狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

週刊新潮の「集団自決特集」の全文紹介

2009-07-17 00:01:50 | ★集団自決

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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「集団自決特集」掲載の週刊新潮7月15日が発売されて1週間経過した。

5月11日の『うらそえ文藝』による星雅彦、上原正稔両氏の集団自決に関する告発、そして両氏による記者会と、沖縄二紙の捏造体質への告発は続いた。

新聞社としての信用にも関わる致命的な告発にも関わらず、沖縄二紙は沈黙を通してきたが、その波紋は週刊新潮、SAPIOと飛び火していった。

衝撃を受けた左翼ブログは一斉に得意のレッテル貼りや罵詈雑言でこれに応じているようだが、彼らが騒げば騒ぐほど波紋は広がるという皮肉な結果に陥っている。

週刊新潮の特集記事の全文を、2回に分けて以下に引用する。

                  ◆

週刊新潮2009年7月16日号

「集団自決に軍命はなかった」と口に出せない

沖縄「言論封鎖社会」

櫻井よしこ  

沖縄戦での悲劇、集団自決。そこに運命はなかった、と訴えた沖縄のドキュメンタリー作家らの言論を地元メディアは黙殺した。意見表明さえ許されない沖縄の言論封鎖社会の実態とは、果たして如何なるものなのかジャーナリストの櫻井よし子氏がレポートする。

沖縄で生まれ育った上原正稔氏は、長年、沖縄戦を取材してきた。戦争という極限状態は、個々の人間の真の姿を否応なく剥き出だしにする。醜さとともに、至高の美しさも見せてくれる。その人間模様に魅せられて、上原氏は、ドキュメンタリー作家として戦時下の人間の行動を追ってきた。沖縄戦の悲惨さが際立つ理由のひとつは、日本軍が住民を守るどころか足手まといとして突き放し、死に追いやったとされてきたことだ。米軍上陸を目前にした1945年3月、日本軍が住民に命じたとされる集団自決である。

“集団自決の軍命”を最初に報じたのが『鉄の暴風』だ。50年に朝日新聞から、後沖縄タイムスから出版されている。ノーベル文学賞の大江健三郎の氏は同書を基に『沖縄ノート』を著し、集団自決は軍令だったとした。沖縄生まれの上原氏は、軍命は当然あったと信じていたが、取材を通して軍命はなかったと突き止め、衝撃を受けた。氏は07年沖縄の有力紙『琉球新報』での連載「パンドラの箱を開ける時、沖縄戦の記録」でそのことを取り上げようとした。すると、信じ難いことに「新報の方針に反する」として掲載を拒否され連載は中断されたのだ。

異論を封じる琉球新報をはじめ、沖縄のメディアの異常さについて、氏は、小さな文芸誌『うらそえ文芸』第14号(09年5月刊)の星雅彦編集長(77)との対談で詳細に語った。続いて両氏は6月9日、記者会見も行った。沖縄出身の言論人が、公式に記者会見で集団自決軍令説を否定したのは初めてだ。それだけでも報道する価値はある。だが、地元の2大紙、琉球新報と沖縄タイムスは完全に無視した。両氏の記者会見開催までの経過を辿ると、沖縄のメディアが抱える欠陥とその偏向体質が見えてくる。

7月2日、両氏に那覇市内で会った。上原氏は沖縄の人間にとって、集団自決軍令説は「生まれたてのヒナ鳥が最初に見たものを母親と思い込む刷り込みのようなもの」だと語った。「私は今66歳、沖縄に生まれてアメリカ統治下で育ちました。ロングセラーを続ける『鉄の暴風』で刷り込まれた沖縄戦の印象は長年私の中に残っていました。集団自決の軍命は、当たり前のこととして、あったと。何の疑いも抱かなかった。曽野綾子さんが(73年に)『ある神話の背景』を発表して、軍命はなかったことを詳述したときも、そんな話が本当に成り立つわけがないというくらいにしか、読めなかった」

氏の沖縄戦の取材は80年代から始まり、83年には「1フィート運動」を立ち上げた。「沖縄戦に関するアメリカの映像資料などを収集し、戦争の実態を伝えていく運動です。わずか5ヶ月で1000万円が集まりました。しかし、金目当てで活動に参加する人々の醜さも見た。反戦・平和運動とはこんなものかと嫌気が差しました」

氏は自分を反戦・平和の闘士と誤解してほしくないと強調する。戦争で人間が試され、千差万別の究極の物語が生まれる。その間の姿に興味があると語る。沖縄戦の取材を深めた氏は、85年、沖縄タイムスに「沖縄日誌」を150回にわたって連載した。「戦時中のニューヨーク・タイムスの報道に興味を持ち米国の公文書館などで資料を読み漁り、沖縄に紹介したのです。当時、僕はまだ、集団自決は軍命だという前提に立っていました」変化は突然やってきた、氏自身が渡嘉敷島を訪れたときだ。同島では住民300人以上が赤松嘉次大尉の命令で集団自決をしたとされていた。

曽野綾子氏が丹念な取材で軍命説を覆したのも渡嘉敷島でのことだ。「僕はグレンという米軍人の手記の内容を確認するために渡嘉敷に渡ったのです。そこで当時のことを知る数少ない生き残りの金城武徳さんと大城良平さんらから「軍命などなかった」と聞いた。心底、驚いた。大城良平さんは自分の奥さんが自決しているんです。赤松大尉を問い詰めた大城さんは、住民を死なせるので機関銃を貸してくれと村の指導者が言ってきたが赤松大尉が断ったことを知ったそうです。僕の先入観は真っ向から否定され、崩れていきました」

「沖縄の人々の責任」

実は上原氏は、このときの取材の成果を96年1月1日から同25日まで琉球新報で報じている。連載「沖縄戦ショウダウン」には、赤松隊長の副官だった知念朝睦氏の言葉が、次のように引用されている。「赤松さんは自決命令を出してない、私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」 軍命を否定した上原報道は意外にも、96年当時、なんの非難も受けなかった。「むしろ反応は上々でした。担当記者もよく調べたと言ってくれたほどです。けれど、人間は忘れてしまう。その後、大江氏に対する裁判が始まり、教科書の集団自決記述が問題になり、軍命の有無が殊更話題になりました。そして、私は琉球新報の記者から再び沖縄戦の連載を持ちかけられました」

大江氏の裁判とは、座間味島で集団自決を命じたとされる梅澤裕元少佐らが、「沖縄ノート」の著者の大江氏らを名誉毀損で訴えた裁判のことだ。05年に提訴された同裁判は、大阪高裁が「元戦隊長らが直接住民に命じたかどうか判断できない」とする一方で、名誉毀損は認めない判決を下し、現在、最高裁に上告中だ。上原氏は先の取材で、島の元住人、比喜喜順氏から「赤松さんは人間の鏡。我々住民のために、一人で泥を被り、一切弁明することなくこの世を去った。赤松さんのご家族のためにも、本当のことを世間に知らせてください」と頼まれた。事実を知った今、赤松氏や梅澤氏を悪者に仕立て上げた沖縄の人々の責任は重いと上原氏は感じている。

真実を明らかにして、両氏の名誉を回復し、謝罪すべきだと考えている。そんな思いもあって、上原氏は新たな連載の誘いを受け入れた。氏は96年の連載で取り上げた集団自決軍命説を否定する記事も再度書くつもりだと、あらかじめ琉球新報側に説明し、連載のタイトルを「パンドラの箱を開ける時」と決めた。連載は07年5月26日に始まり、第1章は6月16日に終わった。第2章は翌週の6月19日から始まるはずだった。「ところが、6月18日、琉球新報に行くと、担当の若い記者がとても怖い顔で、『上に来い』と。5階に行くと、別の3名の記者がいて、『これ(第3章の記事)はストップする』と言うのです。

理由をきくと『新報の方針に反する』『96年の沖縄戦ショウダウンと同じじゃないか』と難癖をつけて拒むのです」 上原氏は、記者が週末に上京していたことを思い出した。「大江裁判が継続中であり、記者は否定したが、彼が大江氏にあって相談した可能性があると推測した。琉球新報との話し合いは1時間を越えた。上原氏は4人に吊るし上げらたと感じた。「こんなことでは連載は続けられない。第2章を載せないのなら、他の章も含めて連載を止めるぞ」 記者が言った。 「ああ構わんよ」 上原氏が振り返る。 「薄ら笑いを浮かべ、僕を見下すような視線でした。ここまでくれば売り言葉に買い言葉。僕はすぐに記者会見を開くと言った」 だが、翌日、記者が再度、接触してきた。「上司の当時の編集局長にうまく折り合いをつけるように言われたのでしょう。彼は僕の長年の友人です。彼から、記者会見だけは止めてくれ・・・・・と頼まれ、僕は渋々、承諾したのです」

「掲載拒否」

丁度同じ時期に「うらそえ文芸」の編集長の星氏も似たような経験をした。「上原さんの連載中断の約ひと月後、私も琉球新報から原稿掲載を断られました。集団自決軍命説を否定する内容です。文化部の部長から「今回は掲載できない」と言われました。理由は「今回の状況にあわない」というそれだけでした」

星氏は沖縄県の文化協会会長、県立芸術大学理事長、国立劇場おきなわの理事をつとめる人物だ。そのような人物が、今、軍命はなかったと公に発言しているのだ。「私の場合は、なぜ、今まで公に発言しなかったのかと問われるべきかもしれません。なぜなら、もう40年も前沖縄の本土復帰の前から軍命説に疑問を抱いていたからです。1960年代末に、「沖縄県史第9巻」の執筆を依頼され、沖縄戦の実地調査で「鉄の暴風」に出てくる地域にも足を運びました。そして発見したのは「鉄の・・・・・」の多くの間違いでした。地名、日付。極めつけは集団自決を命じたとされる梅澤隊長が朝鮮人の慰安婦と一緒に死んだと書いていた。周知のように、梅澤さんは今もご健在です。

梅澤さんが軍命を下したと証言した宮城初枝さんにも会いました。けれど様子がおかしい。梅澤さんのことを問うと口を噤むのです。そのときから私は軍令を疑い始めたのです。
星氏は、或る日、「鉄の・・・」の取材者として活躍した大田良博氏に尋ねた。「梅澤さんは死んだと書いてあるが、まだ、生きている、おかしいぞ」「まあ、そんなところもあるねぇ」と太田市は苦笑いして、口を噤んだという。「私は長い間明確な発言を控えてきました。おだやかな表現で問題提起しただけです。にもかかわらず、琉球新報は掲載拒否です」 一方、連載中断で上原氏の言論を封鎖した琉球新報は上原氏に新しい接触を試みていた。中断から4ヶ月後、先の編集局長直々に、連載開始を依頼したのだ。

但し、集団自決は軍命ではないと書かないという条件が、口頭で、伝えられた。「僕はそこで突っぱねてもよかった。けれど、連載は数年間ということだった。僕の側にも伝えたい物語がたくさんあった。いつか真実を書くチャンスもあると期待した。また連載再開の道筋をつけた編集局長をこれ以上傷つけたくない思いもあった」

(続く)

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