狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

教育の劣化は国の劣化 自分の頭で考えない大学生

2007-11-26 07:00:16 | 教科書

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■藤原正彦教授の「国語教育絶対論」■

 

“中学レベル”の大学生急増」を嘆いていたら、一流大学のエリートといわれる大学生の中にも「自分の頭で考えない学生」が増えているという。

産経新聞の連載特集「やばいぞ日本」シリーズによると、

韓国の学生に比べても日本のエリート大学生は、

「自分の頭で考えない。言われたことしかできない。自己本位。確認の甘さ。希薄な責任感…」

といった学生としての基本的な面で劣るという。

少子高齢化対策が論議されて久しいが、教育の劣化は学生の劣化、ひいては日本という国の劣化を意味する。

子どもは世を映す鏡である。

                 *

【やばいぞ日本】第4部 忘れてしまったもの(5)20年前から考える力消失11.10 03:45

「夏果てて秋の来るにはあらず」。これは「徒然草」第155段中の文言である。
 北海道大学大学院の数学者、本多尚文准教授はこのごろ、この言葉の予見性をかみ締める。

 何事にも前兆があり、急にある事態が出現するのではない-。兼好法師はそう言っているのだが、日本の今の若い世代の学力の衰退ぶりに重ね合わせて、本多氏には大いに痛感するところがあるという。「今から考えると、現状への兆しは、20年ほど前からありました」

 本多氏は1984年8月に韓国ソウル市で学生を対象に開催された日韓合同の数理科学セミナーを思いだす。

 4年後にオリンピックを控えた当時の韓国には、近代化を目指す活気が満ちていた。しかし、乗用車の性能ひとつをとっても、日本との産業・科学技術力には、大きな差があった。

 この合同セミナー開催にあたった日本側は広中教育研究所。当時、米ハーバード大と京都大の教授であった広中平祐氏が主宰する民間組織だった。韓国側は明知大学校で、日韓合わせて61人の高校生から大学院生までが集まり、数学やコンピューターなど数理科学の勉強に取り組んだ。

 「このとき、日本と韓国の高校生や大学生の間に歴然とした差が表れたのです」

 当時、東大の大学院生であった本多氏は、セミナーの運営を手伝うスタッフとして参加していたこともあり、より客観的に見ることができた。

 驚いたのは、知識や学力の差ではない。数学や物理の力では日本側が圧倒的に上だった。英語力も韓国側が後れをとっていた。しかし、学生として最も基本的な部分の判断力や、ものを考える力で、日本の参加者が劣っていたのだ。

 5泊6日のセミナーが進むにつれて韓国側の教授陣が驚き始めた。交流のための市内見学などの際にも日本の参加者は緩慢だった。相手の意をくみ取り、次を読んで適切に動く韓国の若者たちの行動との間に、際立った差が表れた。

 「あのときの日本からの学生は、いわばエリート的な集団でした」と本多氏は補足する。

 40人の日本勢は、広中教育研究所が全国から選抜した若者だった。高校生たちは、各都道府県の優秀校でも5~10年に一人、現れるかどうかという数学の才能の持ち主で、なおかつ活力を備えた男女だった。

 才能育成のために、ソウルへの旅費も滞在費も無料という信じられないほどの好条件で選抜された顔ぶれだった。

 「隣国同士の同じ関心を持つ若者を集団で見比べることになった結果、次の世代を支える日本人に浸透しつつあった凋落(ちょうらく)傾向が、
線の透過画像のように、はっきりと見えたのです」

 
自分の頭で考えない。言われたことしかできない。自己本位。確認の甘さ。希薄な責任感…。基本的な部分であまりにも差があった。

 「自分を含めて、この世代が社会の中核になる20年後、日本と韓国の力は逆転するのではないかと感じました」

 本多氏はソウルの夏を振り返る。明知大学校の教授は「このセミナーで自信を与えられた」と言ったそうである。

 それから23年-。日本の停滞傾向は予兆から現実へと変わった。日本での理科離れは、加速して止まらない。

■3けたの計算なくした「ゆとり」

 1970年代、日本の学校教育は、「ゆとり」に舵(かじ)を切った。当時、受験戦争や詰め込み教育への批判が起きるとともに、暗記型から考える力を養う必要性が指摘されていたからだ。

 「ゆとりのある授業・楽しい学校」。日教組が1976年5月に発表した教育課程改革試案のねらいだ。試案では小学4年からの「総合学習」新設、「授業時間2~3割削減」などを提言した。2割を超える授業時間削減は、その後の学習指導要領改定で現実になってしまう。

 小、中、高校などの教科内容や授業時間数などを定める学習指導要領改定は、ほぼ10年ごとに行われてきた。1977年改定では、その名もずばりの「ゆとりの時間」(学校裁量の時間)が登場した。この時間は地域や学校の特色を生かした教科外活動などに使われるはずだった。だが「子供たちを遊ばせている」「何もしない時間」などの批判が起きて消えた。

 1998年改定の現行指導要領では、完全学校5日制に伴って減る授業時間以上に学習量を減らした。ゆとり教育の象徴として新設された「総合的な学習の時間」(総合学習)は教師の指導力に左右されるなど、効果があいまいだった。次期学習指導要領で削減される。

 教育施策の失敗はなかなか目に見えない。しかし、ゆとり教育の弊害は大学生の学力低下に表れた。「分数ができない大学生」の編著者の西村和雄氏(京都大経済研究所長)らが、経済学部の学生が基本的な計算が理解できないなどの実態をもとに警鐘を鳴らした。

 2004年12月。3年ごとに行われる経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA、2003年調査)が公表され、世界でトップと思われてきた日本の“学力神話”が揺らいだ。41カ国・地域の15歳を対象としたその調査で、日本の高校1年生の学力は、「数学的能力」が2000年調査の1位から6位に、「読解力」が8位から14位に落ちた。

 文科省は、数学的応用力について「統計誤差の範囲でトップグループ」と弁明したものの、読解力不足は「1位グループとは差がある」と認めざるを得なかった。

 読解力は文章や地図、グラフからデータを読み取り、回答理由を記述させるなどの問題だった。文章を理解し、分析、評価する考える力を問うもので、ゆとり教育がねらいとしてきたものだ。

 数学者の桜美林大教授、芳沢光雄氏は、論理的思考力や読解力が養われていない現状を心配する。ゆとり教育で小学校で3けたの計算がなくなった例を挙げ、「あみだくじを思い浮かべれば2本だけでは、いったり、きたりだけだが、3本以上になると全く変わる。計算問題も2けただけでは数学的思考力を育てる上で問題がある。なのに3けたを安易に消してしまった」と語った。

 十分な検証なしで思いつきのようにゆとり教育が進められたことが、考える力を奪い、日本の衰退を招く結果になっている。(沢辺隆雄)

 
                  ◇

ざっと一読しただけでも次のような大学生の劣化が目に付く。

>自分の頭で考えない。言われたことしかできない。自己本位。確認の甘さ。希薄な責任感…。基本的な部分であまりにも差があった。

>読解力は文章や地図、グラフからデータを読み取り、回答理由を記述させるなどの問題だった。文章を理解し、分析、評価する考える力を問うもので、ゆとり教育がねらいとしてきたものだ。

>数学者の桜美林大教授、芳沢光雄氏は、論理的思考力や読解力が養われていない現状を心配する。

全国学力テスト以降、各県は教育の底上げに努力をしているようだが、(学力向上チーム設置など学力テスト結果で動き出す自治体

具体的にどこから手をつけるかと考えたとき、藤原正彦御茶ノ水大学教授の「国語教育絶対論」が脳裏をよぎる。

藤原教授によると、小学校における国語教育こそ教育の本質と考える。

その理由は、学校教育で教科書も参考書も国語で書かれており、知識習得・情報伝達は、読む、書く、話すの国語力不十分では、不可能だからである。 

国語が出来なければ理科や社会はもちろん、数学の応用問題も 英語の和訳も、学習に困難をきたす。

更に藤原教授の「国語教育絶対論」では、言語は思考した結果を表現する道具にとどまらず、思考そのものでもあり、思考を深めるためには国語の読解力を深めねばならないという結論に至る。

 

『祖国とは国語 』


    国語教育絶対論

(一)日本再生の急所


  我が国の直面する危機症状は、足が痛い手が痛い頭が痛いという局所的なものではなく、全身症状である。すなわち体質がひどく劣化したということである。国家の体質は国民一人一人の体質の集積であり、一人一人の体質は教育により形造られる。すなわち、この国家的危機の本質は誤った教育にあるということになる。
 教育を立て直すこと以外に、この国を立て直すことは無理である。これは時間のかかることであり、即効薬も起死回生の一手も逆転満塁ホームランもない。即効薬のないことを肝に銘じないで、これまでのように、これこそ即効薬と思い次々に小手先の改革に走っていては、事態を悪化させ、いたずらに時間を空費するばかりである。数十年かけて落ちてきた体質を元に戻すには数十年かかると肝に銘じた方がよい。
 教育を立て直すことが、すべての中核であることに異論の余地はありえないが、これをどう立て直すかがすこぶる難しい。政治、経済、社会から現代という時代までが絡んでおり教育界は百家争鳴を呈している。「ゆとり教育」「人権教育」「個を育てる」「国際人を育てる」「自主性や創造性を養う」「生きる力を育くむ」「指導でなく支援」「新しい学力観」などの処方箋がここ二十年ほど唱和されてきたが、いかほどのこともなかった。
 教育の質はそれを受けた者の質を見ればたちどころにわかる。大学生を見れば質の低下は著しい。これらスローガンが単なる美辞麗句に過ぎなかったことは明白である。
 親が悪い、先生が悪い、大人が悪い、文部科学省が悪い、社会が悪い、時代が悪いなどと犯人探しも行なわれてきたが、プラスとなるものは何も産み出さなかった。どれも悪い、という当たり前の事実が確認されるだけだった。
 問題は我が国の劣化しきった体質を念頭に、いかに教育を根幹から改善するかである。そのため、具体的に何から手をつけたらよいのか、ということである。私には小学校における国語こそが本質中の本質と思える。国家の浮沈は小学校の国語にかかっていると思えるのである。

(二)国語はすべての知的活動の基礎である
 情報を伝達するうえで、読む、書く、話す、聞くが最重要なのは論を俟たない。これが確立されずして、他教科の学習はままならない。理科や社会は無論のこと、私が専門とする数学のような分野でも、文章題などは解くのに必要にして充分なことだけしか書かれていないから、一字でも読み落としたり読み誤ったりしたらまったく解けない。問題が意味をなさなくなることもある。かなりの読解力が必要となる。海外から帰国したばかりの生徒がよくつまずくのは、数学の文章題である。読む、書く、話す、聞くが全教科の中心ということについては、自明なのでこれ以上触れない。
 それ以上に重大なのは、国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。
 ものごとを考えるとき、独り言として口に出すか出さないかはともかく、頭の中では誰でも言語を用いて考えを整理している。例えば好きな人を思うとき、「好感を抱く」「ときめく」「見初める」「ほのかに想う」「陰ながら慕う」「想いを寄せる」「好き」「惚れる」「一目惚れ」「べた惚れ」「愛する」「恋する」「片想い」「横恋慕」「相思相愛」「恋い焦がれる」「身を焦がす」「恋煩い」「初恋」「老いらくの恋」「うたかたの恋」など様々な語彙で思考や情緒をいったん整理し、そこから再び思考や情緒を進めている。これらのうちの「好き」という語彙しか持ち合わせがないとしたら、情緒自身がよほどひだのない直線的なものになるだろう。人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言でない。母国語の語彙は思考であり情緒なのである。
 言語と思考の関係は実は学問の世界でも同様である。言語には縁遠いと思われる数学でも、思考はイメージと言語の間の振り子運動と言ってよい。ニュートンが解けなかった数学問題を私がいとも簡単に解いてしまうのは、数学的言語の量で私がニュートンを圧倒しているからである。知的活動とは語彙の獲得に他ならない。

 日本人にとって、語彙を身につけるには、何はともあれ漢字の形と使い方を覚えることである。日本語の語彙の半分以上は漢字だからである。これには小学生の頃がもっとも適している。記憶力が最高で、退屈な暗記に対する批判力が育っていないこの時期を逃さず、叩き込まなくてはならない。強制でいっこうに構わない。
 漢字の力が低いと、読書に難渋することになる。自然に本から遠のくことになる。日本人初のノーベル賞をとった湯川秀樹博士は、「幼少の頃、訳も分からず『四書五経』の素読をさせられたが、そのおかげで漢字が恐くなくなった。読書が好きになったのはそのためかも知れない」と語っていた。国語の基礎は、文法ではなく漢字である。
 読書は過去も現在もこれからも、深い知識、なかんずく教養を獲得するためのほとんど唯一の手段である。世はIT時代で、インターネットを過大評価する向きも多いが、インターネットで深い知識が得られることはありえない。インターネットは切れ切れの情報、本でいえば題名や目次や索引を見せる程度のものである。ビジネスには必要としても、教養とは無関係のものである。テレビやアニメなど映像を通して得られる教養は、余りに限定されている。
 読書は教養の土台だが、教養は大局観の土台である。文学、芸術、歴史、思想、科学といった、実用に役立たぬ教養なくして、健全な大局観を持つのは至難である。
 大局観は日常の処理判断にはさして有用でないが、これなくして長期的視野や国家戦略は得られない。日本の危機の一因は、選挙民たる国民、そしてとりわけ国のリーダーたちが大局観を失ったことではないか。それはとりもなおさず教養の衰退であり、その底には活字文化の衰退がある。国語力を向上させ、子供たちを読書に向かわせることができるかどうかに、日本の再生はかかっていると言えよう。

(三)国語は論理的思考を育てる
 アメリカの大学で教えていた頃、数学の力では日本人学生にはるかに劣るむこうの学生が、論理的思考については実によく訓練されているので驚かされた。大学生でありながら(-1)×(-1)もできない学生が、理路整然とものを言うのである。議論になるとその能力が際立つ。相手の論理的飛躍を指摘する技術にかけては小憎らしいほど熟練しているし、自らの考えを筋道立てて表現するのも上手だ。(略)(『祖国は国語』抜粋)

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