狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

集団自決論争の系譜

2009-11-28 10:30:11 | ★集団自決

 

 

 

前に「沖縄イニシアティブ」方式という、沖縄紙独特の言論封殺法を紹介した。(雑誌『WILLL』でも紹介してある)

だが、実際はその十数年前の1980年代に、曽野綾子著『ある神話の背景』の評価を巡って、沖縄の知識人の間で行われた「論争」に「沖縄イニシアティブ」方式の先駆けを垣間見ることが出来る。

琉球大学助教授(当時)仲程昌徳氏が『沖縄の戦記』で、『鉄の暴風』の杜撰な取材方法を批判し『ある神話の背景』を評価した。

そのあとがきで仲程氏は次のように文を結んでいる。

「新聞連載中、あたたかい励ましと『琉球新報』文化部の三木健氏、出版するにあたってお世話になった朝日新聞出版局の赤藤了勇氏に心からお礼の言葉を申し上げたい。>

ナ・ナ・なんと、 『鉄の暴風』を批判し、『ある神話の背景』を評価する文を、あの「琉球新報」が連載させていた!?

そして、新報の三木記者に励まされていた!?

何より驚きは出版社が朝日新聞出版社であったことだ。(朝日選書208)

「集団自決訴訟」が提訴される、20数年前は記事を連載させた琉球新報も、出版をした朝日新聞もまだまともな部分が残っていたことが分かる。

だが、その数年後から沖縄の論壇は一変してくる。

沖縄のサヨク知識人が、一斉に徒党を組んで仲程氏に噛み付いてくる。

代表を決めての論争ならフェアーといえる。

だが、沖縄サヨクは数を頼んで袋叩きにするという卑劣な手段を使ったのだ。 数が少なければ当然発言の機会も制限され、いつしか仲程氏の名前は沖縄紙に紙面から見えなくなってしまった。

で、仲程氏を袋叩きにしたサヨク知識人たちとは?

太田良博石原昌家氏、大城将保氏、いれいたかし氏、宮城晴美新崎盛暉氏、岡本恵徳氏、牧港篤三氏らの発言が「琉球新報」紙に掲載され、さらに、タイムス紙上に伊敷清太郎氏の仲程氏批判文が・・・。

反対派は、いずれもお馴染みの面々だが、沖縄紙というアンフェアの土俵で一人の良識ある学者が紙面から放逐される構図をあらわす例である。

彼らの常套手段は理屈もヘッタクレもなく、ひたすらイデオロギー論争に引きずり込む魂胆で、まともに相手をした仲程氏こそお気の毒としか言いようがない。

ちなみに、反対論者のいれいたかし氏は、

「戦艦大和が沖縄に向かった任務は、沖縄県民の虐殺であった。 途中で撃沈されてよかった」

といった趣旨のトンでも論を沖縄タイムスに掲載する極左知識人である。(掲載する新聞も新聞だが)

詳細⇒続・戦艦大和の特別任務★それは沖縄県民の虐殺であった!

仲程氏を囲む「論争」の相手は、サヨク知識人連合にとどまらず「読者の声」も巧妙に「仲程バッシング」に利用するという徹底ぶりである。

ここに地元のサヨク雑誌「EDGE」に掲載された当時の「論争」についての様子を述べた文があるので引用する。

論点に関係ない部分を、ことさら情緒的形容詞を多用してのべるあたり典型的なサヨク支持者の文である。

 【「集団自決」論争】

  『ある神話の背景』の背景  〈神話〉を作る身振りと〈事実〉へ向かう姿勢

            石川為丸

 曽野綾子の『ある神話の背景』は、いささか挑発的な、右よりの論調を特徴とする雑誌『諸君』に1971年10月から1972年8月まで11ヶ月にわたって連載された後、1973年に、単行本として文芸春秋社から刊行された。この『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図はあまりにも明白であると言ってよい。「神話」とは、言うまでもなく、古くから人々の間に語り継がれている神を中心にした物語のことである。が、普通は、「客観的根拠なしに人々によって広く信じられていることがら」といった意味で使われている。曽野はかつての沖縄戦における日本軍のなした悪業の事実を、客観的根拠のない「神話」という水準のものにしたかったのだ。沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を、軽い「神話」にしてしまおうとする意図。慶良間列島の島々の名前を覚えにくいという人のために、曽野はこんなザレ歌をわざわざつくったりしているのだ。

「慶良間(けらま)ケラケラ、阿嘉(あか)んべ、座間味(ざまみ)やがれ、ま渡嘉敷(かしとき)」。最後の「渡嘉敷」に無理があるへたくそなザレ歌ではあるにせよ、曾野のこういう軽いノリが、暗黙のうちにそのことを物語ってもいるのだろう。

 だが、この書『ある神話の背景』はそれなりの説得力を持ってはいたようである。琉大の仲程昌徳先生でさえ、こんなことを書いて、曽野の「神話」説に寄り添ったほどなのだから。仲程先生は、「公平な視点というストイックなありようが、曽野の沖縄戦をあつかった三作目『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』にもつらぬかれるのはごく当然であったといえる。」(「本土の作家の沖縄戦記」)などと曽野を持ち上げていたのだ。だが、もし、曽野の語り口に惑わされずに、冷静に『ある神話の背景』を読んでいさえすれば、それが、戦後になってまとめられた赤松隊の「私製陣中日誌」や、赤松や赤松隊の兵士らの証言等をもとに構成された加害者の側に立ったものでしかなかったということがわかるだろう。いったいそんなもののどこに、「公平な視点というストイックなありよう」などが貫かれていようか。だが、仲程先生はさらに、〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつきくずしていくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。すわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられたのである。〉とまで述べて、曽野の「神話」説を全面肯定したのだ。

 こうした論調の存在を踏まえて、1985年になって、『鉄の暴風』で渡嘉敷島の集団自決の項を執筆した田良博氏から「沖縄戦に“神話”はない」と題された曽野綾子の「神話」説への丁寧な反論が「沖縄タイムス」紙上(1985年4月8日~4月18日)でなされた。これに対する曽野綾子からの「お答え」があり、更にそれに対して太田氏からの反論があった。この太田―曽野論争を受けて、タイムス紙上で、石原昌家氏、大城将保氏、いれいたかし氏、仲程昌徳氏、宮城晴美氏らが発言した。その後、『ある神話の背景』をめぐる論争等に関連して、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」が、沖大で催された。その際の、新崎盛暉氏、岡本恵徳氏、大城将保氏、牧港篤三氏らの発言が「琉球新報」紙に掲載された。さらに、タイムス紙上に伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」が掲載された。さらに、新聞の投書欄やコラムを通して活発な発言がなされた。

 「太田氏は、伝聞証拠で信用できないと(曽野らに)決めつけられた『鉄の暴風』の記述を戦後四十年にしてさらに補完したことでジャーナリストとしての責任を果たしたことになり、そのことに敬意を表したい。」といれい氏が述べている通り、この論争では太田良博氏は一貫して事実に向かおうとする真摯な姿勢を貫いた。それに比べて、曽野綾子の不真面目さが際立っていた。曽野は、「つい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである」ことをまず述べて、太田氏の主張も、それに反駁することも、自分の著作も、「現在の地球的な状況の中では共にとるに足りない小さなことになりかけていると感じる」などと言って、まともに対応しなかったのだ。また、「第二次世界大戦が終わってから四十年が経った」ので「いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない」などと説教までたれていたのだ。こういう無責任なずらしに対しては、石原氏がピシリといいことを言っている。「歴史始まって以来の大きなできごとである沖縄戦の全事実の一部たりとも、闇に葬り去らずに記録し、そこから再び惨劇を繰り返さない歴史の教訓を学ぶことが、体験者と同時代に生きるものの責務であり、体験を語ることが戦没者の死を無駄にしない生存者の使命となっている」と。『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図は、住民虐殺を始めとする、沖縄における日本軍のなした悪業の数々を免罪しようということであった。もともとそんなことは無理なことなので、曽野はまともに論争することができなかったのだと言えよう。客観的な事実に正面からぶつかったら、当然にもボロが出てしまうような質のものだった。だから曽野は、『鉄の暴風』の中の太田氏の記述を、「こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。」とけなしてみたり、「太田氏という人は分裂症なのだろうか。」などと病む者への配慮を欠いた、けなし文句で対応することしかできなかったのだ。挙句の果ては、沖縄は「閉鎖社会」だとか、学校教育の場では「日の丸」を掲揚し、「君が代」をきちんと歌わせろ、などと述べる始末であった。太田氏の反論に対して、曽野は、結局何一つまともに対応できなかったのだ。

 曽野の発言に見られるような支配的な潮流は、沖縄戦における日本軍の犯罪を免罪し、「もうあの戦争のことは忘れよう」ということであった。そういう文脈の中で、仲程昌徳氏が、「軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険があろう」という岸田秀の一節を引用して、民衆レベルでの戦争責任を持ち出そうとしたのは、それ自体は大切な問題であったにもかかわらず、住民の側が凄まじい被害を受けた場であるということを考慮にいれていないために、大きく論点を逸らす役割しか果たさなかったと言えよう。それは、「生き残ったものすべての罪である」などといった、沖縄戦における真の加害責任を免罪しようとする曽野の論調に荷担するものでしかなかったのだ。だが、そのような仲程氏の発言を除けば、県史料編集所専門員(当時)の大城将保氏の、「住民虐殺」も「集団自決」も根本的な要因は軍の住民に対する防諜対策、スパイ取締であったという、

客観的な資料に基づく説をはじめとして、総じて沖縄戦を再認識させる真摯なものであった。ただ、残念であったことは、論争が、沖縄という地域限定のものから全国的なものに展開する前に、曽野が逃亡を決め込んでしまったことである。

 こうした十四年前に行なわれた論争に、私たちは、今何を付け加えようか。それがあまりにも常識的なことであるためなのか、天皇制への言及がなかったことが、ただ一つ私などの気になっている点ではある。渡嘉敷や座間味にまで慰安婦を連れて蠕動していた日本軍は、そこでいったい何を目的にしていたのかということを、ひとまず再確認しておこう。渡嘉敷では住民を虐殺し、「集団自決」を強制させていたわけであるが、それは、皇軍の使命が沖縄を守るためなどではなく、「国体(天皇制)護持」のためであったからということだ。ポツダム宣言の受諾が遅れたのは、時の権力が国体護持すなわち天皇制の存続に執着したためであることは、今や常識となっている。天皇の命を救い、天皇制を延命させるための策謀のために、沖縄の住民九万四千人が犠牲にされたのだということは、何度でも確認しておく必要があるだろう。天皇(制)による戦争の凄まじい犠牲にあいながらも、それから半世紀以上経てもなお、天皇制は温存され、沖縄が日米両軍の戦争遂行のための中心基地にされているという事態に、私たちはもっと驚くべきなのだ。これは、戦争責任の問題が、「戦後責任」として現在にも持ち越されているということにほかならない。十四年前の「集団自決」論争は、今に温存されてしまった「戦前・戦中」と絡めて、繰り返し想起していくべきはずのものである。〈「EDGE」 NO8 1999 より〉

                     ◇

「おまけ」

人間、自分の痛い所を突かれると取り乱してヒステリックな反応を示すもの。

『WILL』掲載の鴨野記者のレポートに対するネット上の反応(当日記コメント欄を含む)を見ると、「軍命あり派」の動揺振りが吐露されて興味深い。

それにもうひとつの彼らの固定観念も垣間見れて、思わずニヤリとさせられた。

彼らの固定観念とは?

<「狼魔人日記」のような沖縄二紙と反対の論調をしつこく続ける人物は沖縄人であるはずがない

したがって、狼魔人のニセ沖縄人である。(爆)

彼らの思考範囲では、

「沖縄人とは一丸となって『自決命令(強制)の存在』を信じ、一丸となって『11万人集会』を支持するという金太郎飴のような集団」だ、

という妄想を超える事は出来ないらしい。

その固定観念から導きだされる結論は、「沖縄在住のニセ貴縄人が書いたのが狼魔人日記」でアル。

このように動揺すると彼らは、沖縄人以外に沖縄を批判するのは許さないという公理?を持ち出してくる。

同じようなことは他の分野にも見られる。

かつて(復帰前)沖縄に思い入れのあった竹中労氏が、沖縄の島々を廻り口伝の民謡を収集した。

その体験を基に、当時の沖縄文化の第一人者といわれた某氏(沖縄の有名人の父)と対談した折、

議論が白熱し返答に困った某氏が放った一言が今でも脳裏に残っている。

「やまとぅんちゅんかいぬーぬわかいが!」

「大和人に何が分かるか!」

これでは議論も何もあったものではないと思ったが、

「狼魔人・やまとんちゅ説」にはこれと同じ構図が見て取れる。

終戦直後から現在に至るまで沖縄に在住する筆者は、

かつて一度たりとも自分のことをヤマトンチュだと言った覚えははないのだがね。

つりにひっかったのかな。(笑)

 

★『WILL』緊急増刊号

特集<狙われる沖縄>の目
 http://www.web-will.jp/

 

  沖縄の戦記 (1982年)
仲程 昌徳
朝日新聞社

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大田昌秀氏が撒いた「人類館」のウソ!「日本政府の沖縄差別政策」

2009-11-28 07:19:46 | 未分類

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今年は薩摩が1609年に琉球王国を侵略・支配してから400年、明治政府が琉球処分(廃藩置県)してから130年の節目の年ということで左翼反日団体や、沖縄二紙が「日本が沖縄に差別政策を取って来た」という主旨の大キャンペーンを行っている。

明治政府が沖縄に対して行ったとされる差別政策の象徴として「人類館」が幾度となく沖縄紙で取り上げられてきたが、これが真っ赤なウソの情報であることを昨日のエントリーで述べた。

「ウソも百遍くり返せば事実になってしまう」とはレーニンが言ったらしいが、沖縄紙が流布させたウソに「集団自決軍命説」があるが、「人類館」のウソは一体誰が流布させたのか。

その前に「人類館」のウソを復習するとこうなる。

1903年(明治36年)、大阪で行われた勧業博覧会で「人類館」と称して沖縄人を見世物にし、これを知った沖縄県人が怒りの抗議をし、取りやめになったといういわゆる「人類館事件」のことだが、次の二つの事実が伏せられたウソが流布しているのである。

(1)沖縄県人が怒ったのは、沖縄人がアイヌ人や台湾人のような「野蛮な人種」と同列に陳列されたこと。(沖縄も差別の加害者)

(2)「人類館」は明治政府の博覧会のプログラムには載っておらず、会場の外に設けられた一業者の企画であったこと。

これらの事実を故意に隠蔽し新聞が流布させウソとは、明治政府が博覧会という国営事業で「沖縄人を差別した」というウソの情報である。

では、この「人類館のウソ」を最初に流布させたのは一体誰だったのか。

その犯人が大田昌秀元沖縄県知事であることを知る者は少ないが、それを暴いた人物が同じ姓を持つ太田良博氏であることを知る者はさらに少ないであろう。

太田良博氏といえば、「デマの暴風」と皮肉られる『鉄の暴風』の著者であり、自身が「集団自決」のウソを流布された張本人であることは実に皮肉なめぐり合わせである。

昭和54年4月30日発行の雑誌『青い海』に、太田良博氏は「『人類館』の真相」と題する11ページにも及ぶ論文を寄稿し、そこで大田昌秀氏がねつ造した「人類館」のウソを赤裸々に暴いて見せている。

太田良博氏によれば、沖縄県民に「差別と偏見」の怨念を植え込んだ「人類館」のウソは大田昌秀著『醜い日本人』にその端を発し、他の人やメディアが「人類館」を取り上げる場合もほとんどが大田昌秀氏の著書を引用或いはその孫引きであるという。

「人類館」について報じている当時の琉球新報の記事を、太田良博氏の文から孫引きすると、『醜い日本人』は、次のように説明している。

大阪で第五回勧業博覧会が催されたさいのこと、学術人類館の会場には、映画のセットよろしく茅葺小屋がしつらえられ、中には二人の沖縄婦人が“陳列され”、説明者が「此奴は、此奴は」とムチでで指しながら動物の見世物さながらに沖縄の生活様式とかを説明していた。 これを見て憤慨した県人の一人が“琉球新報”に投書し、生活様式を紹介するというのなら他に良策もあろうに、娼妓を連れてきて、“琉球の貴婦人”だと言っている。 また人類学研究のためというならあらゆる人種を集めるべきはずなのにそうはしていない。 現に浪速にも歯を染め眉をそった婦人がいるのに陳列していないではないか、と怒りをぶちまけた。 同紙は、すぐ“同胞に対する侮辱”と題する社説をかかげ、学術人類館とは名ばかりで、世人の好奇心に投ずる見世物的陳列に他ならないと論難した。(明治36年4月27日付け)》

 

「人類館」事件は明治期の歴史として、事実あった出来事ではあったが、それが、国家的行事である「大阪勧業博覧会」とは何の関係もない一興行師が、金儲けのため行った興行であった。

この「人類館」事件に目をつけたのが、「沖縄は日本の差別と偏見の被害者である」という反日イデオロギーで凝り固まった思想の大田昌秀氏であり、「人類館」事件をウソで塗り固めて流布させたのが氏の著書『醜い日本人』だということができる。

沖縄で「沖縄が差別された」という類の本がが沖縄の学者により発表されると何の検証もなく地元紙が此れを大々的に取り上げ、一旦地元紙の活字となるとこれが「定説」となっていくのが通例である。

そして、いつしかウソも真実として「定説化」していく情報のロンダリングが行われることになる。

これも『鉄の暴風』のウソの「定説化」と同じ構図である。

大田昌秀氏の『醜い日本人』は、その紹介文に「偏見と無知、驕れる姿勢を告発した痛憤の書」とあるように、

全編に大田氏の屈折した被害者意識が滲む「反日」の書であるが、それを象徴するような次のようなくだりがある。

この事件はきわめて象徴的なものだが、こうした論評が通用するところに、日本人の陰湿な差別と偏見の問題の根深さがある。 すなわち、人間を見世物にして恥じない事態は、封建的残照が濃厚だった明治時代だけのことではなく、民主憲法下の戦後においても堂々と再現されたからである。》

このように大田氏は自分がでっち上げた「日本国家の沖縄差別」というウソに悲憤慷慨して見せている。 文はさらに「アナタハンの事件」にまで話を拡大しているが、これについてはここでは省略する。

大田昌秀氏は、当時の大きな催し物には必ず付いて回る興行師の見世物小屋の類である「人類館」を、明治政府が沖縄差別政策のため行った国家的事業であるかのようにすり替えて自分の「反日」イデオロギーに県民を巻き込んでいるのである。

この「人類館」という興行に対しては、当時の周辺の一般国民も顔をそむけ、批判している。

これを報じる当時の新聞の論調も、警察や一般の反応もこれを行った吉田某という興行師に対して批判しており、この興行自体は大失敗だったという。

このような特殊な事件をあたかも日本の沖縄に対して行った差別政策として、県人の「反日感情」を煽った太田氏の罪は限りなく深い。

また太田氏のウソの情報を何の検証もなく、「日本の沖縄差別」の象徴として現在でも平気で垂れ流している沖縄二紙の罪はさらに深い。

ちなみに「人類館」に琉球貴婦人として「出演した」二人の沖縄人は辻の遊女であり、「出演料」(日当)は一日一円で、前金として200円が興行師から渡されており、大阪では気ままに大阪市内見学もできるとのことであった。 

日当は当時の沖縄人にとっては破格の給金であり、現在と違って当時大都会である大阪に行けるということだけで、「人類館」への出演は遊女達にとっては夢のような出来事であったことは想像に難くない。

(続くー気が向いたら)

                    

                     ◆

FreeJapan.TV
緊急拡散


外国人への参政権で国滅ぶ

国籍法の緊急拡散、あれから一年の歳月が経ちました。

なんと民主党は 国籍法よりも更に酷い、不法滞在外国人に日本の選挙権をあげる(外国人参政権付与)法案を進めようとしています!

日本が外国人に乗っ取られかねない法案ですので、動画で緊急拡散しFAX・手紙にて意思表示し断固阻止しましょう!

詳しくは「FreeJapan.TV(リンク)」でご確認お願いします。

                   ◆

『教育再生の動きを止めるな!!』

        教育講演会

講師 参議院議員 山谷えり子先生(元首相補佐官)

入場料 1000円


「日本の素晴らしい歴史と生命を守りたい。教育再生、拉致問題の解決、家族の絆、地域社会の再生にひたすら働いてまいります。」
この事を願い国会議員としてご活躍中の山谷えり子先生による教育講演会を開催します。
国政の現場で首相補佐官として教育基本法改正の為に働かれ、今も日教組問題究明議連事務局長や、日本のうたとおはなし伝承普及議員連盟幹事長等も務めておられます。
民主党政権下における教育行政の現状と課題についても、生の声を拝聴したいと思います。ふるってご参加下さい。


●とき:2009年 12月6日(日) 13:30開場  14:00開演

●ところ:カルチャーリゾート・フェストーネ(旧沖縄ハイツ)

●入場料:1000円


【講師のご紹介】 山谷えり子先生 
昭和25年     東京都生まれ、福井県育ち。
昭和48年     聖心女子大学文学部卒業
 サンケイリビング新聞編集長、テレビキャスター、エッセイスト
平成12年  6月  衆議院議員初当選
平成16年  7月  参議院議員(全国比例区)初当選
平成17年 11月  内閣府大臣政務官<小泉内閣>
平成18年  9月   内閣総理大臣補佐官(教育再生担当)<安部内閣、福田内閣>
平成20年 10月  自民党女性局長
11月  自民党拉致問題対策特命委員会 事務局長
平成21年10月  参議院環境委員長
主な著書 『嫁姑合戦』(TVドラマ化)、「走りつづけて・父・山谷親平五千六百一回目の朝」、
       「はりきりママのかしこい子育て」など。
 
事務局 TEL098-889-1305、2023   FAX098-889-6496
※この「教育講演会」は、競艇の交付金による日本財団の助成金を受けて実施します。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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