狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

集団自決:極左が監修する公的刊行物!

2010-05-16 08:20:42 | ★集団自決

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今日は普天間基地の周囲を「人間の鎖」で取り囲むという左翼イベントがあるので、普天間基地とは目と鼻の先に住む筆者としては野次馬根性で見物に行こうかと思うのだが、天気予報では一日中雨とのこと。 濡れてまで見物するのはバカバカしいので見物は取りやめにする。

今朝の沖縄タイムス一面トップの報道によると、「宜野湾市役所から宜野湾小学校までの約2キロ(国道330号)は、労組などに所属しない人向けに確保されている」とのこと。

語るに落ちるとはこのことで、普天間住民はこんなバカバカしいサヨクイベントには冷ややかである。

それどころか商店街では営業妨害だと怒りを露にする商店主もいた。 沖縄タイムスが「一般の宜野湾住民のために場所を空けてある」とわざわざ告知しなければこのイベントは組織労働者達だけのサヨクイベントに終わり、肝心の普天間住民がただの傍観者に終わるのを恐れているのだろう。

社会面には一昨年の「11万人集会」が行われた宜野湾海浜公園で、昨日も「県民大会」が開かれたと報じているが、参加者が主催者発表で3800人では実数は400人前後と見られる。さすがに「県民大会」と報じるのが憚れたのか、見出しは「5・15大会」とある。

今年の流行語大賞は「KY=空気を読めない」と同じように「KT」或いは「ケンミンタイカイ=大量水増し」となるのではないか。

縁側さんから昨日のエントリーに関連して次のようなコメントを頂いた。

安仁屋教授ですか。数年前になりますが、朝日新聞系の雑誌記者と面談したときに、彼が安仁屋教授と会ったときのことを話してくれました。彼曰く「長い記者生活で、これほど反天皇、反日の思想に凝り固まった人物は初めてだ」と言っていたのを思い出しました。朝日系の記者にこのように言わせるのですから、たいしたものですね、安仁屋さん(T_T)/~~~》

安仁屋教授といえば、筆者が那覇高校一年の時、広島大卒の若手教師として、儀部景俊氏(後に沖国大教授)と二人で赴任し、日本史を担当し当時から「赤い思想」を撒き散らしていた。

幸か不幸か筆者は授業を真面目に聞かなかったせいか、赤い思想の洗礼を受けること無かったが、同級生の「ユーディキヤー」(勉強ができる人)のK君などは熱心に授業を受けたせいか、その後二人の恩師の後を追って沖国大教授になる。

ついでに言うと広島大学以来の友人の儀部教授の方が赤い思想でもリーダー的立場(そう見えた)で、沖国大にも同時期に赴任したようだが、沖縄戦記を二人の共著で出版する場合も名前の序列は儀部教授が筆頭で、前書きなども儀部教授が筆を執っていたようだ。

ところが沖縄返還前後から儀部教授の名前を見なくなり、代わりに安仁屋教授が家永訴訟や集団自決訴訟の証人として活発に赤い活動をしているのは周知の通りである。

筆者の推測だが沖縄返還の年に沖縄教職員組合が出版した「沖縄戦記」で、儀部教授が後書きかどこかで「沖縄戦史の研究では日本軍の責任を追及するだけでなく、沖縄人の責任も研究する必要がある」と沖縄の識者にしてはアレ?と思うような大胆な発言をしていたので、研究者仲間から村八分にでも・・・あくまで推測である。

因みに儀部教授(現在は名誉教授?)の実弟は、最近ベルギーで亡くなった国際的指揮者の儀部寛氏である。

儀部寛さん死去 指揮者、ベルギーで音楽活動

因みついでに付け加えると、儀部寛氏は筆者の那覇高校時代の「弦楽部」の二期後輩で、後輩とはいっても音楽の腕前は筆者とは段違いであり、那覇高校から武蔵野音大のヴァイオリン科へ進み、卒業後ドイツに渡り指揮者に転身する。

で、筆者の「弦楽部」卒業後はどうなったかって?

勿論、寛君(先輩だから君付けさせてもらう)のような国際的音楽家の道とは縁遠いが、それでも全国から集まったプロ級の仲間に混じって下手ながらも大学四年間をオーケストラの部活で全うした。

それで、肝心の勉強のほうは、・・・もうよそう。

                         ◆

昨日のエントリーで、沖縄戦史に関する公的出版物にも作為的捏造部分が多い理由として、その執筆者を辿れば現在も左翼的発言で知られる沖縄の知識人が多いと書いた。

例えば知念勇さんの証言を採録し『那覇市史』に記述した嘉手川重喜氏とはどんな人物だったのか。

沖縄戦史に「残虐非道の日本軍」というイデオロギーを吹き込んでいるのが沖縄タイムスと琉球新報の地元2紙であることは周知のことだが、

知念勇さんの証言の「米兵」と「日本兵」を作為的に入れ替えた犯人の嘉手川重喜氏が、これまた琉球新報の元記者であることを知れば、驚くというより、さもありなんと思う人のほうが多いだろう。

これも昨日触れた、集団自決の研究者が一度は手にすると思われる『渡嘉敷村史』や『座間味村史』の編纂に関わった沖縄の識者の正体を知れば、今度は逆に驚きを越して笑ってしまうだろう。

先ず『渡嘉敷村史』の監修者は冒頭の縁側さんのコメントに出てくる「反日」「反天皇」のあの人物である。

以前星氏が県の依頼で渡嘉敷の聞き取り調査をした時の調査報告を「検閲」し「日本兵の善行」を県史から削除した、あの安仁屋政明沖国大名誉教授なのである。

安仁屋教授は、集団自決支障の被告側証人として陳述書を提出している「軍命あり派」のリーダーであるが、これだけで驚いてはいけない。

なんと一方の『座間味村史』の監修者は、安仁屋教授の愛弟子であり、集団自決訴訟の被告側証人として法廷に立ったあの宮城晴美氏であるから、今度も驚きが転じて、思わず笑ってしまう。 まるで師弟漫才ではないか。

これでは集団自決研究の原典とも言える「渡嘉敷村史」と「座間味村史」を安仁屋、宮城の極左師弟コンビが検閲するという最悪のパターンではないか。

前述の知念勇さんの例でもそうだが、これらの極左知識人の手口は、あらかじめ結論が出来上がっており、記述あるいは監修の過程で捏造をそれとなく織り込んで物語を作り上げるのが常套手段である。 

文科省の歴史教科書検定意見に沖縄の歴史学者の研究成果が反映していないという意見を良く聞くが、このようなイデオロギーまみれの沖縄の学者達の「研究の成果」を教科書に反映させることこそ歴史の捏造につながるのではないか。

宮城晴美氏が法廷証言のわずか一ヶ月前に、集団自決の証人である母の遺言を踏みにじり、イデオロギーの呪縛に平伏した話はあまりにも有名だが、前言を翻した恥ずべき新旧二種の『母の遺したもの』を読むまでもなく、裁判が提訴される前までは、宮城氏は正直に「軍命はなかった」と、あの沖縄タイムスの紙面で述べているではないか。 読者をバカにするのもいい加減にしろといいたくもなる。

沖縄県民斯ク戦ヘリさんがタイムス記事を図書館でコピーしてアップしているので、引用させてもらいました。

宮城晴美氏がいかに嘘つきであるかが分かります。


母の遺言(上) 母の遺言(中) 母の遺言(下)
母の遺言 (上)    母の遺言 (中)    母の遺言 (下)

   
沖縄タイムス 1995年(平成7年) 6月22日 木曜日

母の遺言 (上)

証言の独り歩きに苦悩

手記の書き直し託される 宮城 晴美

その年、母は座間味島の「集団自決者」の名簿を取り出し、一人ひとりの屋号、亡くなった場所、使用した"武器"、遺体を収容したときの状況など、これから自分が話すことのすべて記録するよう、娘の私に指示してきた。座間味島の地図を広け、「自決者」のマップをつくりながら、母は知りうる限りの情報を私に提供し、そして一冊のノートを託したのである。

元号は変わっても・・・

それから間もなく、元気よく一週間の旅行に出かけたものの、母は帰ってきてから体の不調を訴えるようになり、入院後、とうとう永遠に帰らぬ人となってしまった。 一九九〇年(平成二年)十二月六日であった。

母の死後、遺品を整理しているなかで、日記帳の中から一枚のメモ用紙を見つけた。前年の一月七日、つまり昭和天皇が亡くなったその日に書かれたものであった。(省略)

"事実"を綴ったノート

そして、私に托された一冊のノート。それは字数にして四百字詰め原稿用紙の約百枚におよぶもので、母の戦争体験を日を追って詳しく綴ったものであった。母は「いずれ時機を見計らって発表しなさい。でも、これはあくまでも個人の体験なので発表するときには、誤解がないよう、客観的な時代背景を加えるように」と言葉を添えて手渡したのである。

ただ、母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で二度発表している。まず、六三年(昭和三十八年)発行の『家の光』四月号に、体験実話の懸賞で入選した作品「沖縄戦最後の日」が掲載されたこと。それから五年後の六八年に発行された『悲劇の座間味島-沖縄敗戦秘録』に「血ぬられた座間味島」と題して体験手記を載せたことである。

ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのかということになるが、じつは、母にとっては"不本意"な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。

「"不本意"な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものであった。

自責の念にかられる

とくに、『悲劇の座間味島』に記載された「住民は男女をとわず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」と梅澤部隊長から命令が出されたというくだりが、『沖縄県史10 沖縄戦記録』をはじめとして、多くの書籍や記録のなかで使われるようになり、その部分だけが切り取られて独り歩きをしだしたことに母の苦悩があった。あげくは、その隊長命令説を覆そうと躍起になるあまり、曽野綾子氏に代表される、自決者」を崇高な犠牲的精神の持ち主としてまつりあげる人々が出てきたとなると、母の気持ちが穏やかであるはずがなかった。

そしてもう一つの"不本意な理由、それは、自分の証言で「梅澤部隊長」個人を、戦後、社会的に葬ってしまったという自責の念であった。これが最も大きい理由であったのかもしれない。

(沖縄女性史研究家)

◇みやぎ・はるみ 一九四九年 座間味生まれ。雑誌編集者を経て、フリーライターになる。集団自決を中心とした戦争体験を追いながら、女性史とのかかわりを調査。九〇年から、那覇市で女性史編さん事業にたずさわる。

6月23日 金曜日

母の遺言 (中)

切り取られた"自決命令"

「玉砕」は島民の申し出

援護法意識した「軍命」証言

宮城 晴美

母は、どうして座間味島の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったにか、その真相について私に語りだしたのは、確か一九七七牢(昭和五十二)だったと思う。戦没者の三十三回忌、いわゆる「ウワイスーコー」と呼ばれる死者のお祝いを意味した最後の法事があると私は聞き、「島の人は何を孝えているのだろう」という気持ちから座間味島の取材に出かけたときのことである。

「援護法」とのはざまで

話は一九五六年(昭和三十一)にさかのぼった。沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座間味村では一九五三年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから二年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。この「援護法」は、軍人・軍属を対象に適用されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。
それを村当局は、隊長の命令でで「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張したというのである。つまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者にだけ補償されるといういう論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。

その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小きな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の"目"を意識せざるを得なかった。

軍と運命を共に(省略)

一九四四年(昭和十九)九月、この島に日本軍か駐屯するようになったころから、住民は兵隊たちと運命を共にすることになる。(省略)

忠魂碑の前に

一九四五年(阻和二十)三月ニ十五日、三日前から続いた空襲に代わって、島は艦砲射撃の轟音(ごうおん)に包みこまれる。方々で火の手かあがり、住民は壕の中に隠れていても、いつ砲弾が飛び込んでくるか、ただおびえているだけであった。そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令が届いたのである。伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している。有力者の一人から一緒に来るようにいわれ、意味もわからないまま、四人についていったのである。

有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最後のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。

母は息も詰まらんばかりのショックを受けていた。

6月24日 土曜日

母の遺言 (下)

「集団自決」時の社会背景

戦争は「終戦」で終わらない

島の有力者たちがやってはきたものの、いつ上陸してくるか知れない米軍を相手に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返していったが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ぬ前に仲間たちと軍の弾薬運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけたのである。

軍国主義の象徴

伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に「自決」とか「玉砕」という言葉を聞いていない。「忠魂碑」の名が出たことが、住民たちを「玉砕思想」へと導いたといってもいいだろう。(省略)

元隊長との再開

この場所に集まれというのだから、住民としてはすぐさま「自決」と結びつけざるを得なかった。結果的には、住民は激しい艦砲射撃のため、忠魂碑に集まることができず、それぞれの壕で一夜を明かしたものの、翌日、上陸した米軍を見た住民がパニックを起こして、家族同士の殺し合いが始まったのである。(省略)母とともに、梅澤隊長のもとを引き揚げた四人全員が「集団自決」で亡くなってしまったため、戦後、母が"証言台"に立たされたのもやむを得ないことであった。

一九八〇年(昭和五十五年)の暮れ、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出て以来、彼の戦後の生活が惨憺(さんたん)たるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分か生きているうちに、ほんとのことを伝えたいと思っていたからである。

皇民化教育の本質

その後の彼の行動については、あえてここでは触れないことにしよう。しかし、一つだけ言わせていただくとしたら、梅澤元隊長が戦後なお、軍人の体質をそのまま持ちつづけている人であることに変わりはない、ということである。母は、私がモノ書きとして生活するようになってからは、いつも思い出したように言いつづけたことがあった。

いまは事実を書かなくてもいい。でもウソは絶対に書いてはいけない」ということ。そしてもう一つは、「『集団自決』を論ずるとき、誰が命令したか個人を特定することにこだわっていると皇民化教育の本質が見えなくなってしまう。当時の社会背景をしっかりおさえなさい」と。
母は「事実」を元隊長に話したことで島の人との間に軋轢(あつれき)が生じ、悩み苦しんだあけくとうとう他界してしまった。

母の死を通して、戦争というのが決して「終戦」でおわるものではないことをつくづく思い知らされている。

                        ◆

文中の「有力者」とは、住民を自決に誘導したといわれる宮里盛秀助役のことだが、宮城晴美氏が法廷証言の一ヶ月前に「軍命あり」に宗旨替えした根拠が、宮里助役の実の妹である宮平春子氏の「兄擁護」の証言だというから驚きだ。

こんな大嘘つきが『座間味村史』の監修をしている沖縄研究者の実情をオカシイと思う方、応援のプチッ!を、

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7 コメント

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内地の人は知りません (アイゼンシュタイン)
2010-05-16 11:38:49
狼魔人さま
毎日、貴重な情報をありがとうございます。私も私用で沖縄には時々訪れますが、こういったお話を聞く機会がないのが残念です。
また、全体主義の恐ろしさを実感するようなエピソードだと思います。歴史は、後生になっていろいろな角度から検証されるべきものだと思っています。

ちなみに今朝の日経にめずらしくまともなコラムがあったのですが、タイのタクシンと小沢はメンタリティが一緒であるというものです。分析には疑問がありましたが、確かにタクシンも小沢も新中国派であることには間違いないでしょう。
神は細部に宿り給う (石原昌光)
2010-05-16 13:10:19
狼魔人様、こんにちは
集団自決の話が出たので、親父から聞いた沖縄戦の話をします。
親父は、沖縄戦当時7歳でした。家族は、沖縄市泡瀬に住んでいました。
昭和20年3月、米軍機が泡瀬の町を焼夷弾で焼き尽くした為、一家は焼け出され、昼夜問わず砲弾の雨が降る中、各所を転々とします。
その途中、父親の背中に背負われていた親父は真夜中に米軍の艦砲射撃の砲弾が花火のように煌き、放物線を描いて闇夜を飛んでゆく様を何度も見ています。
「戦争は怖かった?」と私が子供の頃、親父に聞くと、
「まだ小さかったから怖いとは感じなかった、大人が騒いでいるのが不思議な感じがした。」
と答えていました。
親父が、特別に度胸があったと言うより、子供というのは、案外こんなものなのではないか?と私は思います。
ですから、沖縄戦当時5~6歳だった人が、新聞やTVで戦争体験を語る時に、「恐ろしかった、いつ死ぬかと思って生きた心地がしなかった。」
とか、
「自分達をこんな目に合せた戦争が憎い、、」とか言ってるのを聞くと、嘘をついているとは言いませんが、大人になってから刷り込まれた反戦イデオロギーが、子供の頃の記憶を改竄している可能性はあるんじゃないかと、、少し勘繰りたくなります。
因みにウチの親父も、沖縄戦で家族を亡くしていますし、家も焼かれて無一文になった戦争被害者ですが、戦争映画が大好きで、家では沖縄民謡と一緒に軍歌を聞いています。
でも何故か、TV・マスコミ信者で、「日本軍は、中国で残虐な事ばかりやった。」「朝鮮人をスパイ扱いして殺した。」「米軍は日本軍より優しかった」と真顔で言います。
結局、左翼がプロパガンダするような、反戦なら平和主義者、愛国者なら軍国主義者みたいな、単純な人間はいないんです。
神(真理)は細部に宿り給うと言いますが、反戦左翼が戦後、必死でかき集め捏造、歪曲させた、反戦平和イデオロギーで貫かれた紋切り型の何百万にも及ぶ沖縄戦のデータは、ウチの親父という、たった一人の沖縄戦体験者の素朴な証言であっさり覆るのです。何故なら嘘だから、、、
真実って怖くて、なんと興味深いものでしょうか。

Unknown (涼太)
2010-05-16 14:35:19
狼魔人様

チャンネル桜見ました。沖縄の歴史が捏造されていく過程が、よく理解できます。
反日左翼ネットワークがうまく機能しているなとの印象を受けました。
忠魂碑には行っていないとする、宮平秀幸さんの母親の証言が載っている座間味村史が、どのように捏造されたのか。つまり村史編集作業の聞き取り段階で、都合の悪いところはカットされ、別の証言をさせる。それを何回も何回も繰り返す。これでは母親が宮平さん達にこぼすように「あれは言ってはいかん。これも言ってはいかん。あー疲れた。」がすべてを語っています。こんな手の込んだ捏造作業も、「宮平さんの家族と忠魂碑で会ったさー。」と証言するオバーの新証言で吹き飛んでしまいます。
座間味に限らず、沖縄県史料編集所まで巻き込んでの歴史の捏造ですから、他の市町村も大方同じように意図的に改竄されていると思います。自らの証言を翻した沖縄史料編集所の嶋津与志さん、宮城晴美さん、富山真順さんに共通するキーワードが安仁屋教授です。
左翼団体がよく使用する「強制集団死」とか「軍の構造論」も、確か安仁屋教授の発案だったと思います。
せめてもの救いは宮平秀行さんが言う「座間味の人で梅澤さんを悪く言う人はいない。」という言葉です。渡嘉敷の件もそうですが、結局島の人たちも、安仁屋教授の様な極左反日団体の、イデオロギー闘争に利用されている。そんな印象を受けました。当人同士は触れて欲しくない問題だと思いますよ。
村史 (安仁屋 正昭)
2010-05-17 09:23:27
座間味村史には、左翼編集者等の幾つもの作為が見て取れる。例えば、当時、農協組合保険部で配給物資係りをしていた宮里美恵子さんの証言は、「村史」、「県史」、「沖縄の証言(上)」、「15年戦争の証言」等に掲載されているが、これを読み比べてみると編集者の捏造が手に取るようにはっきりと現れている。 ここでは、星 雅彦氏が指摘した繁多川の知念 勇氏の事例と同様の手法が取られている。
ここで隠されているのは、産業組合壕での自決の先導者の名前と自決手段、忠魂碑前に住民が集合したという三つの事である。
先導者は、宮里米子、長田一彦、宮里美惠子各氏の証言を読みつなげば、 助役の宮里盛秀氏以外の人物は該当者がいないことが判る。また、60名ほどの人々が集団自決した方法は、村役場にあった小銃であることは明白である。勿論、この引き鉄を引いた人者も助役以外には該当するものが居ない。
証言を変えてしまう箇所は次の通りである。
知事(大田)公室平和推進課編の「15年戦争の証言」や座間味村史には、宮里美惠子が3月26日午前3時(沖縄の証言)に聞いた小銃の連続発射音を共に10時に変えており、県史ではこれを記述から上手に消している。
時間を書き換えた理由は、米軍の上陸が午前9時であるからである。それ以前に機関銃のような連続した発射音を産業組合壕の入り口付近から聞こえていたとする証言は、編集者等には不都合だからである。
しかし、美惠子さんが遺した手記により、26日夜明け前であった事は確定されている。
 また、長田一彦氏や宮里美惠子さん等が見た、産業組合壕の入り口付近で小銃を抱え、返り血を浴びた死体こそ、宮里米子さんがヒジャーの山中で目撃した、銃弾を体中に巻きつけた役場職員であり、この人物が宮里盛秀氏であることは、動かない事実である。
 更に、米子さん等が無抜けの殻だった産業組合壕に入り、ウトウトしていたところに役場職員の家族等が一緒に帰って来て、追い出された時に、上記にある銃弾を体に巻きつけた男が居たことからして、梅澤隊長から武器供与を断られた後で、住民に集合をかけた盛秀氏が先導して忠魂碑前から帰ってきた事は目に見えるようである。
 また、宮城初枝さん等五人がウチガー山頂でみた「数十人の住民が子供の手を引いたりおんぶしたり、そして、老人を引きずるように、沈黙したまま、何処へともなく駆けていった」 ことからして、忠魂碑前に多数の住民が集まり、解散が告げられたことは、想像に難しくないことである。
 宮里美惠子さんのようにさまざまな出版物にその証言が掲載されている方は、編集者によって捻じ曲げられたことが判明するが、そうでない方々の証言は、何処が歪められているのか分からなくなっている。
 安仁屋名誉教授や宮城晴美氏がやったこれらの行為は、犯罪といって言い過ぎではない。

ところで (KOBA)
2010-05-17 19:31:42
 昨日大々的(爆笑)に行われた「人間の鎖」、全部「繋がった」のでしょうか?
思い返せば (太平山)
2010-05-17 20:32:48
安仁屋 正昭様

はじめまして。安仁屋教授の情報ありがとうございます。私は5月10日のエントリーで以下のコメントを寄せましたが、

>知っていて嘘をついたか?ついでだが10~13年ほど前だったか、慰霊の日の教材に使用された沖大か沖縄国際大か知らないが、沖縄戦に詳しい有名なA教授の沖縄戦記述に関して、戦艦大和は潜水艦攻撃により撃沈されたとあった。沖縄の反戦教授の軍事知識レベルが知れるというものである。<

そのA教授というのはまさしく安仁屋教授です。極左反戦教授であれば何も匿名にする必要はなかったなとホゾを噛んでいます。狼魔人さんや安仁屋さんの話を聞いて、安仁屋教授が言う「戦艦大和は潜水艦攻撃により撃沈された」というのは無知ではなく、知っていながら捏造したと確信するに至りました。ノーテンキだったのは私の方です。

おそらく大和の最期なんてものは、彼にとってはどうでもいいことで、不沈戦艦と言われた大和の特攻出撃、のべ600機以上に亘る艦載機攻撃、4000名にならんとする艦船将兵の戦死者に思いを馳せる気はさらさらなく、むしろ大和を毀損したいがために潜水艦により撃沈されたと矮小化したのではと考えています。

安仁屋教授に限らず沖縄タイムスの屋良記者など反戦平和を標榜する知識人達の狡猾、欺瞞、倨傲にはただただ怒りしか湧きません。

当然ながら以下の文は私の氏に対する強烈な皮肉ですが、誤解する人もいるかもしれませんので一言お断りしておきます。

>ちなみに私が昨日紹介したA教授は沖縄国際大学の名誉教授でした。すばらしい常識の持ち主です。感服しました<

以上







奇人?変人? (狼魔人)
2010-05-18 09:27:27
安仁屋 正昭さん

お名前から判断するとウチナーンチュだと思うのですが、集団自決の証言については詳しく検証されているようで、沖縄県人でタイムス史観に異論を唱えるのは貴方は変人なのでしょうか?(笑)

沖縄人で異論を唱えるのは変人どころか「ニセ沖縄人」とか「裏切り者」と言い出す輩、もとい、方々(琉球新報によると差別用語ですって)が出てくるのも困ったチャンです。

私も、かの沖縄版言論封殺魔こと目取真センセに「漢奸」というありがたい命名をして頂き感涙に咽んでいるところです。

貴方と同じ名前の安仁屋センセは「国費留学」で広島大学を卒業させて貰いながら何をトチ狂ったのか、沖縄に戻ってからの反日の怨念には凄味さえ感じます。
彼は日本国に二つの恩義を受けて現在に地位を得ているはずですが「反日」を商売道具にしては、歴史の真実もクソもないのでしょうね。

二つの恩義とは
(1)当時の全国の受験生よりはるかに学力の低い沖縄の高校生をハードールを低くして特別枠で国立大学に入学させてもらった。

(2)その四年間の学費は日本政府に出してもらった。

同じことは南の島のペンギン市長にもいえるのですが、彼ら沖縄のインテリにいえることは、沖縄に帰ると殆どが「反日」になるという共通項です。

その謎を解く鍵は「国費留学制度」にあると、最近考えるようになったのですが、これについては改めて述べて見たいと思います。

集団自決について他にも気がついたことがあればご教示下さい。

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