鮮)元山に住んでいた朴順姫さんは、当時朝鮮半島の中町という近くの村に住んでいた友達の家に遊びに行く途中、朝鮮人1人と日本人の憲兵に「お前、こっちに来い!」と言われ、日本人が住んでいた家に連れて行かされた。そこで4日間監禁された後、夜、元山駅を出発し、そのまま満州の密山に強制連行された。

2.「慰安所」での生活

満州密山に着いたとたん、密山病院で子宮の検査をさせられた。「慰安所」は臨時で建てられたバラックのような粗末な家で「第2慰安所」という看板がついていた。そこで、4年ほど「慰安婦」としての生活を強いられた。

管理人は朝鮮人男性・女性、日本人男性・女性の4人で、常に監視されていた。日本人憲兵は常に点検を行い、民間人との接触は厳しく禁じられていた。連れて来られた朝鮮人女性は15人ほどだった。廊下を挟み両サイドに小さく仕切った部屋が並んでいる構造だった。暖房のない狭い部屋には筵がひいてあった。

朴順姫さんは抵抗した際に体を短剣で刺されたり、殴られたりした。「慰安所」の生活があまりに苦しく、一度逃げたがすぐ失敗し、その時殴られた傷跡が今でも残っている。短剣で刺された傷跡を見るたび、涙がとまらずお酒を飲んでようやく眠りにつく。

3.帰還した際の状況

管理人のうち一人が突然、「急いで避難しよう!」と叫んだので、理由も分からず着の身着のままで「慰安所」を飛び出した。機関車に乗ったり、歩いたりして皆が慌ただしく避難していた。草陰に隠れたり、泥道に伏せたりして逃げてきた。避難の途中、日本が戦争に負け戦争が終わったことを知る。

帰還の際、妹とも再会したが、まさかと思って何度も確認して声をかけたら妹だった。その時はじめて妹も「慰安婦」として強制連行されていたことを知った。

妹は兄弟姉妹のうち一番可愛くて綺麗な子だった。妹と二人で「慰安婦」であったことを他人には内緒にしようと決め、故郷に戻った。住み込み家政婦として働いてきたと嘘を告げた。しかし、戻った二人の娘が「慰安婦」とされたことを直感的に知った父親は、娘たちが戻った4日後に怒りのあまり亡くなった。

3.解放後の生活

故郷には戻ったものの、妹は苦しみを忘れがたいためにお酒におぼれ、酷い咳きをしたりした。朴順姫さんは、故郷に戻ってから二年後、元山の男性と結婚したが、当時、植民地朝鮮の男性は日本の軍隊に徴兵された経験があり、夫も「慰安婦」の存在を知っていた。

そのため隠していた過去を夫が気づくのではないかと不安な生活を送ることになる。「慰安婦」の仕事をさせられた際、日本が定期的に妊娠を防ぐ注射を打ったが、そのせいで子供ができない身となっていた。神様のおかげか、ある寒い冬、道端に棄てられ死にかけていた赤ん坊を救い、自分の養子とする。

60年代後半、偶然、「慰安所」生活を共にした女性と再会し、そこから夫が、朴さんが「慰安婦」であったことに気づいてしまった。その後、法的な離婚はしなかったが夫とは事実的には別れ、生活の支援を受けることが出来なくなった。そのため、養子と二人で生きるための苦難の日々を送ることとなった。

4.現在の状況

朴順姫さんは、「慰安婦」問題が韓国社会で浮き彫りにされた90年代初めに申告を行った。「慰安婦」支援団体の挺身隊問題対策協議会には参加するものの、息子や家族に何か迷惑をかけるのではないかと懸念し、公開的な証言及びメデイアでの報告は避けてきた。

海外での証言活動はほとんど行ったことはない。苦しい人生を思い出すと眠れず、韓国のマツゴリ(濁り酒)を飲んで何時間もかけてやっと眠る。現在はソウルで一人暮らし。息子と孫たちと会うのを唯一の楽しみとしている。

    2002年挺身隊協提供聞き取り


元日本軍「慰安婦」朴順姫さんのプロフイール

1923年 韓国平安南道元山で生まれる。(六男六女のうち三女)  
1942年(19歳) 元山で強制連行
中国東山で5年間日本軍「慰安婦」生活をする
1945年(23歳) 秋、帰還
1947年(25歳) 元山の男性と結婚
1951年(29歳) 朝鮮戦争のため釜山へ非難
養子入籍
2008年(86歳) ソウルで一人暮らし  

 
③公開   元慰安婦証言(2) 2008-09-08 21:20:09 太平山 
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
 会場での証言

証言内容

(1) 年齢は86歳、16歳の時に日本の憲兵に声をかけられ強制連行された。
(2) 反抗したら付け根のところを軍刀で刺された。
(3) 列車の運転手に慰められた。
(4) 着いた時から日本軍人がやって来た。
(5) 一般将兵、将校、民間人も来た。
(6) 6年間慰安所に居た.
(7) ケソンの子供を生んだ方々が連行された。
(8) 毎日が貧しく中国の一番安い菓子さえ食べられな かった。
(9) 身動き出来ず窓から外を覗く毎日だった。
(10) 外出できるのは性病検査のための1週間に1回だけだった。
(11) 韓国釜山出身の医者に慰められた。
(12) 私が何故このような目に遭わねばならなかったのか、もう結婚もできない身となったと泣くばかりであった。
(13) 私が生涯で最も驚いたのが、中国から着のみ着のままで逃げて列車に乗った際、妹に似ていた人がいたのでまさかと思って声を掛けるとそれが正しく妹だったこと。そして私と同じように強制連行され慰安婦をさせられたことを知った時です。

(14) 日本政府には心からの謝罪と補償をお願いしたい。


証言時間は25分~30分程度、通訳を介して行われた。途中顔を覆って泣き出し話が中断することが度々あり控え室へ戻る場面もあった。

以上
 
 
④公開   残念無念 2008-09-08 22:27:53 太平山
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を... 
狼魔神さま

こんばんは。まずは証言者に対する印象として、最初に感じたのが年の割には若いなという印象を私も持ちました。明るかったせいか苦労人という感じは受けませんでしたし、韓国人特有の傲慢で横柄な感じも受けませんでした。只、操られているという印象は拭えません。それは濃厚にありました。

しかし他の取り巻き連中には高圧的で横柄な感じを受け、質問に対しての回答には「傲慢だな、よく言うよ」と思ったものです。無知な連中を教育してやると言った思い上がりが見えましたね。

今回の件はやはり「集団自決訴訟」の第二回控訴審が念頭にあってのことでしょう。援護射撃ということでしょうね。琉球新報とタイムスではタイムス記事が大げさですね。「無念の死を遂げた慰安婦云々」と。慰安婦の95パーセントは生還しているというのに。

会場に来ていた記者は20代~30代の若造記者ばかりでした。聴衆は100人弱、内、東京、韓国からの関係者が20人、報道関係者が10人~15人、残りは革新系の地元支援者ですね。ですから全く政党に関係のない一般の人は皆無ではないかと思います。

地元の一般人は全く関心を持ちませんから、特に保守層は全滅です。その隙を衝かれるのですね。組織的に裏でこそこそとやるものですから全くお手上げです。

まして反戦平和の印籠を見せつけられるとなかなか反対できるものではありません。残念無念ですね。彼女達からすればしてやったりと笑いが止まらないことでしょう。ターゲットは言うまでもない日本政府です。裏では当然韓国政府、中国政府が外交カードで利用することでしょう。

宮古はもうやられましたがこれが石垣、他の本島各地に飛び火することを防げねばなりません。

それではまた。

 

狼魔人さま

言い忘れたことがありました。今回のバウネットジャパン、韓国挺身隊問題対策協議会の証言の仕方や言動、対応などは小林よしのり氏の平成攘夷論の「従軍慰安婦の真実」そのままにそっくりです。吉見教授の本や外務省のホームページを勉強せよと言っていました(笑)。

小林よしのり氏の「従軍慰安婦の真実」は的を得ていて非常に解りやすく優れたものですね。本当に敬服します。全国の若者達には特に一読する事を薦めます。

それではこれにて失礼。
 

 

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29 コメント

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馬鹿馬鹿しい (モノ言うサラリーマン)
2008-09-09 12:42:57
宮古島いいところなんですけどねぇ。まったく宮古島に似合わない。馬鹿馬鹿しいも程がありますね。今度宮古島に行ったら蹴ってこようと思います。
現地調査 (太平山)
2008-09-09 13:00:22

現地調査

宮古島の聞き取り調査で調査団が当時の地元出身の日本軍将校(82歳)から得た証言として慰安所前には兵隊が長い列を作っていたと云うのがありました。これを第一級の関係者証言のように取り上げるのですが、その意図がよく分からなかったのですね。慰安所があったのは周知の事実だし何をそんなに騒ぐのだと思っていましたが、おそらくは「長い列を作っていた」というのを強調したかったのではと考えています。

私は最初、地元出身の日本軍将校と聞いて??でした。年齢を聞いてああこれは幹部候補生のことだと理解したのですね。年齢からすれば最初で最後の昭和生まれの兵隊さんです。昭和20年4月の徴兵ですからわずか四ヶ月の経験しかありません。(宮古島での徴兵は昭和19年10月の徴兵が最初でした)

それを将校と云いますから笑ってしまいますね。初年兵も初年兵です。その初年兵が慰安所に行くことはまずありえません。上官の使役で行ったと言いますが果たしてどうでしょうか。父から聞いても慰安所など見たこともなかったと言っていましたから。当時はとにかく飢えてしょうがなかったと述懐していました。実際に栄養失調で亡くなった方はそれこそ多数でした。戦死者の8割方がそうではないでしょうか。慰安所どころではなかったのですね。

今回の慰安所場所というのは野原の司令部壕の近くですから、高級将校用の慰安婦だった可能性が高いです。それならば食料に関しては兵よりはるかに恵まれた条件にあったことが考えられます。一人の慰安婦が相手できる人数としては一日に10人~20人程度と言われていますから、長い列を作っていたというのも嘘ですね。あの地元出身の将校?の証言も検証する必要があります。

長い列を作っていたというのは千田夏光の「従軍慰安婦」に拠ったものではないでしょうか。その解説に高木俊朗の次の言葉があります。

「日本軍の占領地には、慰安婦という家があった。その前には、兵隊が長い列を作って、順番を待っていた。慰安所の中の粗末な部屋には、慰安婦がいた。本書『従軍慰安婦』には、兵隊の列が三キロメーターに及んだこともあるという。

その長さの列には、三千人以上がならぶ。女の人は十人であったから、一人の慰安婦が一日で、三百七十人以上の男と接したことになる。これは異常な情景である。しかし、これが皇軍といわれた日本軍の管理のもとにおこなわれた。」

これを信じること自体が異常ではないのか、千田夏光、高木俊朗正気か!と怒鳴りたいですね。特に高木俊朗氏は陸軍報道班員として従軍しインパール、抗命、知覧などを著しただけに罪作りな人です。

それではまた。







証言 (太平山)
2008-09-09 15:06:12

狼魔人さま

証言者の証言内容を文書と実際に聞いたものと比較すると、幾つかの疑問点があります。まずは強制連行された年齢が16歳と19歳、慰安婦経歴が6年と5年となっております。

(1) 1942年(19歳) 元山で強制連行
中国東山で5年間日本軍「慰安婦」生活をする

*終戦は1945年ですから5年間日本軍「慰安婦」生活をするというのは間違いです。5年~6年の慰安婦生活が正しいとすれば16歳で強制連行されたという1938~1939年が正しいですね。1937年に盧溝橋事件が勃発します。

(2) 会場証言(5) 一般将兵、将校、民間人も来た。
*ここで「民間人も来た」と言っていますね。軍の慰安婦であればありえないことです。文書には民間人という文言はありませんでした。

(3) 友達の家に遊びに行く途中、朝鮮人1人と日本人の憲兵に「お前、こっちに来い!」と言われ、日本人が住んでいた家に連れて行かされた。

*特にこれには疑問を持っています。憲兵はスパイを取り締まるのが任務の一つで少女を拉致することはいくら何でもありえません。また慰安婦を管理するはずがありません。憲兵隊は軍の警察ですからね。慰安婦に関わることはありえないのです。「朝鮮人1人」とありますからそれが女衒ではないかと考えています。

以上証言を読んでみましたが何か作られたという感じが否めません。現在の感覚からすれば大変苦労したと思われるでしょうが、日本人慰安婦にしろ、当時はそのような状況がごく一般的に見られました。

戦後になっても貧しい家庭の長女が売春婦になるのは珍しくはありませんでした。そしてそれに同情こそすれ蔑視するという風潮は少なかったですね。私は朝鮮人慰安婦よりもこと挙げもせず、黙って死んで行く日本人慰安婦こそ国は救済すべきだと痛切に感じています。マスコミはもっともっとそれに目を向けるべきです。日本人慰安婦こそ本当に哀れではないですか。








キチガイにペン (狼魔人)
2008-09-09 17:30:42
モノ言うサラリーマンさん

慰安婦問題に抵抗力の無い地域を狙って、ウソをばら撒いていくのでしょうね。

今度いったら、本島に蹴ってやってください。



太平山さん

「慰安婦問題」のプロの連中が乗り込んで、宮古島洗脳作戦を展開しているのでしょうか。

ご指摘の行列の出来る売春宿の話とか、年月の辻褄の合わない部分とか、民間人が行列にいたとか、洗い出せば矛盾点はナンボでも出てきますね。

仰るとおり、千田夏光や高木俊朗の妄言の影響だと思われます。


>千田夏光、高木俊朗正気か!

彼らが正気のはずはありません。

キチガイにペンとは彼らのことです。

>私は朝鮮人慰安婦よりもこと挙げもせず、黙って死んで行く日本人慰安婦こそ国は救済すべきだと痛切に感じています

仰るとおりです。

百歩譲って朝鮮人慰安婦に哀悼の碑を建立することを是としても、宮古島に建立する理由は微塵もありません。 朝鮮人慰安婦がいたというだけで建立する理由にはなりません。

自分の国で建立すべきです。

おっと、キチガイにペンの大物を一人忘れていました。

大江健三郎!
Unknown (狼魔人)
2008-09-09 17:34:34
モノ言うサラリーマンさん

訂正です。

×本島に蹴ってやってください。⇒○本当に
何故に (太平山)
2008-09-09 23:41:45

狼魔人さま

遅くからこんばんは。以下の質問ですが

>「慰安婦問題」のプロの連中が乗り込んで、宮古島洗脳作戦を展開しているのでしょうか?<

それは判りませんが祈念碑は一応建立しましたので第1段階の目的は達せられたのではないでしょうか。その後どう出てくるのか?予断は許しませんが。

今さっき小林よしのりの「挑戦的平和論」を読みましたが、あっと!驚いたのがありましたね。私が考えていたものがそのまま描かれていたものですから唸りました。

実はあの証言会に伊貞玉(ユンジョンオク)教授と中原道子教授の発言があります。私が認識を根本的に変えたという発言ですね。紹介しようかと思っていましたが、胸糞が悪くなる言葉ですので躊躇しました。これはもう少し整理して明日紹介しましょう。

冒頭の質問に戻りますが、小林よしのり氏によりますと、現在慰安婦問題というのは下火になっているそうですね。言われて見れば確かにそうです。だからでしょうか宮古島にやって来たのは。

なぜ宮古島なのか?慰安婦の証言は沖縄本島でも石垣でも得られたはずなのに。その理由の一つは市長が共産党系の革新市長だということがまず挙げられます。次に市民運動が盛んであること、識者や教員等がそれを牽引しています。保守の力が絶対的に弱いですね。

そして宮古人の特性として慰安婦問題や防衛問題をはじめとする政治問題に全く関心がないことがあります。沖縄本島では小林よしのり氏を招聘して講演会を開いていますね。お隣の石垣市では石垣青年会議所などが中心となって佐藤守閣下を招聘して各地で講演会行っています。リーダーは「誇りある沖縄」の砥板さんでしょうか。意識が高くリーダー格の人材が豊富ですね。

また日本全国からの観光客が多いのも沖縄本島、石垣島の特徴です。色々な人の目がありますからそこではなかなか活動はできにくいのではないでしょうか。

宮古島にやって来たのが、安倍晋三、中川昭一議員を呑んだあの悪名高き女大蛇(うわばみ)のバウネットジャパンと韓国挺身隊問題対策協議会とは誰が予想できたでしょうか。何の因果か疫病神が来たようなものです。追い払う方法はないものでしょうか?

それではこれにて失礼します。


写真 (モノ言うサラリーマン)
2008-09-10 07:25:28
ここに写真がありました。
http://killkorea.iza.ne.jp/blog/entry/709516/
こんな豪華なものを作るなんて。
税金を返して欲しいです。
Unknown (damedakorea)
2008-09-10 15:26:22
TBありがとうございました。
何故かIzaからTBできないようです。
すみません。
回答 (太平山)
2008-09-10 15:43:58
「モノ言うサラリーマン」さんブログの紹介ありがとうございます。

そのブログにおける2,3の質問に私が答えましょう。

Q1.宮古島市市民は祈念碑建立の事を知っていたのか、あるいは多くの市民が賛同したのか?

A. 答えは否!です。全く判りませんでした。完成後の新聞報道で初めて知りました。唐突で寝耳に水といったのが実感です。多くの市民がそうです。情報が公開されないものだから賛同するしない以前の問題です。秘密裏に建立されたと言っても過言ではありません。


Q2.国税で建立されたのか?
A2. それは否でしょう。国税には会計検査が入ります。世界各地の賛同により建立されたとありますが、それが寄付金を意味するものかは分かりません。

Q3.宮古島には兵員は何名いたのか?
A3.守備隊は約3万人で純然たる戦闘兵士は2万人弱。残りは兵站、後方支援隊の軍属などです。当時の宮古島住民の人口は5万~6万人、内、約1万人は島外へ疎開しています。

以上




語録(1) (太平山)
2008-09-10 16:02:58
伊・貞玉(ユンジョンオク)教授語録

・私は日本におろかな希望を持った。NHKの番組に暴言を浴びせるのが現状であった。

・現在でもアフガン、イラク、グルジアとおろかな戦争は無くならない。

・日本政府の本質的な謝罪がない。

・慰安婦問題では日本が公式謝罪をしない、賠償しない。
・次善策(国民基金のことか?)で新たな政策とはならない。
・国民基金は被害者告発を止めさせるためのもの、あるいは(日本に)免罪府を与えたかのような印象を与えるものである。

・被害者が黙ることは国民的危機である。

・総理大臣の名が入ったお詫びの手紙が来たがそれは飽くまでも総理大臣個人であって国家の正式謝罪とはならない。

・国民基金という名目で巧妙に謝罪や補償を逃れようとしている。

・国民基金を持ち出したのは常任理事国になりたいという当時の日本政府の背景、思惑があった。本質的な謝罪にはならない。

・国民基金を受け取ったら韓国の支援者を裏切ることになる。

・今でも当時は韓国歴史の中で最も暗い時代でくびきを負った時代です。

・歴史の主人公は独立運動を行った戦士だけではない。ハルモニ達も歴史を背負った女性として、歴史の主人公として位置づけし尊重する。決して忘れない。

*( )内は私
*国民基金:女性のためのアジア平和国民基金



語録(2) (太平山)
2008-09-10 16:09:37
韓国挺身隊問題対策協議会幹部の言葉

・慰安婦は奴隷的であった。
・慰安婦は強制的に連れて来られた。
・証言は強制的に連れて来られたことを物語っている。
・証人が何よりの生きた証拠である。
・事実の客観性はない何を選び何に沿うかによる。
・吉見先生によって強制連行は明らかにされている。
・アメリカの公文書によって強制は裏付けられている。

右翼が言う言葉として以下のことを紹介する。
・慰安婦という言葉は聞いたことがない。
・家が貧しかったから慰安婦になった。
・慰安婦は制度としてなかったという。
・慰安婦の存在を否定する。

反論として次のことを述べる。
・河野談話を紹介する。
・河野さんは慰安婦の証言を聞きとても嘘とは思われないと言っている。
・河野さんは(日本国内の反対者に対して)このようなこと(慰安婦問題)を何故これしきの事と言うのかと怒り反論した。
・1940年代に慰安婦公募があった。


語録(3) (太平山)
2008-09-10 16:19:55
中原道子女史(74歳)の言葉

・(日本軍により)慰安婦は植民地から連行された。
・慰安婦は山で隠す。宮古は山がないから目撃者の証言が出る。
・事実の客観性はない何を選び何に沿うかによる。
・(宮古の人は)不勉強である。日本政府の公式ページ、吉見教授の論文(本)を読め。
・右翼は慰安婦は制度としてなかったという。
・1932年慰安所が出来た。
・記憶が重要、天皇が沖縄を売り渡した。
・身を売ったのではない拉致監禁されたのだ。
・奴隷性、奴隷の類似性があった。
・ハルモニ達の記憶を伝えて頂きたい。

参加者の言葉
・100人が(慰安婦を)希望しても一人が否定すればその人権を守らねばならない。

*( )内は私

以上



祈念碑建立の辞(1) (太平山)
2008-09-10 18:36:23

*慰安婦祈念碑建立の辞

平和を愛する人へ

元日本軍「慰安婦」と、関連団体の願いが16年ぶりにかなえられた。1900年韓国挺身隊問題対策協議会が誕生して以来、日本に要求してきた条項でも、2000年に開廷された「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」(以下:「法廷」)でも強く勧告した条項の一つが「慰安婦」のための祈念碑であった。

「法廷」が被害女性を支持する判決を下し裁判が終わった際、被害者達は、日本が今すぐに謝罪と賠償を果たさないまでも、少なくとも、「慰安婦」のための追悼碑建立などで被害者を慰め、世界世論の批判に対応するのではないかと期待した。

現実は違った。右傾化し、歪曲された論議で「法廷」を伝えるNHKの“ドキュメンタリー”が放映された。さらに、歴史歪曲がますます深刻化される中、平和憲法9条まで改悪しようとする試みまでがなされてきた。この状況の中で世を去って行く被害者がますます多くなった。このままでは死ねないとおっしゃりながら・・・。(略)

悲しい体験をされた「慰安婦」の皆さん、日本は未だに公式的な謝罪と賠償はもちろん、事実さえも認定はしていません。ハルモニ、本当に申し訳ありません。

ただ、ここにあなたたちが背負っていた苦難を記憶し、その痛みを分かち合おうと「アリランの碑」を建てました。そして、二度と戦争のない平和の世を祈りながら、祈りの碑を建てました。祈りの碑は、日本軍「慰安婦」が使った11の言葉と、今もなお続いている世界各地の戦争や武力紛争の犠牲とされた女性たちの象徴として、ベトナムを加え12の言葉で刻みました。

本当に、長くお待たせしました。特に、この世を去った被害者の方々に申し訳なく思います。全ての武器紛争時における被害女性ための碑が建った平和の森へと、太平洋の清い海に浮かんでいる宮古島に世界各地の人々が訪れることを願います。そして、私たちは、ここに足を運んだ世界の人々と共に、あなたたちを記憶しながら、二度と戦争のない平和が溢れるこの世を心から祈ります。

2008年9月7日
「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」
韓国事務局 共同代表 尹 貞玉





祈念碑建立の辞(2) (太平山)
2008-09-10 20:27:19
*慰安婦祈念碑建立の辞

女たちへ

日本は1931年中国を侵略、宣戦布告もない侵略を続けた。アジア太平洋戦争はさらに、1941年米英への宣戦布告によって、東南アジア、太平洋地域に拡大、1945年8月15日の無条件降伏によって終わった。この間、14年間にわたり、日本軍は各地に日本軍専用の「慰安所」をつくり、管理し、日本、旧植民地、占領地から少女、女性を虚偽の情報を与えて誘拐・連行し、あるいは暴力によって拉致し、女性達は「慰安所」に監禁され、奴隷状態におかれた。

この事実は、1991年に、はじめて声をあげた一人の韓国人被害女性、金学順(キムハクスン)さんによって、知識としてではなく、現実として、日本人に明らかにされた。こうして日本軍性奴隷制問題解決のための運動がより広範囲にひろがっていった。

国連人権委員会特別報告書ラディカ・クマラスワミおよびゲイ・マクドゥーガルはその報告書(1995・1998)の中で、日本軍「慰安所」制度は「性奴隷制および奴隷制類似慣行の明白な事例」と認定している。

2000年に東京で開催された「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」の判決は、女性に対する戦時性暴力が女性の人権侵害であり、これまで、国際法も、そのジェンダー視点の欠如によりこの犯罪を裁いてこなかったこと、その不処罰の連鎖を断ち切ることが、今もなお続く戦場における、また日常における女性に対する暴力を断ち切る第一歩であることを明らかにした。

2006年、早稲田大学アジア太平洋研究科韓国留学生 洪允伸(ホンユンシン)さんは博士論文の調査のため宮古島を訪れ、そこで、与那覇博敏さんに出会った。彼は少年時代に家の近くに「慰安所」があり、朝鮮人の女性たちが遠くの井戸に洗濯しに行き来していたのを記憶していた。彼女たちはよく井戸からの帰りに道端に腰をおろして休息していたという。戦後、彼女たちが何故宮古島にいたのかを知り、その場所に琉球石灰岩をおいて記憶にとどめていた。いつか彼女たちのために碑を建てたいと思っていた。彼女はそれを尹 貞玉(ユンジュンオク)先生に相談した。

尹 貞玉先生の呼びかけにより韓国・東京・沖縄の共同調査団が作られ、まず、宮古島の証言調査を行った。宮古島には、「慰安婦」についての記憶をとどめている多くの住民がいることが分かった。調査に参加したメンバーと住民が、この「記憶の島」に、碑を建てる運動を始めた。こうして、2007年、「宮古島に祈念碑を建てる会」が、ソウル、東京、宮古島に作られた。

2000年「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」の判決は日本軍性奴隷制にかんして、日本政府は「記憶の保存」をするべきであると指摘している。「日本軍性奴隷制」とはなんであったのか、歴史認識を公的に明確にし、「記念館、博物館、図書館を設立することで、犠牲者とサバイバーたちを認知し、その名誉をたたえること」、そして、教科書などに、この事実を記述し、将来の世代を教育することによって、記憶を未来に伝えることを勧告している。

日本軍性奴隷制の犠牲になって、死んでいった女性たちに、そして、今も苦しみの記憶を語り続ける女性たちに、そして聞いた記憶を未来に語り伝える女性達に、この碑を捧げる。

2008年9月7日
「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」
東京事務局 共同代表 中原道子

*参考事例

韓国挺身隊問題対策協議会(以下挺対協)は日本軍「慰安婦」被害者たちの人権と名誉を回復し、韓日間の歪曲された歴史を正すため1990年11月16日発足しました。この間、日本政府に対し以下の7大要求をしています。

1.戦争犯罪認定 2.真相究明 3.公式謝罪 4.法的賠償 5.責任者の処罰 6.歴史教科書への記録 7.追悼碑と資料館の建設

以上





祈念碑建立の辞(3) (太平山)
2008-09-10 22:00:39

*慰安婦祈念碑建立の辞(3)

碑の建立に思うー「いあんふ」たちへ

2007年3月市議会で、宮古島における「従軍慰安婦」についての質疑があり、一部議員からの「従軍慰安婦問題は地方議会にそぐわない」とする発言で議会は空転、その後「市として『慰安婦』問題調査に取り組むよう」発言した議員はこの発言を取り消し、議会でのやりとりは宮古島市議会議事録から削除されてしまった。

このことに疑問を持った宮古島の女性たちが4月に「宮古島の日本軍『慰安婦』について証言を聞く会」を開催、当時の事を記憶していた証言者から戦時中、日本軍「慰安所」が宮古島に存在し「慰安婦」達を住民が身近に見ていたことが語られた。

これまでの島内外の研究者による調査の上に、5月には日韓合同調査団が伊良部島を含む宮古島各地で「慰安婦」に関する聞き取り調査をし、お年寄りたちから多くの証言を得ることができた。結果、宮古島には少なくとも16ヶ所の慰安所が存在したことが判明した。

戦時中5万2千人の住民の島に3万人の日本兵がやって来た。兵隊たちと一緒に朝鮮人軍夫・朝鮮人「慰安婦」が連れて来られた。日本軍陣地の傍らの建物に慰安婦たちが監視の下に置かれ、建物の外に日本兵が長々と並んでいたという。女性たちは数人で島の中を歩き、島民から唐辛子を分けてもらった。彼女たちにお茶をあげたり、洋服の繕いをした島民もいた。

この調査活動の中で、上野野原の「慰安所」証言者の与那覇博敏さんが「慰安婦」が洗濯の行き帰りに休んでいた場所を記憶していたことを語り、調査団との出会いから「慰安婦」を悼む祈念碑建立の運動が始まった。

故郷の国から遠く離れ、太平洋の西に浮かぶ真夏の太陽が照りつける宮古島に船から降ろされた「慰安婦」たちが見たものは何だったのか。集落のはずれに建てられ兵隊たちが並ぶ「慰安所」のせいぜい3畳の部屋でどれほどの嘆きが彼女たちを襲ったのだろう。

若くて色の白い綺麗な女性達と遠巻きにしか接することが出来なかった島の祖父母達に連なるものとして、女性たちが歩いた道々のあちこちに残る彼女たちの想いを私たちは記憶に残したい。

宮古島の日本軍「慰安婦」の祈念碑は、与那覇さんが記憶する朝鮮の女性達への思い出を伝える「アリランの碑」と、彼の土地を拝借して韓国、日本、沖縄からの賛同で建てられる12カ国の言語で刻まれた祈念碑である。

碑は、戦時中は日本軍司令部基地、戦後は米軍基地、復帰後は自衛隊基地になった野原岳を見渡せる場所に建つ。この碑の背後に、軍隊・基地に翻弄される沖縄の悲劇が重なる。今なお、沖縄本島の米軍基地周辺では女性の性被害が起こっており、宮古島の軍事基地化の危険も去ってはいない。被害を受けた女性たちを悼み、決して過去の過ちを繰り返さぬために、平和な未来を作り上げなければならない。

悲劇の歴史の主役は
「いあんふ」と総称で呼ばれる
生きて苦しんだ一人一人の女性たちであり
碑を建てようとした私たちは
彼女たちの歴史の脇役であり、裏方にすぎない
できるなら「いあんふ」一人一人の名を碑に刻みたい
しかし、「いあんふ」とは誰であったかを語れない私たちはせめて「いあんふ」とは何か
そのことを語り継がねばならない

「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」
宮古事務局 


祈念碑建立の辞(1) (太平山)
2008-09-11 13:42:15

*慰安婦祈念碑建立の辞
  
   平和を愛する人へ

元日本軍「慰安婦」と、関連団体の願いが16年ぶりにかなえられた。1900年韓国挺身隊問題対策協議会が誕生して以来、日本に要求してきた条項でも、2000年に開廷された「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」(以下:「法廷」)でも強く勧告した条項の一つが「慰安婦」のための祈念碑であった。

「法廷」が被害女性を支持する判決を下し裁判が終わった際、被害者達は、日本が今すぐに謝罪と賠償を果たさないまでも、少なくとも、「慰安婦」のための追悼碑建立などで被害者を慰め、世界世論の批判に対応するのではないかと期待した。

現実は違った。右傾化し、歪曲された論議で「法廷」を伝えるNHKの“ドキュメンタリー”が放映された。さらに、歴史歪曲がますます深刻化される中、平和憲法9条まで改悪しようとする試みまでがなされてきた。この状況の中で世を去って行く被害者がますます多くなった。このままでは死ねないとおっしゃりながら・・・。

私が2006年11月に沖縄を訪れた際、宮古島に与那覇博敏氏が「慰安婦」のための碑を建てることを望んでいるとの話を洪允伸(ホンユンシン)さんから聞いた。これがきっかけとなり、翌年の5月に彼に会うことができ、日本と韓国の市民が連携し日本軍「慰安婦」のための祈念碑と平和を願う碑を建立することにした。

この計画に、日本軍性奴隷被害を受けた11カ国の国々が参加することになった。そして、第二次世界大戦後もなお続く戦争と武力紛争下で性暴力を受けている全世界の女性達を象徴して、ベトナムが参加することとなった。

2001年12月ハーグで最終判決がくだされた翌年、日本と世界各国の被害国が東京でシンポジウムを開いた。その時、私たちは、これからがスタートだと結論付けた。もう一歩踏み出して「法廷」の勧告を実行する新たな出発点だと考えたのである。

しかし、シンポジウム後、「法廷」の開廷を提案し、誰より「法廷」の成功を望んだ松井やよりさんも世を去った。そして、被害者の訃報が、日増しに多くなってきている。

悲しい体験をされた「慰安婦」の皆さん、日本は未だに公式的な謝罪と賠償はもちろん、事実さえも認定はしていません。ハルモニ、本当に申し訳ありません。

ただ、ここにあなたたちが背負っていた苦難を記憶し、その痛みを分かち合おうと「アリランの碑」を建てました。そして、二度と戦争のない平和の世を祈りながら、祈りの碑を建てました。祈りの碑は、日本軍「慰安婦」が使った11の言葉と、今もなお続いている世界各地の戦争や武力紛争の犠牲とされた女性たちの象徴として、ベトナムを加え12の言葉で刻みました。

本当に、長くお待たせしました。特に、この世を去った被害者の方々に申し訳なく思います。全ての武器紛争時における被害女性ための碑が建った平和の森へと、太平洋の清い海に浮かんでいる宮古島に世界各地の人々が訪れることを願います。そして、私たちは、ここに足を運んだ世界の人々と共に、あなたたちを記憶しながら、二度と戦争のない平和が溢れるこの世を心から祈ります。

                2008年9月7日

「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」
韓国事務局 共同代表 尹 貞玉


*狼魔人さん、昨日の祈念碑建立の辞(1) は途中を略してありますので、全文である今回のものと替えて下さい。お手数かけます。





Unknown (狼魔人)
2008-09-11 14:53:13
◆モノ言うサラリーマンさん

関連ブログ紹介ありがとうございます。


◆damedakoreaさん

貴ブログへのTBは成功したようですね。今後ともよろしくお願いします。


◆太平山さん

貴重な情報ありがとうございます。

碑文重複の件了解しました。

後で編集して本文に引用したいと思いますのでしばらくそのままにしておきます。

沖縄県民が知らぬ間に宮古島が「朝鮮売春婦恨みの島」になっては困りますので今後もウォッチの必要がありますね。

ヤマタノオロチならぬ、二つ首のウワバミが宮古を飲み込むつもりなんでしょうかね。(笑)

資料があれば書き加えてください。
現地徴兵の証言 (太平山)
2008-09-11 21:57:30
狼魔人さま

こんばんは。宮古島の慰安所の件ですが、昨日今日と当時の現役兵3名に聞いてみました。父は鬼籍に入っています。二人は2ヶ所を知っていました。今話題の野原と西城です。一人は慰安婦そのものさえ知っていませんでした。慰安婦?「ばーやー すさん」(宮古方言で私は知らないの意)教えてくれと言われたのには参りました。19年10月の徴兵です。

もう一人の方は慰安所の近くで駐屯していたため慰安婦を見たことがあると言っていました。自分たちに向かって手を振ったり、手招きをしていたそうです。場所は城辺の西城です。この方は昭和生まれの最後の兵隊で幹部候補生。現在の慰安婦祈念碑については大げさ過ぎると不快感を露わにしていました。

また慰安所については「行ったことはない未成年だし、またそれどころではなかったと」と語っていました。私の父と一緒です。次は東京にいる父の上官達に聞いてみる所存です。地元資料は追って追加します。

まずは途中報告まで。


地元証言 (太平山)
2008-09-12 14:57:33
狼魔人さま

私が今回聞き取りしているのは慰安所の数と慰安婦たちの当時の状況を知る手がかりを得るのが目的です。慰安所が16ヶ所というのは地元の郷土史研究会の調査によるものです。

郷土史研究会は市民運動の中心的存在で今回の祈念碑建立にも大きな役割を果たしました。12年前の調査報告では10ヶ所でした。

調査方法がどのような方法なのか判りませんがおそらくは聞き取りが主体でしょう、資料的価値は低いとみています。

まず証言者および証言内容が明らかにされていませんし検証がなされたかどうかさえ分かりません。慰安所場所が確実に判るのは上野の野原と城辺の西城だけです。調査員は殆どが戦後生まれでリーダー格でさえ70歳には満たないのです。

私からみればメンバーの殆どが軍事知識には疎いのです。これからも慰安所数はどんどん増えることでしょう。発表が楽しみです。

私事で恐縮ですが私が父の証言としているのは父本人から直接聞いたものではなく、父亡き後、母から聞いたものです。父はよく戦争体験を話してくれましたが慰安婦のことは聞いたことはありません。

父の話は確かなもので戦記物でもしばしば見つけることができました。戦中派は高齢で少数ですから果たして確かな証言者がどれ程いるのやら、彼らが調査した証言者に非常に疑問を抱いています。


噴飯もの (太平山)
2008-09-12 15:03:30

今回の祈念碑建立のきっかけとなった早稲田大学の洪允伸(ホンユンシン)さんの調査に次のような言葉がありました。

>3万人もの日本兵が駐屯していたため、住民より軍が目立つほどだったという。沖縄本土と違い、山の少なかった宮古島では、軍が組織的に作った「慰安所」を、住民の目から隠すことは不可能に近かったことも分かった。<

http://www.aisf.or.jp/sgra/active/sgra2008/post_250.php

軍事知識に無知だけでなく一般常識でさえも弁えていないからこういう馬鹿な間違いを起こすのです。平地であろうと隠蔽しようと思えば幾らでも方法は有り容易にできるものです。簡単な話、塀を作ればいいだけの話です。監禁という固定観念があるからそういう発想しかできないのです。

軍は戦場では慰安婦の安全をまず確保しなければならないのです。フイリピンのような周囲が皆敵だという外地では特にそうです。しかし宮古は国内です。周囲から守る必要はないのです。

住民の目撃者が多かった、住民との交流があったということは、監禁はなく慰安婦は自由であったことの何よりの証左ではないですか。現に当時の現役兵も手を振っているのを見たと証言しているのです。

監禁といえば兵士こそそれに近い状態でした。兵は無断で持ち場を離れることは厳禁です。脱走兵と見なされますから。

洪允伸(ホンユンシン)さんに言いたいのですが人間が活動するうえで最も大事なものは何か?それを考えて下さい。

以上突っ込みどころが満載だけに私の能力では時間がいくらあっても足りません。

それではまた。



地元資料 (太平山)
2008-09-12 16:59:47
5. 慰安所跡

宮古には1944年頃から約3万人の将兵の相手として、朝鮮慰安婦が配備されている。慰安婦の数ははっきりしないが、『朝鮮人強制連行の記録』には次のように記している。「慶尚南道統営郡の玉到守さんは、船舶あかつき部隊の16798部隊に属していたが、南方に派遣される途中、宮古島に150人の慰安婦が下航させられるのを見ている」。

慰安所の数は、1992年9月24日奥浜幸子さんが発表した資料によると10ヶ所確認されている。(別紙参照)その中の1つ城辺町下北集落の例をあげよう。「場所は野原嶺の裏手にあり、現在はさとうきび畑である。建物はバラック、北西の長方形の建物だった。

朝鮮人の女性12~15人くらい、年齢は15~20歳の若い女性たちだった。日本名を持った朝鮮の男性が管理していた。となりということもあって、生後まもない子の子守をよくしてくれた」。砂川次郎氏明治41年生証言」

又、当時、宮古で将校用従軍慰安婦であった佳村文子さん(仮名当時22歳)の証言がある。「・・他の女性達は昼2時から夜12時まで、一日数十名の将兵の相手をさせられ、片手にお金を持って、列をなして順番を待っている兵隊達の姿が連日見受けられた・・。」(哀号、朝鮮人の沖縄戦)

更に「沖縄県史第10巻朝鮮人慰安婦の遭難・池村恒正氏」の証言には次の様に記されている。(要点のみ)

○53名の慰安婦が台湾のキールン港から宮古へむけて連れてこられたこと。
○途中、アメリカ軍の攻撃にあい、結局、宮古まできたのは7名の慰安婦だったこと。
○慰安婦を野原の師団管理部へ連れていったこと。

この様に宮古においても植民地朝鮮から、だまされ強制的に連れてこられた朝鮮慰安婦達は民族差別と性差別を受けていたのである。

宮古郷土史研究会著(1995年11月)
「宮古の戦争と平和を歩く」より








検証 (太平山)
2008-09-12 18:22:49
宮古郷土史研究会著(1995年11月)
「宮古の戦争と平和を歩く」

以上も疑問点が多々です。具体的な根拠事例を記しているだけにうっかり信じてしまいそうですが検証してみる必要があります。

Q1.船舶あかつき部隊の玉到守さんの証言について

・実際に宮古島に寄港したのかどうか調べる必要があります。戦史叢書を調べれば判明するでしょう。また下航した慰安婦がそのまま宮古島に留まったのかも調査しなければなりません。

Q2. 「年齢は15~20歳の若い女性たちだった」について。
・どのようにして年齢を判断したのか判りません。作為的なものを感じます。

Q3. 佳村文子さんの証言について

「一日数十名の将兵の相手をさせられ・・」十数名ではなく数十名・・。数十名とは20名~30名と考えますが、それが毎日続いて本当に体が持つのでしょうか?女性に是非聞いてみたいものです。

Q4. 池村恒正氏の証言

これもQ1と同様、戦史叢書等で調べる必要があります。1億人の昭和史にも沈没船の位置は記されていますから案外容易に判るかもしれません。

Q5.「 だまされ強制的に連れてこられた朝鮮慰安婦達・・」について

なぜ慰安婦=朝鮮人と考えるのでしょうか?日本人の慰安婦は全くいなかったと思いでしょうか。いたとしても日本人慰安婦には強制連行はなかったと考えるのですか?広義で言えば当時の朝鮮人だって日本人だったのですよ。日本人慰安婦がいたと考えるのなら、野原の祈念碑の辞には日本人慰安婦にも言及されるべきではありませんか。

世界の性被害の女性のためならば何故に朝鮮のアリランの碑とするのでしょうか?そしてベトナム戦争で韓国軍が犯した戦争犯罪にも全く触れられていませんね。ベトナム女性を悼むのであれば韓国からの謝罪文があってしかるべきです。韓国軍の文言は1字もなく、全て日本軍ですね。ベトナム女性の被害も日本軍のせいにするのでしょうか。

以上を考えると世界の性被害の女性達を悼むというのは全く嘘で、悼むのは朝鮮人慰安婦のみであり日本を糾弾するための碑であるとしか思えません。そこに作為と独善と欺瞞・偽善を感じるのです。

以上








検証(2) (太平山)
2008-09-19 18:57:28
狼魔人さま

こんばんは。

検証をと言いましたが、それが並大抵のことではない事が解ったような気がします。少なくとも短時間では無理である。朝雲新聞社発行の戦史叢書は十数冊は所有しているが残念ながら沖縄戦関連のものが無い。沈没船の時と場所を特定する作業も困難である。艦船は別として商船、輸送船は数が圧倒的に多いだけにその資料を見つけるのは難しい。

父の上官からの証言は得られなかった。一人は既に死亡しており、もう一方はノーコメントであった。解るような気がする。失礼なことしてしまったと後悔しきりである。

郷土史研究会のいうあかつき部隊はネットからいくつか入手することができた。以下の通りである。

・(参考〉「暁(あかつき)部隊とは」

・【暁部隊は、平時編制による陸軍運輸部の名称で呼ばれ、宇品にその本拠を置き、戦時編制により船舶司令部となったものである。船舶司令部の部隊号は暁第2940部隊であった。
 
その隷下部隊は国内各地はもとより海外まで数知れず配備されていた。暁第2940部隊の下に暁第6140部隊があり、戦時編制で野戦船舶本廠となった。この本廠には船舶整備教育隊もあり、外地派遣の野戦船舶支廠も多くあった。
 
又各隊には国民総動員法による動員学徒、女子挺身隊、徴傭工員隊、青年学校も含まれていた。】

【暁部隊は戦闘部隊ではなく、戦地むけの資材の船舶補給部隊だった。全国の軍港に散在し、各軍管区とは別に参謀本部の直接指揮下にあった】

宮古島に下航したという慰安婦150名はあかつき部隊が運んだものなのか、あかつき部隊は戦地むけの資材の船舶補給部隊だったというが、慰安婦も資材扱いということなのか?それとも同伴した輸送船から降りたものを目撃したものなのか。

普通に読めばあかつき部隊が運んだと思われるのだが資材運搬船で非戦闘員の多数の人員を運ぶ余裕があるのか、証言者が朝鮮人だけに疑問である。また乗船してはいないでしょうが、もしかしてあかつき部隊の女子挺身隊を慰安婦と間違えているのではという疑問もある。

南方へとあるが、時からして行き先はフィリピンの可能性が高いと推察するが、あるいは第32軍の第9師団が沖縄から19年12月に台湾へ移動する際に降ろされた可能性もある。






沈没船舶 (太平山)
2008-09-19 19:03:15

宮古島の港及び近海において撃沈された艦船、輸送船舶は以下のとおりである。

(1)昭和20年3月1日 張水港(現平良港)沖
・陸軍輸送船豊坂丸(1,966t)空爆
・海軍輸送船大建丸(2,020t) 空爆
・敷設艇つばめ(450t)空爆

(2)昭和20年1月24日 張水港(現平良港)沖
・第10興神丸(360t)空爆
・第3興神丸(246t)空爆

(3)昭和20年3月27日 張水港(現平良港)沖
・第4辰丸(156t)空爆

(4)昭和20年1月22日 張水港(現平良港)沖
・第2南興丸(834t)空爆

この外、社団法人史料調査会(富岡定俊理事長)の資料によれば、宮古島近海で次のような多くの艦船が撃沈されている。

(5)昭和19年8月9日 宮古島近海
・海軍輸送船昭慶丸(2,557t)雷撃
・貨物船日安丸(6,197t) 雷撃
・貨物船日満丸(1,922t) 雷撃
・陸軍輸送船神天丸(1,254t) 雷撃
・民貨物船第2東勢丸(500t) 雷撃

(6)昭和19年11月22日 宮古島近海
・民貨客船鳳山丸(2,345t) 雷撃
・民貨客船天草丸(2,345t) 雷撃

(7)昭和19年12月19日 宮古島近海
・航空母艦雲竜(20,000t)雷撃

【これらは宮古島向けの軍需資材や物資を積み、陸揚げ中を、あるいは南方から本土向け航行又は寄港中、米潜水艦及び航空機の攻撃を受けて撃沈されたもの、損害状況は不明だが、乗組員の大部分は船と運命を共にしたものと推定されるので、船員の犠牲はかなり多かったようだ。

なお今次大戦を通じて沈められた日本船舶は実に2,394隻。801万8,122tに上り、船員の消耗率は陸海軍の2倍にあたる43%に及んだというから如何に船員の犠牲が大きかったかがわかる。】
 
瀬名波 栄 著 先島群島作戦(宮古島編)より抜粋紹介

しかし宮古島への輸送において最大の悲劇は富山丸の沈没であろう。以下に紹介する。

【昭和二〇年六月中旬頃九州、四国地区で編成を終った独立混成第四十四、同四十五旅団主力は同日二十五日第三十二軍兵器勤務隊、第百二十九野戦飛行場設営隊、宮古島陸軍病院などの要員と共に富山丸(七,〇八九トン)に乗船、鹿児島を出発して南下したが、二十九日朝七時二十分頃徳之島東方沖で米潜水艦の雷撃を受け、一瞬にして沈没乗船部隊およそ四千六百名中、三千七百名が遭難するという全滅に近い損害を蒙った。

生存者は奄美大島古仁屋に収容され、沖縄本島及び宮古島に送られたが、指揮官クラスは殆ど死没して戦力なく、七月から九月にかけて再編基幹要員を本土から輸送し現地召集者を加えて再編成された。】

*「四千六百名中、三千七百名が遭難するという全滅に近い損害を蒙った」絶句である。

他参考本 (太平山)
2008-09-19 19:07:48
私が所有している本で「慰安婦」関連の記事があったのが次の著書である。

・新兵さんよもやま物語(富沢繁)
・陸軍輸送船よもやま物語(富沢繁)
・1億人の昭和史(2・26事件と日中戦争)
千田夏光【“従軍慰安婦”という悲しい存在】

以上の他に戦記作家の豊田穣が著したものがあったが、残念ながら紛失してしまった。氏の著書では意外ではあったが、慰安婦については納得できる内容であったように思う。日本人慰安婦が主人公であった。
 (太平山)
2008-09-19 19:47:16
さて前回私は洪允伸(ホンユンシン)さんに次の質問をしました。

「洪允伸(ホンユンシン)さんに言いたいのですが人間が活動するうえで最も大事なものは何か?それを考えて下さい。」

殆どの人は解ったと思いますが正解は「水」です。宮古島には川はありません。無いことは無いが川と言えるものではありません。当時は上水道はありませんでした。井戸だけです。しかしその井戸も少ないのです。しかも深度は深いのです。井戸は30m~50m掘削しなければ水は出なかったでしょう。

島の中央部では50m近くの深度があります。それですから旧軍でさえも硬い石灰岩質のため作井には失敗しています。そのため飲料水確保には非常に苦労しました。

現在の祈念碑の近くには湧水ヶ所がありました。慰安所が16ヶ所あったというのも宮古島に渡ったという慰安婦人数をもとに計算されたものだと推察しています。慰安所数より慰安婦人数のほうが規模においては重要な要素ですね。それと水の豊富な湧水ヶ所が何カ所あったかです。それからすると16ヶ所は多いと言わざるを得ません。

以上


ライタイハン (1) (太平山)
2013-05-22 22:39:54
橋下大阪市長の「韓国軍もベトナム戦争で女性を活用した」との発言は、good jobでその点においては評価したい。ライタイハンのことを出せばいいのにとイライラしていただけに少しは怒りが収まった。

http://blogs.yahoo.co.jp/tankou_2008/37305499.html

韓国軍のベトナムにおける残虐行為は、宮古島慰安婦祈念碑にもしっかりと刻まれている。以下にそれを紹介する。

アリランの碑

碑文

アジア太平洋戦争期、日本軍はアジア太平洋全域に「慰安所」を作りました。沖縄には130カ所、宮古島には少なくとも16か所あり日本や植民地・占領地から連行された少女・女性が性奴隷として生活することを強いられました。

2006年から2007年にかけて「慰安婦」を記憶していていた島人と韓国・日本の研究者との出会いから碑を建立する運動が始まり、世界各地からの賛同が寄せられました。

日本軍によって被害を受けた女性の故郷の11の言語で、今も続く女性への戦時性暴力の象徴として、ベトナム戦争時に韓国軍による被害を受けたベトナム女性のためにベトナム語を加え、12の言語で追悼の碑文を刻みます。

故郷を遠く離れて無念の死をとげた女性たちを悼み、戦後も苦難の人生を生きる女性たちと連帯し、彼女たちの記憶を心に刻み、次の世代に託します。この想いが豊かな川となり平和が春の陽のように暖かく満ちることを希求します。

この碑をすべての女たちへ、そして平和を愛する人々に捧げます。

2008年9月7日

宮古島に日本軍「慰安婦」の祈念碑を建てる会

ライタイハン(2) (太平山)
2013-05-22 22:45:28
性奴隷だのと虚と欺瞞そして偽善に満ち溢れた碑文だが、「ベトナム戦争時に韓国軍による被害を受けたベトナム女性のために」と記されていることだけはよしとしよう。しかし12か国語で翻訳された碑文は次のようなもので、実に狡猾で彼女らの意図がよく分かると言えるものである。

「日本軍による性暴力被害を受けた一人ひとり女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります。」

We remember the suffering of the individual women who were subjected to sexual violence by the japanese military、

Lament the victims of war-time sexual violence throughout the entire world,

Pray for a peaceful world without any more war.

AUSTRALIA

ちなみに12か国とは韓国、中国・台湾、インドネシア、タイ、ベトナム、オーストラリア、オランダ、ミャンマー、フィリピン、チモール、グアム、日本である。

尹貞玉(ユンジョンオク)女史は2008年の宮古島講演で、日本軍だけを糾弾するのは片手落ちだと思ったのか、ベトナム戦争における韓国軍の行為にも触れ、「私たちは韓国政府にもベトナムに謝罪するよう求めている」と述べた上で次のようなことをはなしたのである。

「韓国兵のベトナム女性による行為は、個人の恣意的な感情によるもので、日本軍のような組織的なものではない。組織的に行った日本軍の慰安婦強制連行が、より悪質で人道的罪は重い。韓国兵とベトナム女性の間には愛情も見られ、生まれた子供は韓国のお父さんに会いたがっている。」そうのたまったのである。

よくもぬけぬけと言えたもんだと、激しく腹が立ったが同時に韓国人の天才的な嘘、言い訳にほとほと呆れながらも感心もし、それにはもう日本人は敵わないだろうと暗澹たる気持ちになったのである。

しかし、韓国からしつこく慰安婦問題で攻撃されるのを防ぐには、ライタイハンで韓国を責めるべきだと私は思う。韓国政府がベトナム政府に謝罪したという話は未だに聞かない。人道的罪で言えば、韓国軍の所業のほうが日本軍慰安婦よりはるかに罪が重いのである。

それともう一つ、慰安婦を語るには日本人慰安婦のことも取り上げるべきである。私はバウネットジャパンの総白髪の中原道子早稲田大学名誉教授に「日本人慰安婦は居ないんですか」と聞いたが、彼女は「日本人慰安婦は捜しても出てこない」とクールに実にクールに短く言い放ったのである。次の言葉を待ったが出ることは無かった。

考えて見れば当たり前のことである。慰安婦の写真は朝鮮人女性がほとんどだが、当然ながら日本人慰安婦がカメラの前に立つことは無かっただろう。それだけは絶対拒否していたに違いない。故郷に知られたらどうなるか痛いほど分かるのではないか。
Unknown (東子)
2013-11-20 19:10:49
「【暗躍列島を暴く】韓国、沖縄で卑劣工作 密かに宮古島に「慰安婦碑」 12カ国語で日本を批判  2013.11.20」
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20131120/dms1311200732000-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20131120/dms1311200732000-n2.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20131120/dms1311200732000-n3.htm

早くから 狼魔人日記でとりあげれてきた宮古島の「慰安婦碑」が、ブエナパーク市議会の「慰安婦の碑を設置すべきか否か」と議論に関係してか、米国から今年7月、宮古島市に対して問い合わせがあったという記事を見つけた。

>宮古島市は、「地元選出の国会議員を通じて『碑は存在するが、私的団体によるものであり、市が建立したものではない』と明確に回答した」(長浜氏)。
注:長浜氏は宮古島市副市長

>まず碑の近くの案内版には「史跡」とあり、まるで公的機関による設置と誤解させるような意図が感じられる。
>碑文には「アジア太平戦争期、日本軍はアジア太平洋全域に慰安所を作りました。(中略)連行された少女・女性が性奴隷として生活することを強いられました」などとあるが、これが事実と異なることは前述したとおりだ。
>さらに、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は9月にベトナムを訪問したが、ベトナム戦争時の韓国軍兵士による民間人虐殺やレイプ事件、ベトナム人女性に産ませた子供たち「ライダイハン」については、一切謝罪していない。

狼魔人日記で指摘されている問題点なので、特に目新しいものはないが、5年経って話題になってきたので、記録としてここに記す。

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