人生悠遊

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鎌倉 円覚寺を訪ねて --円覚寺は城塞でした--

2015-10-23 17:02:26 | 日記
10月20日(火)。内海恒雄先生とご一緒し、鎌倉歴史散歩「円覚寺の文化財を訪ねて」に参加しました。観光で何回も来ているお寺ですが、円覚寺についての詳しい話を聞くのははじめてで眼から鱗の思いをした一日でした。
円覚寺は1282年に鎌倉幕府八代執権北条時宗が宋の禅僧無学祖元を開山に招いて建立した臨済宗のお寺です。まず北条時宗は五代執権北条時頼の嫡男ですが、時頼死後8年後の1268年に執権になりました。これは蒙古からの国書が届けられた時期に重なり、この異国襲来の危機に対処するため、18歳の若さで時宗が執権になったものです。実際に1274年に元・高麗連合軍が博多湾に上陸(文永の役)し、幕府軍は博多撤退を余儀なくされるなど、一つ間違えば、日本もヨーロッパ諸国と同じように元に占領されていたかもしれません。翌年、元は服属を要求する使者を日本に送り込みましたが、時宗は使者であった杜世忠らを殺害し、それを拒否。再度の元軍襲来に備えるため、博多湾に石築地建造するなど防御態勢を整えました。また1279年には高僧を招聘するために蘭渓道隆の弟子たちを宋に派遣(実際は元の動静を探らせた)しています。こうした準備のお蔭で1281年の二度目の元軍襲来(弘安の役)では、その襲来時期を察知していたようです。元は春ごろ攻め込み、攻めあぐねるうちに7月。折からの台風で全滅・撤退を余儀なくされました。
北鎌倉駅の前の道の西側に石の築地があります。これは博多にある石築地と同じ構造だそうです。築地の前にある白鷺池、総門を入っての五段構えの造り、山から湧き出す清水とそれを貯める池。北条時宗は元が攻め込んだときの最後の砦として円覚寺を造ったと聞きました。そして北条政子の時代には臨済宗の租である栄西は2度も宋に行ってますし、建長寺や円覚寺を創るために蘭渓道隆や無学祖元を招聘しています。また北条泰時は和賀江嶋を築造し、宋との交易を盛んにしました。北条氏は国際感覚が豊かで国際情勢にも明るかったと思われます。そうした中での元寇。その勝利は決して「神風」のお蔭だけではなかった筈です(日露戦争も同じ)。そんなことをつらつらと考えながら円覚寺を巡ると、鎌倉の寺社も世界遺産になってもおかしくないかと思うようになりました。
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