狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

緊急!元渡嘉敷郵便局長・徳平秀雄さんの証言

2007-10-17 05:25:00 | ★集団自決

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沖縄タイムスをはじめ地元マスコミは「不都合な証言」には封をして、県民をイデオロギーの世界へ駆り立てた。

その集大成が「11万人」集会であった。

その余熱が冷めるのを恐れるかのように大人数の「要請団」を次々と東京へ送り込んでいる。

だがこの熱に浮かされたような集団のなかに、民主主義と歴史の検証の関係が分かる人が何人いるだろうか。

拳を天に突き上げるその言動を見ると、殆どの人が民主主義の多数決と、集団の圧力で歴史を変えることを同次元で考えているように思える。

だが、これは民主主義ではない。

彼らは歴史を人民裁判で決めることを要求しているに他ならない。

人民裁判とは、

「多数者が法律によらずに少数者を私的に断罪すること。集団の圧力で行われる吊し上げで物事を決めることをいう。」

                  *

以下に掲載する元渡嘉敷村郵便局長・徳平秀雄氏の手記を、過去に報道した地元マスコミの存在を筆者は寡聞にして知らない。

この詳細な「集団自決」の手記に軍の命令を求めるのは困難だ。

だが、これを目にした「沖縄戦史の専門家」は口を揃えて次のように言うだろう。

「日本軍や戦争体制によって強制された死であり、日本軍によって殺されたと言っても妥当であると考える」

「直接誰が命令したかは、それほど大きな問題ではない。」

「部隊長の直接命令の有無にこだわり、『集団自決』に軍の強要がないと結論付ける見解があるが、乱暴な手法だろう(20)識者に聞く(3) (沖縄タイムス)

これを称して「画一的教条論の羅列」という。

言葉を変えれば「すり替え論」ともいい、もはや論理の一欠けらも見出せない。

                  


 

昭和49年(1974)出版 沖縄県史 第10巻各論編 9沖縄戦記録2

渡嘉敷島の集団自決                         …762P
渡嘉敷村字渡嘉敷
                        元渡嘉敷郵便局長 徳平秀雄

 甲種合格全国一の渡嘉敷村
 私は昭和3年徴兵検査を受けました。県立師範を卒業して、郷里で教職についたばかりでありました。検査場の小禄村の学校には、地元の小禄村の他豊見城村、渡嘉敷村から若者たちが集められていました。
 渡嘉敷は私も入れて18名、人数はいちばん少ないのですが、一目瞭然、私の村はぬきん出た屈強な若者ぞろいで、他村を圧倒的に抑えて、18名中ただ1人が第1乙でその他は甲種合格。しかもその年度の合格率全国第1になり、朝日新聞社から賞状をもらいました。それ以来、連続5回全国第1位の地位を保っていました。

(略)

 3月23日
この村では、適齢の男性は、ほとんど防衛隊にとられ、村長と私とが最後まで招集をうけてはいません。鈴木部隊が引き揚げ、替わって特攻隊の赤松隊が、戦闘の配備につく頃、村長も私も、仕事と云えば、軍の要求を民間におろすことで実質的には、私たちは赤松隊長の下で、働いていたに過ぎません。
3月23日、早朝、私は、その前の日に渡嘉敷を訪問していた鈴木基地隊長の宿舎に挨拶にいっていました。温厚な鈴木隊長は渡嘉敷で陣地構築中、私の家にしばらく滞在していました。その時の謝礼にと、黒砂糖と煙草をわざわざ届けて下さったので、お礼を申し上げようと訪ねた所でした。突然聞き憶えのある爆音です。グラマンに決まっています。私は、鈴木隊長殿、御元気で、私は帰りますと、挙手の礼をして、一直線自宅に戻りました。
軒に吊したザルの中には、昨夜の彼岸祭りの、のこり物が入れてあります。私は、家に入りしな、ザルに手をやり、ワシ掴みに、豆腐やら、モチやら、ほおばりながら、貴重品を革鞄の中に納め役場の壕に行きました。そこには、作業中の兵隊や役場の職員がつまっていて、寸分の隙間もありません。
私は壕の外のついたてに、せいいっぱい身を寄せていました。機銃掃射は砂煙をたてて、地上を這い回っていました。
その頃妻子らは、自持の山の避難小屋で寝泊まりしていましたが、空襲の朝は、ちょうど山から下りて、学校の仮校舎に差しかかった所で、壕を求めて、遁走している私とぱったり会いました。私は有無を云わさず、子供の手をとって、再び山の壕へつっ走りました。田圃のアゼ道を2町にも足りない距離を、走って、1里もの道程のようでした。
空襲は今までにない激しいものでした。渡嘉敷はあちこちから火の手があがり、今に村全体を包まんばかりのいきおいで燃えていました。
私の家は残っていました。しかし向かい会ってる役場といい、私の家といい形が変わっているようでした。入り口の福木の大木が2本、なぎ倒され、裏に廻ると、1番座敷に小型爆弾が投下され、屋根に直径2メートルばかりの穴を開け、一直線に、ちゃぶ台の真中を通り、床に突き抜けていました。一面に飛び散っているのは、先祖の位牌、書籍類、古い道具箱、もうそこは手のつけようもありませんでした。福木のすぐ下には、米、味噌、鰹節など、壕を掘って保存してありましたが、陰も形もありませんでした。23日は、しかしこれでおしまいではありませんでした。夜になると、山といわず、村といわず、焼夷弾を投下して、焼き払っていました。

初めて米兵を見る
23日から始まった空襲はそのまま、24、25日と激しさを増すばかりで、いっこうに、おとろえる気配はありませんでした。とうとう艦砲射撃を見舞わされるまでになっていました。
27日昼、壕を出て小用を足していました。ひょいとなんとなく前方の山の頂を見ていました。まさかとおもった兵隊がてって、こちらを双眼鏡でのぞいているのです。自分のめを疑いました。沖縄にまで米軍が上がってくるなんて信じられませんでした。
とたんに私は身がふるえだし、言葉も出ません。小屋の中で家族の物にどう伝達したか記憶にはありませんが、「アメリカ-が、アメリカ-が…」と言葉はこれ以上出ません。手まねで納得させたのでしょう。
ここは危ない、私たちは、かねて準備してあった西山陣地の後方、恩納河原の避難小屋めざして出発した。誰の命令だったか知りません。その時村民も、私たち同様、恩納河原に向かってぞろぞろ歩いていました

集団自決
那覇に嫁いでいた私の姉は、中学生の長男を残して、10・10空襲で焼け出されたために、私の所に同居していました。私の家族は妻と子供2人。私は末っ子をおんぶし、姉とその小さい子供たち4名をひきつれて、泥んこの中を歩いていきました。
村はずれまで来ると、私の恩師の真喜屋先生御夫妻に会いました。真喜屋先生は、首里の人で、渡嘉敷小学校の校長を最後に永い教員生活を辞められた方で、渡嘉敷を第2の故郷ときめ、そのまま島を去らずにおられた方でした。
先生は、始めは私の誘いも断っていましたが、私は半ば強引に、西山へ皆行くし、あそこなら万一のことがあっても、私がご一緒していますから、面倒を見ることも出来ますと、いうと、そうですかと、ひとことおっしゃって、しぶしぶ私について来られました。私にはこの次に何が起こるのか、見通しがつきませんでした。
私たちは真っ暗闇の中を、手さぐりで進んで行きますと、しのつく雨はいよいよ強く、私たちの行く手をさえぎっていました。末っ子をおぶって、その上にすっぽり被っていた綿入りの丹前は水を吸い込んで、重い荷物になっていました。
恩納河原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空には飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現れ、わいわい騒ぎが起きました。艦砲はいよいよ、そこに当たっていました。
そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。
敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。
防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持ってきた手榴弾を、配り始めていました。
思い思いにグループをつくって、背中合わせに集団をなしていました。自決ときまると、女の子の中には、川に下りて顔を洗ったり、体を洗っている者もいました。
そういう状態でしたので、私には、誰がどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。
私のグループは、私は4才の長男を膝の上に置き、2才の長女は妻が抱いて、私の向かいには、私の妻の兄の村長一家が陣どっていました。
何とか村長はいっていました。私は目をつぶって今、自分が死ぬのを待っていました。私は、何も考えませんでした。つとめて、正常ではなかったかと思います。村長はパカパカ叩いては自分のふところに入れ、それをくり返していました。
発火しない手榴弾にわたしはいら立ち、村長から奪いとって、思いきり、樫の木の根っこに叩きつけるのですが、やっぱり発火しません。周囲は、どかんどかん爆発音を発していました。その時、米軍の迫撃砲がいちだんと激しくなり、ばたばた倒れる者が居りました。このときの迫撃砲で死んだのも少なくはありません。
どかんどかん撃ち込まれる迫撃砲をのがれて、私たちは死にそこねていました。たぶんそうだったでしょう。
その時私は悪夢からはっきり覚めたようでした。村長をせかせて、私たちは、そこを離れました。
姉の長男と長女が手をつないで立っていました。そばには姉と赤児の死体がころがっていました。私たちは西山の日本軍陣地に向かっていました。日本軍に何かしてもらわなくてはならないと自然に足がそこに向いたのは当然です。
西山陣地には着剣した兵隊が立ちふさがり、陣地内に一歩も入れてくれないのです。ワイワイわめきながら侵入しようとした村民に、日本軍は発砲していました。迫撃砲も更に激しく、陣地を追われて逃げまどう村民をおっかけて来るようでした。終始、私の後ろについていた妻が「うん」とうなって、しゃがみこみました。妻は苦しそうに腹を押さえているのですが、指の間から腹わたがとび出ていました。子供だけは必ず助かるよう、私に早く皆と一緒に逃げるよう哀願していました。私は水を置いて、そこを離れ恩納河原下流をめざして下りて行きました。
2日間どうしていたか、記憶にありません。私は再び自決現場に戻っていきました。もしや妻が生きているのではと、しかし妻はどこにも見あたりません。妻がどの変に倒れていたのか方向を知りませんでした。私はその時どうせ生きられまいと思うことと、シンでたまるかという生への執着心が交差しているようでした。この地獄の如き様相をまのあたりにしていると、はっきりと自分というものがわかって来たようでした。
私は死んだ人の持ち物から、米を探して生米を噛み、唾液と一緒に2才の娘の口に流し込んでいました。私は、山を降り茶山を通って、自分の壕にもどって来ました。自決の日から3日目の3月31日でした。(略)

                                              ◇

【追記】

教科書検定を守れ!議員会館前の抗議街宣に結集を

<『語る』運動から『行動』する運動を
         議員会館前で良識派国民の声を上げよう>


“日本軍関与”は朝日が目論む第二の「慰安婦強制連行」
朝日新聞は沖縄戦で起きた住民の集団自決を巡り、意図的なすり替え報道を行っている。9月29日、宜野湾市で開かれた集会決議の「集団自決に軍が関与したことはあきらか」の部分をあたかも歴史の真実と言い張り、教科書検定の見直し諮るのが当然とのキャンペーンを繰り返している。

朝日のねつ造報道と国会議員の無責任をこのまま放置すれば、「日本軍の住民虐殺」というとんでもない歴史偽造が青少年の精神に注入される。『語る』運動では危急の事態を打開出来ない。議員会館前で良識派国民の声を上げよう。

日時:平成19年10月19日(金)午前11時半から

場所:衆議院第二議員会館前(地下鉄・国会議事堂前)

※雨天決行

連絡:(西村090-2756-8794)

【呼び掛け】
主権回復を目指す会
電話03-5281-5502
Fax03-5281-5603

 

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7 コメント

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証言解釈の相違 (なんくる)
2007-10-17 13:09:19
この徳平秀雄さんの手記は「軍命令は無かった」する証言としては使いづらいと思います。
逆に「軍命令が有った」と反論されるかもしれません。

>誰の命令だったか知りません。
→赤松隊長の指示で安里巡査が住民を集めた。

>そこへ防衛隊が現れ、わいわい騒ぎが起きました。
>防衛隊員は、持ってきた手榴弾を、配り始めていました。
→防衛隊員(正規兵)が手榴弾を住民に配って自決させた。

>私の妻の兄の村長一家が陣どっていました。
→古波蔵惟好(新姓:米田)村長は「軍命令が有った」と証言している。

>西山陣地には着剣した兵隊が立ちふさがり、陣地内に一歩も入れてくれないのです。ワイワイわめきながら侵入しようとした村民に、日本軍は発砲していました。<
→日本軍は住民を護らなかった。

■曽野綾子『「集団自決」の真実』
「安里(巡査)氏の否定」について。
「恩納河原へ行く前に、分散していた村民をお集めになったのは、どういう理由だったんですか」
「はい。二十二日に島へ着いて、二十三日がもう空襲ですから。そういうわけで、(赤松)隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておねでしょう。だから部落民をどうするか相談したんですよ。あの頃の考えとしては、日本人として捕虜になるのはいかんし、又、捕虜になる可能性はありましたからね。そしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最期まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最期まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。」

■曽野綾子「ある神話の背景」
以下は、この赤松隊長本人による証言である。
手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵には、これは正規軍ですから1人1、2発づつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います。

■山川「秘録 沖縄戦史」読売新聞社・1969年
戦争当時渡嘉敷島の村長をしていた米田惟好(よねだいこう)
旧姓・古波蔵は「……反省しているだろうと思い、いまさら彼一人を責めるのはよそうと思っていたのに、このシラを切った態度は、常識では考えられない。これでは自決を強いられて亡くなった人達の霊も浮かぶまい」と批判しています。
解釈の問題 (狼魔人)
2007-10-17 19:01:30
なんくるさん


仰る通り、「証言解釈の総意」だと思いますが、

私はこの証言が「軍命あり」の根拠になるとは思えません。

「軍命令あり」の証拠どころか、むしろ「軍の命令はなかった」の反証にさえな思えます。


島を取り囲んだ米艦船の艦砲射撃を避けながら、貧弱な軍装備で本来の目的の「敵との戦闘」の他にパニックに陥った住民の安全にも気を取られ、
必死で窮地を脱出に奮闘する25歳の若き隊長に同情さえ感じます。

◆① >誰の命令だったか知りません。
→赤松隊長の指示で安里巡査が住民を集めた。

安里巡査が住民の避難場所を赤松隊長に相談したので、相談に応じて場所を指示しただけであります。

結果論としてこれを赤松隊長の命令だとか指示だとして、これを根拠に「隊長命令で自決した」と解釈するの無理があります。

それでは、赤松隊長が狼狽している安里巡査の相談に応じたのが悪かったということになります。



◆② >私の妻の兄の村長一家が陣どっていました。
→古波蔵惟好(新姓:米田)村長は「軍命令が有った」と証言している。

曽野綾子氏の「集団自決の真相」にもある通り、古波蔵村長は赤松隊長に終始敵意を剥き出しにしています。

それは貴引用の、
「……このシラを切った態度は、常識では考えられない。これでは自決を強いられて亡くなった人達の霊も浮かぶまい」にも表れています。

これは私の推論ですが、

≪住民を守るべき立場の村長が生き残ってしまったため、贖罪の意識にさいなまれた。 任務或いは職務怠慢どころか、自ら「自決」の指導をしてしまったのだから。

その為には赤松隊長の「軍命令」で死んだことにしなければ住民に言い訳が立たなかった。 従って、戦後も米村と改姓し、島を離れて那覇に在住した。 古波蔵村長は赤松隊長を悪人にしなければ戦後生きていけなかった。≫(推論です)


似たような状況だったが、座間味島と渡嘉敷島の生き残りの大きな違いは、本来島民の安全保護が任務のはずの村長が生き残ったことです。

 ≪それでも「この座間味は真実を言いやすい空気」だという。なぜなら、自決命令を出した村の三役自らが自決して亡くなっているからだ。それに対して渡嘉敷島では「命令者の村長始め、村のリーダーが戦後も存命だったから、大っぴらに言える空気ではなかった」のだ。≫(横浜市立中学校教諭・服部剛氏「正論」より)

古波蔵村長の証言はいろんな思惑が入り組んでそのまま真実として受け取れません。

 

◆③>西山陣地には着剣した兵隊が立ちふさがり、陣地内に一歩も入れてくれないのです。ワイワイわめきながら侵入しようとした村民に、日本軍は発砲していました。<
→日本軍は住民を護らなかった。

本来赤松隊は住民保護の目的で赴任したのではなかった。

敵は日本軍の陣地を目標に攻撃しており、パニックに陥った住民を発砲して追い散らしたのは、結果的には住民の安全を守ったことに成ります。

あのような逼迫した状況下で、それが最善の処置だったかどうかともかく、それが

→日本軍は住民を護らなかった

→軍の命令で集団自決した

という根拠にはなりません。(既に集団自決は決行済みです)



Unknown (通りすがり)
2007-10-17 20:49:01
スレ違いですが...

先日の集会の人数を警備会社が数えたそうです。
http://www.nikaidou.com/

投降が許されたなら… (なんくる)
2007-10-17 21:55:46
知念朝睦さん(少尉・副官)/隊長の命令ない
戦隊長から「集団自決」命令を受けたことはない。「集団自決」に軍として責任があるかということは考えたこともない。

「鉄の暴風」には地下壕の中で将校会議を開き、戦隊長が「非戦闘員をいさぎよく自決させなければいけない」と言ったと書かれているが、そのような事実はない。戦隊長は慈悲のある人だった。しかし、住民が捕虜になることは許さなかった。米軍から脱走してきた少年や伊江島の女性、大城教頭らの処刑は戦隊長の口頭の命令で行った。

大詔奉戴日の儀式は一九四四年九月に渡嘉敷島に上陸してから毎月、軍から将校や兵隊が参加していたが、村の人がいた記憶はない。そこで「米軍が上陸してきたら自決するように」と訓示したこともない。


米軍発表によると慶良間諸島では日本軍は530名が戦死し22名が捕虜となった。
米軍は31名の戦死者と81名の負傷者を出したにすぎなかった。

捕虜となった22名の中に梅沢守備隊長(座間味島)と赤松守備隊長(渡嘉敷島)がいた。
玉砕命令を信じて戦死した530名の兵士達は梅沢守備隊長と赤松守備隊長が
よもや投降するとは思わなかっただろう。
住民達も守備隊長が投降すると知っていれば集団自決をしなかっただろう。
Unknown (狼魔人)
2007-10-18 18:27:36
なんくるさん


>住民が捕虜になることは許さなかった。米軍から脱走してきた少年や伊江島の女性、大城教頭らの処刑は戦隊長の口頭の命令で行った。


「集団自決に軍の命令があったかどうか」

これが議論の唯一のポイントです。

沖縄戦で他に問題になる「スパイ・住民虐殺」等をここでは議論すると論旨がぼけるのでコメントは避けたいと思います。

ただ、徳平秀雄さんの手記には投降後の様子に次のようなくだりがあります。

本人の意思とは関わり無く米軍に「スパイ行為」をさせられた住民がいたことが伺えます。

≪米軍は私を尋問しました。そして日本軍の所在を知らしてくれというのです。日本軍は闘おうにも、出て来てくれないので、徹底的に野砲を撃ち込むのだというのです。
私は途方にくれました。まさか知らすわけにも行かないので、夜中に歩いてきたので一体どこになっているのか知らないと、答えると、アメリカ軍は、それ以上つっ込んだことは聞こうともしませんでした。


私を砲台につれて行き、それから迫撃砲を撃つから、当たって白煙が出るはずだからだいたいそこだと思った所から煙が出たら、ストップをかけてくれといってどんどん撃ち始めました。≫(徳平秀雄さんの手記)


>玉砕命令を信じて戦死した530名の兵士達は梅沢守備隊長と赤松守備隊長が
よもや投降するとは思わなかっただろう。
住民達も守備隊長が投降すると知っていれば集団自決をしなかっただろう。


曽野さんもその著書で書いているように、

「両隊長が有能な軍人だったか、良い人だったか、或いは親切だったかどうかは関係ない」

ただ議論のポイントは「集団自決を命じたかどうか」の一点に尽きると思います。


徳平秀雄さんの手記をどう解釈するかが議論の分かれ道です。


自決命令書 (なんくる)
2007-10-18 18:59:54
>「集団自決に軍の命令があったかどうか」
>これが議論の唯一のポイントです。

玉井喜八村長が作成した「自決命令書」に赤松隊長が署名捺印した。

防衛隊員(正規兵)が手榴弾を住民に配って自決させた。
Unknown (狼魔人)
2007-10-18 19:28:17
なんくるさん

玉井村長の作成した命令書は、戦後、昭和30年前後のことです。

防衛隊員は軍属で有りながら島民でもあるという特殊な存在でした。

手りゅう弾を配ったとされる富山助役も防衛隊員です。

「軍命あり派」の唯一の証拠とされるのが手りゅう弾の解釈ですが意見の分かれるところです。

私は手りゅう弾使用=軍の命令とは思えません。

金城重明氏のほか手りゅう弾以外の自決者も多数います。

だが、これは議論しても平行線です。
裁判の結果を待つ意外ありません。




以下は当日記の「真相を墓場まで持ち込んだ二人」よりの抜粋です。

≪昭和54年、赤松隊長の自宅で自決者の人数を相談した当時の玉井渡嘉敷村長(故人)は元琉球政府職員照屋昇雄さんの証言にも登場する。

「真相を知る村人らは、ひとすら沈黙を守った」と鴨野記者が記するように、真相を知る村人の代表格である玉井村長も、その後沈黙を守ったまま故人となった。

そう、真相を知る村人たちは真相を「墓場の中まで」持って行ったのだ。

だが故玉井村長とともに「真相を墓場の中まで持って行こう」と誓い合ったもう一人の男がいた。

事実の隠蔽に自責の念に駆られた元琉球政府援護課職員の照屋昇雄さんである。

産経新聞への照屋さんの長い証言の中から玉井村長に関する部分を次のように証言している。

≪--赤松元大尉の反応は


 「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」

 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」

 --住民は、このことを知っていたのか

 「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」

 --あらためて、なぜ、今証言するのか

 「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」
産経新聞【2006/08/27 東京朝刊から】 ≫

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