狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

集団自決訴訟ー社会常識と法律論

2009-01-04 08:09:35 | ★集団自決

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昨年の11月30日、沖縄の宜野湾市で『「集団自決」訴訟・大阪高裁の真実』と題する講演会が行われた。 

その模様はとりあえず翌日の【「紙の爆弾」が降ってきた!『鉄の暴風』の次には】で報告したが、詳細を後で報告するといったまま放置し、遂に年を越してしまった。 

この種の講演会報告は、講師の熱気が伝わっているうちにやっておかないと、時間の経過と共に熱気が醒めるにつれて記憶さえも薄くなってしまう。

当時の講演のメモを頼りに薄れた記憶をたどって、講師の熱弁を回想してみたい。

控訴審では被告側の証言は採用しても、原告側の証言はほとんど退けられ、「真実相当性」についても最高裁の判例に反する新しい判断を示した。

上告審では、事実認定はせず法律審のみであり、原則として地裁、高裁の行った事実認定に拘束されるという。

講演会では「大阪地裁判決の真実」と題しているため、高裁の証拠認定の不当性を批判することに多く時間を割いていたが、

本日のエントリーではそれは端折って、もっぱら高裁が示した「新判断」について、当日配布された徳永、松本両弁護士の解説文を基に論考してみたい。

以下に引用する両弁護士の解説文で、大阪高裁が示した最高裁判例に反する心判断部分を太文字で強調した。

 
小田判決の功罪 ~「神話の証明」と「中東の笛」~ (11/17)

弁護士 徳永信一

(略)周知のように、この裁判の最大の争点は、日本軍の隊長より発せられた「自決命令」の真実性でしたが、小田判決は、かつて通説だとされていた「自決命令」の真実性が揺らぎ、現時点では「真実性の証明はない」ことを明確に認めています。日本軍による自決命令は文字どおり神話であったことが証明されたのでした。  

「神話の証明」にもかかわらず、敗訴したのは、控訴審が、これまでの最高裁判例の基準、すなわち名誉に関する著述の公表には真実性がなければならないとしていたルールを変えてしまったからでした。いわば司法における「中東の笛」です。なんとしても大江・岩波を負けさせるわけにはいかないという戦後民主主義の執念のようなものを感じました。  

小田判決が持ち出したルール(基準)は、出版当時、真実だと信じるにつき相当な理由があれば、その後、真実性が揺らいでも、真実でないことが明白とならない限り、出版の継続による不法行為は成立しないというものでした。
これまでの最高裁の基準は世間から殺人を疑われた人に無罪判決が下った場合、その後に彼を殺人者とする著述の公表は許されないが、判決以前から販売されていた書籍であれば、その後も大々的に出版を続けてもかまわないというものです。

これまで最高裁が否定し続けてきた米国の「現実の悪意」の法理を実質的に取り入れたものといえるでしょう。最高裁では、このルール(基準)の当否が審理されることになりますが、それが最高裁判例違反であるばかりでなく、著しくバランスを欠いたものであることは誰の目にも明らかです。 
最高裁に良識
があれば、小田判決の破棄差し戻しは必定です。 
  
                   ◇

名誉毀損の基準をめぐっての戦い(12/11)


弁護士 松本藤一

(略)
第3に名誉の侵害による損害を著しく低く考えているのです。すなわち、名誉が棄損されているとしても時間が経過していることから梅澤隊長や赤松隊長の弟赤松秀一氏に取り立てて言うほどの名誉感情の侵害や社会的評価の低下等の具体的な不利益をもたらすようなものはないというのです。結局、軍人という公務員であった者の名誉は一般人より低く保護されても仕方がないといのです。
 第4に、このことは最高裁判所の名誉棄損に関する判例を無視して、新たな基準を作ったことになります。最高裁判所は、どれほど繰り返し報道されてもその内容が事実でないものは真実となるものではないこと、報道した事実を真実と誤信しても、誤信したことが止むを得ない場合は相当性があったとして責任を免れるが、そうでない場合は免責されないというものでした。従って、『太平洋戦争』『沖縄ノート』がどれほど多くの報道を基にしてもその真実相当性については、評価する時点に立った真実相当性が判断されるべきです。昭和45年と43年に出版されれたものに対する評価は、現在では十分に可能です。ところが前述のとおり裁判所は歴史的事実についは言論の自由の中で決着を付けるべきだとして判断を放棄したのです。当然に裁判例に反しており上告理由となります。(略)
                     ◇

両弁護士のていねいな解説文にこれ以上の解説も野暮だとおもわれるし、上告で争われる法律審に素人の筆者が余計な口出しとも考えたが、

法廷は法律の素人が争うものであり、法律の専門家は素人を補助するものであるはず。

ならば、法律バカとか法非と揶揄され、ともすれば社会の常識から遊離しがちの法律論争に素人が口出しするのに何で遠慮がいるだろう。

そもそも、法律の専門家が社会性を無視し非人間的な法律論に陥る愚を避けるため、社会常識のある素人が裁判へ参加を試みるのが裁判員制度のはずだ。

 

さて、法律の専門家である徳永、松本両弁護士が切歯扼腕したのが大阪高裁小田裁判長が示した「新判断」。

だが、原告側の憤りに対して、被告側の戸惑いとも取れる記事を沖縄タイムスは書いている。

控訴審判決の2日後から始まった『「集団自決」判決を受けて 再考教科書検定』と題する連載特集の第4回で、

小田裁判長の「新判断」に喜びながらも、記事は「従来の判例にない新しい判断」と戸惑いを隠しえない。

2008年11月5日 沖縄タイムス

<再考 教科書検定④>  「集団自決」判決を受けて

「新しい資料の出現によって、真実性が揺らいだとしても、直ちにそれだけで書籍の出版継続を違法と解するべきではない」

「集団自決」訴訟の控訴審判決で、大阪高裁(小田耕治裁判長)は名誉毀損と出版の違法性をめぐる不法行為の認定基準として、従来にない新しい判断を示した。

長年、出版を続けてきた書籍の記述について、公益性や公共性が認められれば、発刊当時に真実であることの証明(真実性)や、真実と信じるだけの相当の理由(真実相当性)があれば、記述に相反する新たな証拠が出ても、原則的に法的影響は受けないというものだ

小田判決はさらに踏み込む。

仮に後から出た資料で誤りとみなされる主張も、言論の場において無価値なものとはいえない。これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものである」

資料に基づく批判で論点が深められることで、新たな資料が探索されて批判が繰り返され、時代の意見が形成されていくという、民主主義の理念をうたった。 

被告代理人の秋山幹男弁護士は、判決後の記者会見で「私たちが主張した表現の自由の概念を、真正面から受け止めてさらに進化させた」と歓迎した。

                    ◇

>「新しい資料の出現によって、真実性が揺らいだとしても、直ちにそれだけで書籍の出版継続を違法と解するべきではない」(控訴審判決より)

法廷に社会の常識を持ち込んだとしたら、これほど社会常識とかけ離れた判決はないだろう。

「真実性の揺らいだ」記述の出版継続によって踏みにじられるれる人権や、毀損される名誉はこの裁判長の辞書にはないのだ。

この判断により名誉毀損や人権蹂躙をあまんじて受ける者は公務員という限定的判断だとはいえ、この小田裁判長の「新判断」は公務員にとっては「恐怖の新判断」だといえる。

この判断が判例として確定すれば、公務員にはもはや人権もなければ名誉もないということになる。

「仮に後から出た資料で誤りとみなされる主張も、言論の場において無価値なものとはいえない。これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものである」

相手が公務員なら「誤りとみなされる主張」で罵倒した文を掲載した書籍を継続的に出版しても寛容であれというのだ。

仮に公務員が公共の利益を守る立場だからという理由で、一定の人権を制限することができるとしても、

抽象的な「社会公共の利益」を理由に人権を制限することなどは憲法で保障された基本的人権の侵害ではないか。

梅澤、赤松両原告が63年前に軍人だったことを「公務員」と捉えて、

大江・岩波の出版継続を保証するため、原告の基本的人権を踏みにじり、名誉を毀損したことを甘受せよというのだ。

これでは日本は法治国家とはいえない。

全国の公務員よ、人権と名誉を守るため立ち上がるべきではないか。

                     *

判決直後のエントリー「大江健三郎のいかがわしさ」で次のように書いた。

<人権と表現の自由を秤にかけた、大阪高裁の小田裁判長は、

「表現の自由」が重いと裁決した!

 

裁判長が、人権より表現の自由に重きをおいたた理由は、原告と被告の社会的バックボーンにある。

人権を主張した原告の一人は高齢の元軍人である。

一方、表現の自由を主張する被告は、戦後民主主義を代表する大手出版社とノーベル賞作家。 

表現の自由を主張する被告が、そのものずばりの表現・言論の自由を体現する出版社と作家であれば、

裁判長の秤の目盛りが被告側に傾くのも、むべなるかなである。

更に原告の元軍人はかなりのご高齢。

裁判長の判断に、

「被告の表現の自由を守るためには、高齢の元軍人に少しぐらいの人権侵害はあっても、老い先短いのだから我慢せよ!」

といった驕りが潜んではいなかったか。

被告側から「判決の何処にそんなことが書かれてあるか!」と横やり飛んで来そうだが、

判決文には、こう書かれている。

仮に後から出た資料で誤りとみなされる主張も、言論のばにおいて無価値なものとはいえない。 これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものである

間違った主張でも寛容になれ、つまり「我慢せよ」と書いてあるではないか >
                   

                    *


所変われば品変わる。

国が違えば法律も異なる。

小田裁判長は日本の最高裁判所の判例を無視して、アメリカの法律を判決に適用した。 原告側弁護士が「新判断」として驚くゆえんである。

アメリカでは、メディアは公人について名誉毀損の責任を問われることがほとんどないと聞く。

公人に対しては「現実の悪意」という法理が確立されているからだ。

「現実の悪意」とは、報道機関が報道する内容が、

①虚偽であることを知っていたか、あるいは

②真偽にまったく関心をよせずに報道し、

その報道が相手に損害を与えることを認識していたことを指す。

つまり、公人側は、名誉毀損で勝訴判決を得るためには、「現実の悪意」があったことを明確に立証しなければならない。

これは、意図しないでなされた虚偽の報道は、報道の自由を守るためには甘受しなければならないという考えからだ。


しかし、「現実の悪意」があったかどうかは、あくまで報道機関の主観によって判定される。

つまり、報道機関が通常では考えられないような不注意でその内容を真実だと誤信したとしても、その報道が正しいと考えていたのであるから、「現実の悪意」は存在しないということになる。

したがって、現実問題としてはこれを公人側が立証することは大変難しいことになる。

このように、アメリカのマスコミは、公人や公的人物からの名誉毀損訴訟を恐れて、報道が制約されることはほとんどない。

一方日本では「現実の悪意」に対してアメリカとは異なる最高裁判例がある。

日本で名誉毀損が成立しない要件は、

①報道した事実に公共性があること、

②報道は公益目的であること、

③報道内容に誤りはないこと

④誤りだとしても真実と信じてやむを得ない事情があったこと(真実相当性)

当然のことながら、これらすべてが報道機関側に立証責任がある。

 

筆者のこれまでの常識では判例とは最高裁判所が下すものと認識していた。

今回の大阪高裁の「新判断」は、判例といえるのか。

最高裁での審議は法律審のみというなら、高裁の「判例」と最高裁の「判例」の齟齬を審議することがポイントであろう。

ここでも素人の社会常識を持ち出すと、高裁は最高裁の判例に拘束されると考えるのが普通だろう。

裁判所法にはこんな条文もあるし・・・。

第四条 (上級審の裁判の拘束力)  上級審の裁判所の裁判における判断は、その事件について下級審の裁判所を拘束する

上告審で法律の専門家が法律論を戦わしたとしても、

最高裁判例を高裁判例が覆すということは社会常識に反する。

最高裁では原告側の逆転勝訴。

これが常識溢れる当日記の判断である。

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3 コメント

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最高裁様 (ヒロシ)
2009-01-04 09:18:45
最高裁判所様
難解な判決を出すとそれを利用して
「国籍法改正」などと間違った方向へ行ってしまう恐れがあります。
名誉毀損の裁判ですので
お二人の名誉に関して「あったかなかったか」の判断をおねがいします。
Unknown (涼太)
2009-01-05 00:45:00
狼魔人様

今回の裁判ほど、常識と乖離した判決はないと思います。
「沖縄戦史」や「太平洋戦争」などからは「命令説」は削除されたと記憶しています。
「沖縄ノート」には「自決を命じた残忍な隊長」と明確に記述があるのにも関わらず、大江自身も裁判では「命令したとは書いていない。軍の構造を書いた。」と逃げています。「例の11万集会でも高校生を使って「軍の関与を消さないで。」と訴えさせていますが、「軍の命令」が明らかに「関与」とか「軍の構造」などの表現に変化しています。
裁判長も、良くこんな小賢しい論法を採用するものだと思います。
要するに、常識的に考えて「命令」は無かったのです。
このような世論の中で、「沖縄ノート」の発行を続けるのは、愚かな行為としか思えません。
そのことは沖縄県民の声を自負する、沖縄タイムスはじめ沖縄の左翼団体にも言えることです。県民の声と一番乖離しているのは、実は沖縄タイムスや沖縄の左翼団体です。ますます、窮地に追い込まれるだけです。


Unknown (狼魔人)
2009-01-05 16:19:58
ヒロシさん

最高裁判所長の目に届くかどうかはさておいて、ネット上で頻繁にカキコミして「場外乱闘」に応援するしかないでしょうね。


◆涼太さん

>今回の裁判ほど、常識と乖離した判決はないと思います。

裁判制度の導入もこの点を考慮して、素人の常識を法廷に持ち込むわけですから、遠慮なく控訴審判決を素人の目で見た批判し、ネット上にカキコミしてください。 巡り巡って彼らの耳にも入ります。

彼らは意外とネット世論を気にしているという話しも聞きます。

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