狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

旧軍人と住民の交流 続々・たかじんの「集団自決」

2009-02-19 06:51:17 | ★集団自決

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「たかじんの・・・集団自決」の中で、ゲストの惠隆之介さんの発言に関連する寄稿が、沖縄のミニコミ紙「南島志報」(平成21年1月1日付)に掲載されているので紹介したい。

「南島志報」は沖縄戦の激戦地であった糸満市を基点に毎月一回発行されている保守系ミニコミ紙である。(電話:098-992-0114)

同紙の記事は惠氏の次の発言に関連している。

(1)「毎回、当時の関係者が集まって、肩を抱き合って慰霊祭をやってた。仮に『死ね』と言った人が戦後、座間味島や渡嘉敷島に行って住民と肩を抱き合いますか

(2)「軍が絶対と言われたが、ある船舶部隊の陸軍大佐が戦闘直前に、渡嘉敷・座間味に来て帰ろうとした時に、軍は、現地の梅澤少佐が一般の民間人にお願いして漁船を出そうとしたけど、みんな(住民は)拒否しました。これ今の(「あった派」の話の)流れだったら、軍刀を抜いてね、『出さんと斬るぞ』とやりますよ


以下は「南島志報」第53号(平成21年1月1日発行)よりの引用。

「沖縄集団自決訴訟Ⅲ」 

錦古里正一(NPOまちずくり振興会事務局長)

(前略)1977年5月号の月刊誌「青い海」には「33年目の沖縄戦と集団自決」と題して特集がなされている。 ここに『母の遺したもの』(2000年発行)の著者宮城晴美氏の「生き続ける痛恨の日々ーケラマ諸島の集団自決とその後ー」という寄稿がある。 
集団自決から33回忌に当たるこの年の3月、慰霊祭に参加するために帰省した晴美氏は母の初枝氏から初めて、座間味の集団自決は梅澤隊長の命令はなかったと打ち明けられた。
「青い海」98頁には次のように隊長命令を否定した記述が既になされている。

≪座間味部落の住民の何人かは、当時、島の総責任者である梅澤隊長のところへ行き、自決するための弾薬と劇薬をくれ、という申し入れをした。ところがそれに対するハッキリした返事はなく、ただ考えさせてくれと、部隊長は来た人たちをそのままかえしてしまった。 
 しかし住民は、そのハッキリした返事すら待てなかった。 各々持ち合わせのもので命を絶った≫とある。

また、この年の7年前(*注1970年=赤松氏来県に抗議運動あり)に渡嘉敷島で行われた慰霊祭に参加した経験から次のように両島の慰霊祭を比べている。

≪座間味村の旧戦友を混じえた、厳粛ながらもにぎやかな慰霊祭に対し、渡嘉敷村の「白玉の塔」で行われた慰霊祭は、静かすぎるほど、静かであった。≫(*晴美氏は元隊長等を旧戦友と記している)

正に座間味島では、隊長命令などなかった為に、遺族も元守備隊長も和気藹々と慰霊祭をしたが、渡嘉敷は赤松隊長の命令があったので静かだったというのが晴美氏の判断である。
しかし、晴美氏が参加していない渡嘉敷村民と隊員との交流会では、右(上)の文章の村名を入れ替える言われ方がしていたのである。
 自決現場に軍人が居なかったにも拘わらず決行された理由として、彼等は軍の命令は絶対と言い張るが、3月26日の未明、大町大佐が那覇の司令部に戻るために出港を要請した漁船は漁師から拒否されている。
さらに、夜明けとなってしまった為に出撃不可能となった艇の陸揚げを赤松大尉が村民等に頼むが、協力したのは、青年団だけで、住民も朝鮮人軍夫もさっさと帰ってしまっている。
また、軍の命令が絶対だとしたら、自決に失敗したら、自決に失敗した住民が傷の手当てを軍人から軍人から受けることは有り得ず、偶然遭遇した山中で無事を喜び合うことなど有ろうはずがない。
ところが、両島ともこの起き得ない事が幾つも証言として残されている。 事態の解釈は後にいくらでも改ざんが可能だが、当時生じた真情の発露は偽ることの出来ない真実の証明以外の何物でもない。故に、両島と軍人等との交流をみれば、隊長命令や軍の命令がなかったことは疑いの余地はない。(略)

 

■旧軍人と住民の交流■

以下は続・強制された富山証言 もう一つの富山眞順手記を一部抜粋加筆したものです。

集団自決の証言は、証言者を縛る「呪縛」を斟酌しなければ事実の解明を誤る。

『証言を阻む南の島の呪縛』

一方、証言者は地元マスコミの取材という「呪縛」を離れ、

人目に触れる機会の少ないミニコミ冊子などに寄稿された体験者の随想に、

「呪縛」を解き放たれた本音が語られている。

以下に引用の随想に表れた富山氏の本音は、心ならずも不本意な証言をさせられ、真実を墓場に持ち込んだ富山氏が,我々に訴える真実が含まれている。

読者の松五郎さんの言葉を借りると、次のようになる。

氏の心中を察すれば、親しい共同体との折り合いを優先させたぎりぎりの選択であったのかも知れません。無責任なことを言い残したまま何も語らずに逝くより、後世の者に強いシグナルを遺してくれました。このシグナルには、沖縄タイムスを信用せずに「富山の口外した証言の信憑性」を疑いなさいよという強いメッセージを感じます。≫

 

戦時中、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた旧軍人たちが、慰霊祭の参加の為、島を訪れて島の人々と親しく交流する話はよく聞くが、これが地元の新聞で報じられることはない。

地元紙が報じるイメージとは、

島を訪問した「残虐非道の旧軍人たち」に対して、村人たちが「人殺し!」「帰れ!」といった怒声を浴びせるシーンである。

このような「旧軍人VS遺族」という対立構図があってこそ地元紙にとって報道する価値がある。

住民と旧軍人の「肩を抱き合った親しげな交流」など、間違っても紙面を飾ることは無いのだ。

京都国体を見学に行った座間味の老人会グループが、ついでに旧軍人宅を訪ねて旧交を温めた話は以前に書いた。

「もうやめなさい!」 パニックに瀕した長老たちの悲劇

 

『沖縄ノート』が伝える住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。(事実は、赤松元隊長を追い返したのは「プロ市民」であり、渡嘉敷村民ではなかった)

そこに写っているのは、憎みあっているはずの元軍人と渡嘉敷村民約70名の和やかな姿と笑顔である。

渡嘉敷の港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。(昭和59年撮影)

この地元紙にとって「不都合な真実」を物語る記念写真はここで見れる。(写真は最後の部分)⇒ 日本軍は命がけで沖縄県民を守った!Ⅱ

旧軍人と住民の暖かい交流を示す証拠写真である。

                                    ◇

「手榴弾配布説」の富山眞順氏は、老人クラブ記念誌の他にも手記を寄稿している。

呪縛を解かれた富山氏の「伝言」を読み取ってみよう。

同手記は「続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係で紹介したが,集団自決の翌日の富山氏と赤松隊長との関係を知る上で貴重な資料故、再度以下に引用する。

                     ◇

富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」
渡嘉敷漁協創立90周年記念誌(平成5年4月発行)から ※(29日)等()書きは挿入

 略…元嘉豊丸組合当時の加工場は補助金により建築された建物で周囲はコンクリート流し込みで、屋根は赤瓦葺で頑丈な建物であったが今時大戦で鈴木部隊の食料米倉庫であったため白米を加工場一杯積み込んでいたのを米軍により食料と共に焼かれました。
 私は村民玉砕の翌日(29日)、故赤松隊長の命令を受けて渡嘉敷港海岸の加工場に食料、特に白米を保管してあるから敵前線を突破して兵員200名を誘導して加工場にある白米を確保してこいと命じられた。赤松隊長は更に部隊の前方50m程度を隠密に先行してうまく誘導し成功させよと命令されたので夜の9時を期して出発した。誘導案内はイシッピ川の高淵までの命令であったので、そこへ来ると加工場の2ヶ所嘉豊丸、源三丸加工場は石炭火の如くお米が真っ赤に燃えている。記念運動場も飯盒炊事の後が燃えている。
 イシッピ川の高淵に全員集まったところ私の命令はここまでだったから、ここから先は斥候兵の方と敵情調査に行きなさいと私が言うと、中隊長が「道が判らないから加工場まで誘導してくれ」と云うので将校斥候の方々を私が更に加工場まで案内した。
 私達が加工場に到着した時米軍の大きな輸送船が港から出航していった。運動場は米兵の飯盒炊事の後が燃えているので油断がならず、敵に撃ち込まれる場合は騒がずに私について来れば絶対弾に当たることはないからと指示をしました。私の考えは撃ち込まれたらイシッピの河川づたいに戻るつもりでした。ところで神祐丸加工場はダイナマイトで爆破されて、ここにはカンメンポ食料が納められて、食えるカンメンポが散乱しているので私が集めていたら、将校斥候長の方が敵襲と言うので、運動場をすかして見ると村中の和牛が鼻綱を切って運動場にかけ込んでいた。当時、村の繁殖牛は百頭以上に繁殖していた。私の家には父が飼育している和牛が3頭もいました。
 米兵隊と思ったら牛でしたので安心したのか「あなたはここに休んでおけ、私達は部落内を捜索して来るから」と云うので休んでいると、甘い臭いが漂うので手さぐりをするとカルピス瓶をつかまえた。あたりには米軍の非常食や煙草、お菓子等があったので背負袋に詰めた。すき腹にカルピスの原液を飲んだ甘さは生涯忘れません。
 暫く休んでから、斥候長が私に「何か要望はないか」と問われたので「あります」といって、村民玉砕で乳飲み子の母親が戦死して、空腹で泣く子供達が居るので農協の倉庫に粉ミルクがあるだろうから運搬を協力してほしいと要望した。部隊の200名を呼んで粉ミルクを担ぎに行きました。ところがそこには粉ミルクどころか何一つなく、
部隊に戻ったときはすでに夜明になっていた。(30日朝)
 
赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵(吉川)勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したのかと喜んだ。
 暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら
、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。
 赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません。…以下省略

                     ◇

この手記(随想)が書かれた平成5年(1993年)は、「富山証言」(1990年)の三年後であるが、

「富山証言」の1年前に書かれた手記(随想)と同じように「自決を命じた旧軍人への憎悪」は少しも感じ取ることは出来ない。

いや、むしろ「鬼の赤松」が手榴弾による自決命令を出し、自決が実行された日(29日)の翌日(30日)にしては、この手記でも富山氏と赤松隊長との関係はいたって良好のようである。

後に(戦後45年経って)「富山証言」(手榴弾による自決命令説)が飛び出してくるような関係とは到底信じることは出来ない。

やはり「富山証言」は戦後45年経って、ある目的を持った勢力に強制され、心ならずも証言させられたと言わざるを得ない。

なお後に吉川に改姓した役場職員は、沖縄タイムスのインタビューに答えて「耳打ち」するのを聞いて、「それが軍命だった」と細木数子もビックリの証言するのだから、富山証言もまだカワイイ部類に入るのかも知れない。

吉川勇助証言⇒(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

爆音の中で、耳打ちするのを傍で目撃し、(勿論、本人は聞こえない)それを「軍命だった」と言い当てるのだから、細木先生もビックリでしょう。

なお、戦後語り部として「軍命」を主張している吉川嘉勝氏は吉川勇氏の実弟。⇒(13)母「生きよう」脳裏に鮮明

更にこの二人の証言を取材した沖縄タイムスの謝花直美記者は、元渡嘉敷中学校長の吉川嘉勝氏の教え子であるというから、「軍命あり派」の人脈は濃密に繋がっている。

 ⇒続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

また、吉川勇助氏は、後に手榴弾配布の証言をする村役場職員の新城眞順氏と同じく、戦時中は防衛隊員として赤松隊長とはかなり身近な立場であった。
 
恐るべし! 
 
「軍命あり派」の濃密な人間の絆。
 
 
                                                 ◇

 

関連エントリー:

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

 悲劇を呼ぶ濃密な人間関係
 

 

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2 コメント

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Unknown (東子)
2012-04-26 23:11:01
中日新聞「捨て石の島No.2」のタイトルは「自決 家族手にかけ」から。
「吉川は近くにいる村長の古波蔵惟好のもとへ、軍を補佐する地元の防衛隊員が駆け寄るのを見た。男から耳打ちされた村長がうなずく。「何を話しているのか」。激しさを増す米軍の艦砲射撃が、吉川の耳をふさぐ。」
従来の『防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」 』とは、書かれていない。
話していたのは確かだが、話している内容は聞き取れなかったと推測される記事になっている。
「集団自決の跡地」(渡嘉敷村)と掘られた記念碑の前に立つ吉川さんの写真付きの記事であるにも関わらず、文中には「集団自決」の言葉も「軍命」の言葉もない。
中日新聞、どうした?
いつものまっかかの記事はどこへ?
不思議だ。
Unknown (東子)
2012-04-27 08:18:08
中日新聞「捨て石の島No.2」のタイトルは「自決 家族手にかけ」から。
「当時16歳の村役場職員吉川勇助」、「母はひざに乗る6歳の弟嘉勝をかばい、体をかぶせている」とあるから、勇助氏と嘉勝氏は10歳違いの兄弟ということがわかる。

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