狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

ゾルゲに中国人協力者  スターリンの「砕氷船作戦」

2007-04-16 13:20:45 | 歴史

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ゾルゲに中国人協力者
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          産経新聞

“ゾルゲ事件”対日工作 中国人工作員が関与

【上海=前田徹】20世紀で最も成功したスパイ事件とされるリヒャルト・ゾルゲの対日スパイ網構築が当時、ソ連コミンテルンに属していた中国人工作員によって行われていたことを示す自伝が見つかった。

自伝は文化大革命で迫害を受け失明した著者が革命秘話として書いたものだ。上海でゾルゲから直接、対日工作を指示されたことや日本では近衛内閣顧問の尾崎秀実(ほつみ)と協力していたなど事件の貴重な裏話がつづられている。

自伝で告白 尾崎秀実(ほつみ)とも協力

著者は著名な経済学者で中国国際文化書院院長をしていた故・陳幹笙氏で、問題の自伝は「四个時代的我」(四つの時代の私)だ。同書は1988年に7000部出版されたが、一般市販されず大半が散逸している。

218ページある同書は陳氏の戦前、戦後を通じた人生の思い出話の体裁をとっているが、1920年代半ばから1930年代後半について書いた「革命のため危険を避けず」「日本、ソ連、米国への放浪」の2章がゾルゲ事件に関連した内容になっている。

陳氏は米とドイツで農業経済、歴史を学んだ後、26年にソ連コミンテルン(国際共産主義運動)に加わった。その後、上海でコミンテルン工作員として活動を始め、表向き蒋介石率いる国民政府所属社会科学院で学者として従事する一方、対国民政府工作と同時にゾルゲとともに対日工作に関与する様子が描かれている。

ゾルゲとの出会いは29年、陳氏同様にコミンテルン工作員で、ドイツ紙特派員の肩書で上海に滞在していたアグネス・スメドレーからの紹介だった。その際、ゾルゲがソ連赤軍第4部諜報(ちょうほう)員であり、陳氏が指示を受ける立場であることも示唆している。

また、ゾルゲが当時、国民党の軍事情報収集に力を入れており、蒋介石側近で後に台湾国防部長になった何応欽将軍ら国民政府軍中枢に情報源を得ていたことも明かされている。

ただし陳氏は具体的諜報活動やその成果については一切触れず、ゾルゲと駅で密会し、2人で西安へ重要任務に向かったというようなあいまいな内容に徹している。

一方、上海での抗日工作や対国民政府工作が難しくなった34年冬、ゾルゲはスメドレーを通じて陳氏に日本で活動するよう指示、陳氏は即座に妻とともに来日した。

表向きは東洋文庫での中国関係文献調査となっているが、実際はゾルゲの指示で日本の国策会社だった南満州鉄道株式会社での情報収集に従事し、その際、当時、朝日新聞記者だった尾崎秀実の支援を受けていたことも書いている。

また、出会いについては29年に朝日新聞上海支局員だった尾崎をスメドレーから紹介されたことも記している。

陳氏の日本での情報活動がいかに緊張をともなったものだったかは、35年4月、モスクワから上海経由で来日予定だったウォルトンという名の極東情報局員との密会が頓挫したエピソードに描かれている。

ウォルトンは上海治安当局に3冊のパスポート所持を理由にスパイ容疑で逮捕されていたことを知った陳氏は着の身着のままで妻にも知らせず横浜から上海行き客船に飛び乗っている。

陳氏はスメドレーらによって匿(かく)まわれた後、モスクワに脱出し、新たに米国での抗日宣伝の任務を与えられるのだが、このさい中国共産党コミンテルン代表だった康生らの計らいで「仕事の必要性から中国共産党に入党した」と書いており、当時の中共がいかにモスクワの強い影響下にあったかを示す記述ともなっている。

また、米国での工作は当時、アジア問題の最高権威とされた「太平洋問題調査会(IPR)」の機関誌編集者を表向きの仕事としながら、康生の指令に従ってニューヨークにあった海外中国人向け雑誌の抗日宣伝活動に傾注した。

戦後、米国ではいわゆる「マッカーシズム(赤狩り)」が吹き荒れ、同機関誌のオーウェン・ラティモア編集長に対しスパイ疑惑が突きつけられ、その真偽がいまも謎とされているが、陳氏は「ラティモアは私がモスクワから派遣された工作員であることを知らなかった」と自伝で明言している。

■ゾルゲ事件 第二次大戦中の1941年9月から翌年6月にかけてソ連赤軍第4部の諜報(ちょうほう)員だったリヒャルト・ゾルゲら17人がスパイ容疑で検挙された。

グループの中に近衛文麿内閣の中国問題顧問で満鉄顧問だった尾崎秀実が含まれていたことから大きな注目を浴びた。グループは34年から検挙されるまで約400件の情報をモスクワに流し、最も成功したスパイ事件とされる。ゾルゲと尾崎は44年処刑された。(国民には永らく伏せられた)。
(Sankei Web 2007/04/13 10:26)

                   ◇

温家宝首相は離日前に京都で記者会見して、

日中間の「氷を解かす旅」が成果を収めたと総括した。

時を72年さかのぼる1935年。
 
大東亜戦争開戦の6年前、

スターリンは第七回コミンテルン大会で、「氷解」ならぬ

砕氷船理論」を再確認した。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

砕氷船理論(さいひょうせんりろん)とは、レーニンが唱えた戦略である。後にスターリンの手によって実行された。

1935年(大東亜戦争開戦の6年前)、モスクワで開かれた第七回コミンテルン大会でスターリンが再確認した。

「ドイツと日本を暴走させよ!しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ」

つまり、日本とドイツを他の国と負ける戦争をさせ、その後ソ連が両国を属国にするよう仕向けさせた。これはその後忠実に実行され、最後の一行以外は全て現実のものとなった。

◆参考:太平洋調査会http://csx.jp/~gabana/Zaakan/hibi0505/hibi-niisi-050508.htm

 

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