狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

続・「集団自決」と沖縄タイムス 地元メディアの異常反応

2007-01-23 07:59:18 | ★集団自決

                       
 
渡嘉敷島における集団自決の問題も、情報はどこから出たのか。

「軍命令による集団自決」という神話を、初めて活字にした『鉄の暴風』(沖縄タイムス社、昭和二十五年初版発行)は、

隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明したと書いた。 

ところが、現在もなおご健在の梅澤氏は、メディアのバッシングを受けて、その後職も転々とし、またご家庭も崩壊状態になったという。

何よりも今回の「岩波・大江訴訟」原告の一人は「鉄の暴風」で『不明死を遂げたことが判明した』と死亡宣告をされた梅沢氏その人なのだ。

「鉄の暴風」の杜撰な取材手法はこの一点(最重要人物の生死を間違える)だけでも自明である。

幸い梅沢氏の場合は、昭和六十年代に入って座間味村の関係者が真相を公表し、謝罪して身の潔白が証明された。

赤松大尉(渡嘉敷島駐屯第三戦隊隊長)の場合は、真実を語れば村民の「戦後補償」のからくりを暴露することになるのをおそれて沈黙を守った。

そして冤罪を晴らせぬまま他界し、今回の訴訟では弟さんが遺族として原告になっている。

『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』の
著者
曽野綾子氏は次のように記している。

「あの多くの沖縄関係の書物が赤松氏の行為を断定し、断罪した証拠はどこからきたか。」

赤松隊長の命令によって集団自決が行われたと断定した第一の資料は沖縄タイムズ社によって刊行された『沖縄戦記・鉄の暴風』であり、初版は昭和25年8月15日である。」

それを原典と考える根拠を曽野さんは記しているが、驚いたことに取材源となった証言者二人の聴取は、現地でなく那覇で行われ、

二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった。しかし当時の状況では、その程度でも、事件に近い人を探し出すのがやっとだった。太田氏は僅か三人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を三カ月で執筆したのである。」

いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者でない二人から、むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった。」



曽野氏は、「鉄の暴風」の執筆者、その二人の証人、赤松隊長・隊員、現地の生存者に綿密な取材をし、「神話の背景」を記している。

曽野さんは渡嘉敷島で現実にあった集団自決の詳細を直接当事者から聴取し冷酷とも思える文体で描写している。

=以下、曽野綾子氏の「司法制度改革審議会」における発言=

http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
第34回司法制度改革審議会議事次第
日 時:平成12年10月16日(月) 9:29 ~12:10
場 所:司法制度改革審議会審議室

【曽野委員】

  ここに持参いたしましたのは『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』という本です。(略) 
3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。(略)

  私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するなら、作家として会ってみておきたいという無責任な興味からでした。私は赤松氏と知己でもなく、いかなる姻戚関係にもなかったので、気楽にそう思えたのです。もちろんこの事件は裁判ではありません。しかし裁判以上にこの事件は終戦後25年目ころの日本のジャーナリズムを賑わし、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。

 もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。

 当時私はまだ30代で若く体力があったことと、作家になって15年以上が経過していたので、いくらか自分で調査の費用を出せるという経済的余裕があったことが、この調査を可能にしました。

 途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです

 第二に、資料です。

 先に述べました資料のうち、1~3までを丁寧に調べていくと、実に多くの文章上の類似箇所が出てきました。今で言うと盗作です。ということは一つが原本であり、他の資料はそれを調べずに引き写したということになります。それをさらに端的に現しているのは、これほどの惨劇のあった事件発生の日時を、この三つの資料は揃って3月26日と記載しているのですが、戦史によると、それは3月27日であります。人は他の日時は勘違いをすることがありましょうが、親しい人、愛する者の命日を偶然揃って間違えるということはあり得ません。

 つまり「沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物」は第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです

 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまた沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えたのを覚えています。しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。

 
 
 
 
 

 
 
 
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