K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

黒沢清『ダゲレオタイプの女』

2017年08月24日 | 映画
こんばんは。奄美大島で真っ黒に日焼けしてしまったただけーまです。皮がボロボロ落ちて片腹痛しです。

今回は黒沢清監督の『ダゲレオタイプの女』のレビューです。
ダゲレオタイプってなんぞや!ということなんですが、世界最古の写真撮影方法らしいです。フィルムではなく銀板に焼き付けるために長時間の露光が必要な手法でした。

ダゲレオタイプ(仏: daguerréotype)とは、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールにより発明され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された世界初の実用的写真撮影法であり、湿板写真技法が確立するまでの間、最も普及した写真技法。銀メッキをした銅板などを感光材料として使うため、日本語では銀板写真とも呼ばれる。

(出典:「ダゲレオタイプ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2017年8月22日8時(日本時間)閲覧)





《Story》
パリ郊外、再開発中の街の一角、古い路地に佇む屋敷。
ジャンは、そこに住む気難しそうな中年の写真家ステファンの助手として働きはじめた。
「これこそが本来の写真だ!」等身大の銀板には、ドレスを着て空虚な表情を浮かべるステファンの娘マリーが写っている。ステファンは娘をモデルに、ダゲレオタイプという170年前の撮影方法を再現していたのだ。露光時間の長い撮影のため、動かぬように、手、腰、頭……と拘束器具で固定されていくマリー。
「今日の露光時間は70分だ!」ステファンの声が響く。

ダゲレオタイプの撮影は生きているものの息遣いさえも銀板に閉じ込めるかのようだ。
この屋敷ではかつてステファンの妻でマリーの母ドゥーニーズもダゲレオタイプのモデルをしていた。ドゥーニーズは今はもうこの世にいない。しかし彼女の姿は銀板に閉じ込められ、永遠を得たのだ。

ダゲレオタイプに魅入られたステファン。そんな芸術家の狂気を受け止めながらも、父から離れて自分自身の人生を手に入れたいマリー。そんな彼女に惹かれ、やがて共に生きたいと願うジャン。

ダゲレオタイプの撮影を通して、曖昧になっていく生と死の境界線。
3人のいびつな関係は、やがてある出来事をきっかけに思いもよらぬ方向へと動き出す――。
(「映画『ダゲレオタイプの女』公式サイト」より)


芸術の狂気に取り憑かれたステファンと資本の狂気に取り憑かれたジャン、そして二人の狂気に翻弄されるモデルのドゥニーズとマリーによるほろ苦い幽霊譚です。
モデルであるふたりの肉体は失われてしまいますが、ダゲレオタイプの手法によって銀板の上に永遠に焼き付けられた姿は戦慄ものです。





ダゲレオタイプは、ネガティブ画像のポジネガ反転を経てプリントされる通常の撮影技術に対して、ポジティブ画像をそのまま焼き付けるため、対のない「唯一の」写真ということになるそうです。
今や写真はデジタル化され、加工も撮り直しも容易なものですが、体力を削った唯一無二の「作品」としての銀板写真には魂が宿りそうですね。「写真を撮られると魂を取られる」と昔の日本人は言ったそうですが、それも納得の執念といったところでしょうか。
「唯一性」というのは「不可逆性」同様、いつでも人を狂わせるスパイスになるのでしょう。

「植物は献身的でありながら土地を制御する」と言うマリーの台詞こそ、この映画のテーマを物語っています。
ドゥニーズとマリーは写真のモデルとして、献身的にダゲレオタイプに尽くしているように見えますが、その実男たちを死後の亡霊という呪縛で支配してもいるのです。ダゲレオタイプでモデルの身体を拘束し、一見支配しているように見えても、精神的には死後の世界から支配されているという逆説的な支配関係。それを暗示させる台詞でした。



人が死を愛していることはたくさんの映画が証明してきたが、この映画は人が死しか愛せないことを証明してしまった。(小説家 藤野可織)

芥川賞受賞作「爪の目」の著者である藤野さんのコメントが非常に深く胸に刺さりました。
人は確かに死を愛でる(美的価値を見出す)側面があると思いますが、それしか愛せないとはなんとも虚無的で美しいことでしょうか!


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