デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




イザヤ 1:21 どうして、遊女になってしまったのか忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに今では人殺しばかりだ。
1:22 お前の銀は金滓となり良いぶどう酒は水で薄められている。
1:23 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られずやもめの訴えは取り上げられない。
1:24 それゆえ、主なる万軍の神イスラエルの力ある方は言われる。災いだわたしは逆らう者を必ず罰し敵対する者に報復する。
1:25 わたしは手を翻し灰汁をもってお前の滓を溶かし不純なものをことごとく取り去る。
1:26 また、裁きを行う者を初めのときのように参議を最初のときのようにする。その後に、お前は正義の都忠実な町と呼ばれるであろう。
1:27 シオンは裁きをとおして贖われ悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。
1:28 背く者と罪人は共に打ち砕かれ主を捨てる者は断たれる。
1:29 慕っていた樫の木のゆえにお前たちは恥を受け喜びとしていた園のゆえに嘲られる。
1:30 お前たちは葉のしおれた樫の木のように水の涸れた園のようになる。
1:31 強い者も麻の屑となり、その行いは火花となり共に燃え上がり、消す者はいない。

昨今のニュースでは、国政がゆがめられたかどうかという観点で、様々な議論や報道がなされている。
我々もニュースを見ながら、あの人が悪いとか、誰がよこしまだとか、第三者的な視点で見ていることが多い。
けれど、このようなことは、誰にでも起こりうることではないだろうか。
つまり、本日の日課のような厳しいみ言葉を、どれだけ自分のこととして受け止められるか、それが問われているのかもしれない。
かつて純粋だった心も、いつの間にか、というより、常にかもしれないが、罪に引きずられて、悪の道へと捻じ曲げられていく、それが人間の本当の姿なのだろう。
だから、自分のうちにある罪の性質も、いつも同様なことが生じていると認識した上で、自分に語りかけられているみ言葉として耳を傾けていきたい。
そうすれば、おのずと、キリストの十字架の贖いしか自分を救うことのできるお方はいないということに導かれることと思う。

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