K馬日記

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平野啓一郎『マチネの終わりに』

2017年04月23日 | 文学
こんにちは。最近あったかくなりましたね。初ヨーロッパで慌てふためいているただけーまです。

今回は久しぶりに小説の感想です。昨年、アメトークの本大好き芸人でも話題になった平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』です。※特設サイトにリンクします。
マチネ(matinee)とはフランス語で「朝・午前」を意味する単語ですが、とりわけクラシックの世界では「昼の演奏会」を意味します。



クラシックギタリストの蒔野聡史と著名な映画監督ソリッチを父に持つ国際ジャーナリストの小峰洋子が、互いに運命的に惹かれ合うも、いくつかのすれ違いで結局結ばれなくなる大人のビターな恋愛譚です。
そのストーリー展開の中で、リルケの『ドゥイノの悲歌』やトーマス・マンの『ヴェニスに死す』など、さまざまな芸術や哲学の引用がなされ、今もなお続く国際紛争に対しては、洋子の言葉を通して世論にも訴えるような、社会性も併せ持った作品でした。
ぼくは純文学としては、割と思想のコテコテに入った昭和の作品が好きで、現代作家の小説は所詮敵わないだろうと高を括っていた節(何様)がありました。が!この作品にはやられてしまいましたね。最後の文章では思わず涙が……いやぁ、久しぶりに素晴らしい純文学に出逢いました。

読後の感想として真っ先に浮かんだのは、こちらも今年大ヒットしている、デイミアン・チャゼル監督の映画『ラ・ラ・ランド』と共通点が多いということです。
音楽(『ラ・ラ・ランド』はジャズピアノ、『マチネの終わりに』はクラシックギター)を軸に、近い境遇にある二人の男女(『ラ・ラ・ランド』は二人とも夢を追い、『マチネの終わりに』は二人とも仕事に大きな転機を迎えていた)が心を通わせ、すれ違いで結ばれなかったという構成が非常に酷似しています。
そして、数年後「ひとりの男」と「ひとりの女」として再開し、二人を結びつけた音楽の披露(『ラ・ラ・ランド』ではセブのジャズライブ、『マチネの終わりに』では蒔野のリサイタル)を経て、微笑みを交わすエンドまで共通しているのです。同時期にこんなに類似し、優れた芸術作品が出てくるというのは、両者ともに現代社会の普遍的なテーマを的確に捉えているのでしょう。

それは、ぼくもよくあるのですが、"if"の思考回路です。「あの時、ああしていれば〜」という過去に囚われる(過去を主観で捉えてしまう)考え方。良作が大きな反響を呼んでいるのも、この問題が現代社会に蔓延しているということの裏返しではないでしょうか。
別の言葉で言えば、特に『マチネの終わりに』で取り上げられた「過去の客観視」ということでもあります。蒔野は作中で「過去は変えられる」という台詞を語り、実際に「結ばれ得た二人の関係性」というビターな過去を変え、二人の友人としてのマイルドな過去に昇華しているのです。
それは『ラ・ラ・ランド』で、セブとミアが交わした視線にも同様のことが言えるでしょう。あの時すれ違っていなかったら、一緒になれたであろう歯がゆい過去をミアが振り返り、それでも現状を肯定するような微笑みを浮かべるのです。

『マチネの終わりに』では、リルケの『ドゥイノの悲歌』が二度引用されます。一度目は、蒔野と洋子が想い合ってフランスに滞在していたとき、二度目は、蒔野と洋子がアメリカで再開する最後のシーンです。

天使よ!私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか?そこでは、この世界では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、得も言わぬ敷物の上で、その胸の躍りの思いきった、仰ぎ見るような形姿を、その法悦の塔と、疾く足場を失い、ただ互いを宙で支え合うしかない梯子を、戦きつつ、披露するのではないでしょうか?--彼らは、きっともう失敗しないでしょう、いつしか二人を取り囲み、無言のまま見つめていた、数多の死者たちを前にして。
その時こそ、死者たちは、銘々が最後の最後まで捨てずにおいた、いつも隠し持っていた、私たちの未だ見たこともない永遠に通用する硬貨を取り出して、一斉に投げ与えるのではないでしょうか?
再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たちに向けて。
リルケ《ドゥイノの悲歌》第五の詩より引用(平野啓一郎訳)


二度目の引用では、蒔野が断片的に思い出す形で引用されるため、端的に恋人たちへの歌に変容しているのも、かなりニクい表現です。どう端折ったのかはぜひ読んで確かめてみてください。
ここに記された「真の微笑み」こそが、蒔野と洋子の、そしてセブとミアの見せた微笑みに違いありません。彼らは「愛という曲芸」に失敗したものの、形を変えて(過去を捉え直して?)永遠の「恋人」であり続けるのです。

そして、ヒロインである小峰洋子の魅力も特筆すべき点でしょう。著名な映画監督を父に持ち、多国語を操りながら、国際社会のために働く姿は紛れもなく「良い女」なのですが、「萌え」や「かわいらしさ」「いじらしさ」のような様子は微塵もありません。四十歳を目前にした妙齢の女性の魅力が十分に表現されています。
洋子が要所で口にする『なぜなのかしら?』という言い回しが非常に素敵です。自分の理解できない(時には非人道的である)ことに対してさえ、否定するのではなく疑問を呈する構え。作中で描かれる彼女の(上品・上流とはまた違う)"気品の高さ"を感じさせる台詞です。

いやあ、ぼくも独身のまま四十歳手前になったら、ビターで大人な恋愛をしてみたいものです……などと考える初ヨーロッパの夜なのでした。
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