狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

宮城晴美氏の苦悩(2)-真実味ない「決定的証言」

2008-10-14 08:16:40 | ★集団自決

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真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 2部 <4>

宮城晴美氏の苦悩(2)-真実味ない「決定的証言」

同じ証言、既に著書に引用

 「戦隊長による命令があったかどうかは分からない。しかし、住民の『集団自決』は軍の命令や指示によるもので、その最高責任者は部隊の指揮官である梅澤氏だ」。七月二十七日、大阪地裁で証人尋問に立った宮城晴美氏(57)は、それまで梅澤隊長の自決命令を否定する立場だったが、今年六月二十四日、座間味村の宮平春子さん(80)に取材して認識を変えたと語った。

 春子さんから、兄で兵事主任だった宮里盛秀助役(当時)が「軍からの命令で敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」との発言を聞き、これを軍命令の「決定的な証言」と受け止めたという。

 だが、この証言は目新しいものでもなければ、決定的でもない。なぜなら宮城氏は、この証言を既に知っている。それは、宮里助役の父、宮村盛永氏の自叙伝(昭和三十一年十月起稿)にある。

 息子の盛秀氏が「今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさい」と父に語っており、宮城氏は『母の遺したもの』二百十七ページに引用している。春子さんはその場にいて、兄のこの言葉を聞いていたのである。

 宮城氏は、盛永氏の自叙伝でこの発言を読みながらも、隊長の自決命令はないと判断したのである。なぜか。昭和四年から九年にかけて座間味村長を務めた宮村盛永氏の自叙伝は「集団自決」騒動が社会問題化する前に書かれたもので一級の資料である。これを読めば、当時の村民の息遣いが感じられる。

 <(三月)二十四日、午前九時からグラマン機はますます猛威をふるい、日中は外に出ることは不可能であった。敵の上陸寸前であることに恐怖を感じながら、この調子だと家族が全滅するのも時間の問題だと考えたので、せめて部落に居る盛秀夫婦、直(注・五男)、春子とともに部落の近辺で玉砕するのがましではないかと家族に相談したら、皆賛成であった。同日の夜、自分は座間味の壕に帰り、村の情況と家族の安否を尋ねたら、皆元気いっぱいで覚悟の活動をしていた。(略)

 (二十五日)午後九時頃、直が一人でやって来て「お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員で玉砕しようではないか」と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。>

 そこに記されているのは、村人の玉砕に対する潔い覚悟と準備の様子だ。軍や隊長の命令という字句は一つもない。実際、初枝さんは、盛秀氏が梅澤隊長に向かって「老人と子供たちは軍の足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。弾薬を下さい」と申し出た場に立ち会っている。それを止めたのは、ほかならぬ梅澤隊長だ。直接、梅澤隊長が自決または玉砕命令を出したと証言する人物はこれまで一人も出ていない。

 こうした当時の状況、初枝さんの証言、盛永氏の自叙伝などを総合すれば、「忠魂碑前での玉砕命令」は、盛秀助役が、村民や自分の家族が混乱も未練もなく自決できるようにと自ら考え出したものとみるのが自然であろう。宮城氏はそう判断し、「結局、住民を敵の『魔の手』から守るために、盛秀は自分や妻子の命をもかけて『玉砕』を命令し、決行した」と書き切ったのである。

 このように、『母が遺したもの』執筆時、「玉砕命令」は梅澤隊長からではなく盛秀助役が発したものと判断した宮城氏は、春子さんが聞いたという、兄の「玉砕命令」発言の詳細を聞こうとは思わず、ただ村民の玉砕場面を詳細に聞き、それを三ページも割いて書いている。一部を紹介する。

 <盛秀の妹の春子(一九歳)は、遺していたご飯をおにぎりにして、家族一人ひとりに配った。あわただしい食事を終えると、子どもたちから先に晴れ着を着せ、全員身じたくを整えた。出発の前、七歳、六歳、三歳の三人の子どもの前にひざまずいた盛秀は、三人をひとまとめに抱き抱え、これからお父さんと一緒に死のうね。みんな一緒だから怖くないよ」と、頬ずりしながら、しばらく子どもたちを強く抱きしめた。

 涙声はまもなく嗚咽(おえつ)にかわった。それから杯に水を入れて父親の盛永の前に進み、「お父さん、この世では十分親孝行できませんでしたが、あの世ではきっと孝行します」と水杯を交わした。

 親、きょうだいとも涙、涙で、あの世での再会を約束した。

 盛秀の妻はまだ一歳にもならない三女を背負っているため、三歳の次女を義妹の春子に預けた。

 「妹をお願いね。あの世に行ってから必ず会おうね」と涙をぬぐいながら固く春子の手を握った。……>

 宮城晴美氏が法廷で「春子さんへの取材が十分できなかった」と語ったのは正直ではない。新米記者でもあるまいに、最も肝心だと思っていたことを取材せず、本にしてしまったなどという釈明を誰が信じようか。ただ、当時は春子さんに取材しながら、家族の最期の情景こそ「決定的証言」と感じていたというのが真相であろう。

(編集委員・鴨野 守) 世界日報社

                                               ◇

 

周知の通り、「集団自決裁判」は渡嘉敷、座間味の両島で起きた集団自決に隊長命令があったかどうかを大きな論点として争われている。

二つの島の内、座間味島のケースは、原告側にとって比較的容易に決着がつくものと予想されていた。

理由は、自決決行の直前の昭和20年3月25日の夜、当時村の女子青年団のリーダーだった宮城初枝氏(当時は旧姓の宮平)は宮里盛秀助役ら村の幹部たちと一緒に本部壕を訪れていた。

そして自決の為の爆薬等を要求するため梅澤隊長との談判に加わっていた。

そのときの幹部たちが皆死亡したのだが、初枝氏一人が生き残り「集団自決は宮里盛秀助役が発した伝令によるもの」と自決の真相を書き綴ったノートを娘に託していた。 

娘の宮城晴美氏は母の遺したノートを基に『母の遺したもの』を出版した。

同書には母の書き遺した「事件の真相」がそのまま記されており、出版を紹介する地元紙も「」と「真相」をそのまま報じている。

このように「現場」に立ち会った住民側の唯一の生き証人の「証言」が出版され地元紙にも評価されている。

物的証拠が皆無で、証言にのみ頼る裁判で、原告側が『母の遺したもの』は絶対的と考えても無理は無い。

しかし、事実はしばしば小説より奇怪な場面を作り出す。

晴美氏は、自著を「悪用された」と強弁を始め、被告側の証言台に立つことになるのだから、並みの小説家の想像を超えると思うのである。

更には法廷証言の直後には自著を書き換えて、母の遺言を踏みにじることになる。

戦後生まれの晴美氏が、母の遺言を踏みにじり自著を書き換えるという小説より奇なる行動に出た根拠が法廷証言の一ヶ月前に行った宮平春子氏よりの取材だったというから、

小説家なら不自然でこれでは作品にならないとあきれ返ったであろう。

そもそも、宮平春子氏は宮里盛秀助役の妹であり、宮里助役は『母の遺したもの』でも、「集団自決伝令を出した」として集団自決の責任者とされている。 

宮里盛秀助役の妹である宮平春子氏とは、晴美氏が出版にあたり過去に何度も取材した相手である。

百歩譲って仮に過去に取材したときは得られなかった重要証言が法廷証言の直前になって得られたとしよう。

だが、戦後60数年も経って突然、妹が兄に有利な証言をしたとしても、それだけを根拠に、

従来とは異なる法廷証言をし、

自著の内容まで書き換えるということは常人には思いもつかない行動である。 

身内の証言がどれほど証言能力があるのか、晴美が知らないはずは無いとおもうのだが。


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2 コメント

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母の遺したものはなんだったんでしょう (ヒロシ)
2008-10-14 18:38:27
著書のタイトルである「母の遺したもの」は「母はやっぱり嘘をついていた」その事を宮平春子さんが教えてくれたと言う事ですよね。

お母さんは草葉の陰で泣いていますよ。
村の人たちから責められるのを覚悟して自分の娘に真実を伝えたのに。
証言で得する人々 (狼魔人)
2008-10-15 11:59:59
ヒロシさん

証言を翻す場合でも、二つの場合が考えられます。

①証言して、自分の立場が悪くなる場合。

②逆に自分の利益になる場合。

故宮城初枝さんは「隊長命令あり⇒なし』と証言を翻し村のバッシングを受けた。・・・①

娘の晴美氏は母の①の証言を更に翻し、沖縄マスコミや「沖縄教育界」の絶対的死児を受け、
その結果、那覇市の臨時職員から歴史博物館主査に出世し、いまや大学教授の道を歩む「沖縄の有識者」の地位を勝ち取った・・・②



ついでに言わしてもらうと宮平春子さんは自分の証言で兄の宮里盛秀助役の「集団自決を指導した人」という汚名をそそごうとしたわけです。・・・①

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