hasyan の 旅の散歩道

元気な間に余暇を通じてドライブなどで得た、行き先々の身近な風景・
神社仏閣・史跡・花の写真などをお伝えします。

船上城跡  2014.12.19

2014年12月21日 09時06分19秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   船上城跡     兵庫県明石市新明町10

 久々に船上城跡へ、この辺は開発が進み、水路と住宅の境界線に阻まれ、入るところが1ヶ所に、明石警察署の少し南西の小さな公園の近くの若松商店の横の道を北へ、民家の畑の方へ行きます。

 気をつけて畑の畦道を通って行くと、こんもりと小さな森があり赤い鳥居が見えます。

 10m未満四方の小さな丘の上に古城稲荷社の祠が祀られています。この城の築城については二説ある。別所吉親が林ノ城として築いた城と、高山右近が船上城として築城した城とがある。林ノ城が一旦廃城となり、その後高山右近が新たに築城しなおしたのではないかと考えられている。

 城趾の説明が書かれた案内板と「正一位 古城大明神」の赤い鳥居があり、通称、明石城、明石古城、林の城は、城郭構造が平城、水城。遺構が本丸跡、水堀、土塁、長屋門がある。天守構造は三重の小天守と推定されており、城門、塀、港を備えた海岸に近い城下町を形成した城だったといわれています。

 明石城外壁の堀の南西端付近にある長屋門は明治の廃藩置県まで歴代家老・重臣として仕えた船上城より移築されたといわれる唯一の遺構織田家武家屋敷で、明石市の指定文化財となっています。

 明石城は別名「喜春城」と呼ばれ、1620(元和6)年 小笠原忠真が築城しました。東西にある「巽櫓」と「坤櫓」の二つの櫓は、国の重要文化財に指定されています。剣豪宮本武蔵(1584-1645)が1617年に着任した初代城主小笠原忠政に招かれ明石の町割りや城内樹木屋敷(城主の遊興所)の設営にかかわりました。その庭園を再現しています。
 次回をお楽しみに では またね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

林神社と立石の井  2014.12.19

2014年12月20日 17時03分02秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   立石の井       兵庫県明石市立石1丁目6

 ようやく林神社の鳥居の下に、その先に石段が見えます。ここから海までは平旦だがここから先は高台になっていて、明石には大ダコの話が伝わっています。おそらく古代はこの辺りまで海だったのでしょうね。

 林神社の由来は、当地海浜の巨大な赤石の上に、少童海神が顕れ給うが、人皇13代成務天皇8年、風波のため赤石は海中に没した。よって翌9年(139)に小高い丘に一社を建て、少童海神を祀ったのが当社の創祀と伝えられ、海を見下ろす高台から漁業の町明石の繁栄と、海上交通の難所、明石海峡を行き交う舟の安全を見守り続けてきました、明石で最も歴史ある神社だそうです。

 林神社と「立石の井」の話ですが、そこには、明石ならではのオオダコとお姫様を守るために戦う人々の物語が伝えられています。石段を上がらず神社の右へ住宅街に入り、真直ぐに行かず右へ少し下がります。

 道の両側は住宅その奥にあるようです。

 ありました。昔、岸崎(現在の林崎の西側)に、西窓后(せいそうこう)と東窓后(とうそうこう)という二人の美女が住んでいました。この二人を大ダコが狙っていました。それを知った浮須三郎左衛門という武士が、大ダコを退治するため巨大な蛸壺を用意しましたが、大ダコは暴れて蛸壺をひっくり返し、山のほうへ逃げていきました。三郎左衛門が林神社の辺りへ追い詰め、斬り捨てると、その場で大きな石になってしまったのです。その石の下から清水が湧き出るようになり、これを「立石の井」と呼ぶようになりました。

 林神社の東側の町名を立石(たていし)といい、ここの山裾に、大ダコが石になったという場所は、「立石」と呼ばれ現在は石そのものは見あたらず、「立石」の下からいつしかわき出るようになった清水の跡とされる古井戸が残されています。また、この大ダコ退治の話は、タコツボ漁の起源の話としても語られてきました。
 次回をお楽しみに では またね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

坂上寺と蟹塚  2014.12.19

2014年12月19日 16時41分20秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   坂上寺    兵庫県明石市和坂1丁目8-2

 慶命山坂上寺は、真言宗のお寺で、弘法大師が創建したといわれ、「かにが坂の大師様」の名で知られております。石階段の側には、お大師さんの右手、お魚持っていますよ、鯖大師からきてるんでしょうかね~。

 石階段をあがると「巡行大師堂」が、「坂上寺」となずけたのは藩主小笠原忠真の夫人が寛永九年(1631年)7月に再興、地蔵と大師堂を建てた時からです。

 弘法大師空海の創建と伝わる真言宗のお寺で、このお寺も船上にある密蔵院の末寺です。山陽道(西国街道)に面する高台にあることもあって古くは高野道場といわれていました。この地は嘉吉の乱では赤松義雅と則尚を大将に塁を築いて大蔵谷に陣を構える幕府軍と対峙した場所であり、現在の坂上寺の名前は明石藩主小笠原忠政の夫人が寛文9(1632)年に再興してからのことです。

 ここには弘法伝説があります。播磨鑑によりますと、昔この和坂に蟹が棲み、旅人を襲った。諸国を回っていた弘
法大師がこのことを聞かれ、蟹を封じ込めたので、蟹和坂村と称したが、その後「蟹」を省略して「和坂」となり、「かにがさか」と読ませたとあります。播磨名所巡覧図絵にも紹介があり、江戸時代の観光スポットの一つであったのだろうと思います。お大師さんを良く見るとカニさんが、まだ改心できないのかお大師さんに錫杖でがっちり押さえ込まれていますよ。

 裏山には明石八十八ヶ所巡りができるようになっており、明石八十八ヶ所巡礼の第一番札所にもなっています。お寺から500メートルほど東の大道町(だいどうちょう)にある「蟹塚」へ

 「蟹塚」は、大きな古墳のような塚だと想像しているかもしれませんが、実際は小さな公園の脇に、「蟹塚」と刻む石碑と弘法大師と蟹の絵の木製看板があります。
 次回をお楽しみに  では またね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

福中城と宝珠寺 2014.12.10

2014年12月12日 20時26分13秒 | 神社・寺院


  所在地  宝珠寺     神戸市西区平野町福中250

 明石から国道175号線を三木方面に北上していく途中に福中城跡(向井城)はありまが、宅地開発で現在遺構は何も残っていません。かろうじて字名の一部にかつてこの地に城があったことが分かる地名が残るぐらいで、最後の城主、間嶋彦太郎の墓が宝珠寺にあります。

 福中城のあった場所の北200mほどの場所に、宝珠寺があり、曲輪の外に建っていますので、城跡ではありません。

 山門くぐると本堂が、寺伝によれば、文禄元年(1592)福中城主前因幡守間島彦太郎の創建で、その位牌が安置されています。

 山門の左手にある、五輪塔は彦太郎の墓と称されています。 城主の間島氏は守護大名赤松氏の親族にあたる由緒正しい家系を誇った家柄で、本家が佐用郡に、分家は加東郡などにあります。明石に来た間島氏は彦太郎を世襲し、平野荘の地頭として南北朝時代の建武2年(1335)ごろに、やって来たようです。

 国道175ができるまでは、福中城は神戸市内でもっとも遺構が残る城だったようですか、あっという間に開発の波に呑み込まれ、城跡を感じさせてくれるものは寺院から見た風景ではありません。
 次回をお楽しみに では またね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

弘法大師御霊泉 2014.12.10

2014年12月10日 20時20分33秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   弘法大師御霊泉    神戸市西区平野町中津

 前から気になっていた「弘法大師御霊泉」国道175の明石川沿いに走る県道377の「中津」の道路わきに「弘法大師御霊泉此ノ上」の石碑が

 村の中の道を歩いて行くと、朽ち果てた古~い土塀が、中には山茶花が綺麗に咲いていたよ

 更に進むと、 民家が切れる所を右に舗装された歪曲した道なりに進まず、正面の石段を上がり見える水門は、「林崎疎水路」からの取水用のもののようです。これは、明石市の野々池貯水池と続きます。

 林崎疎水路を超えると、正面に国土交通省が設置した境界標(コンクリート杭)がありますので、山の中へと進んでいきます。竹藪を抜けて 山の中に入っていきます。

 山道の曲がり角に、山の“木の下水”を溜めるようにした容器が置いてあり、脇に設えられた竹柵に柄杓が掛けてありました。お参りする際の手水かな~、向こうには簡素なお堂があります。

 9世紀に弘法大師が諸国を行脚し、庶民の苦しみを救ったという伝説のひとつで、明石川よりやや高いところにあるこの地域の人々が飲料水に困っていたので、弘法大師が杖でこの場所を突くと、こんこんと清水が湧き出したと伝えられていまが、残念ながら、現在は枯渇しています。
 次回をお楽しみに では またね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

興聖寺の琴坂の紅葉 2014.12.03

2014年12月05日 19時32分33秒 | 季節のたより


  所在地  興聖寺   京都府宇治市宇治山田27―1

 平等院から中州に架かる橘橋を渡り、中洲を歩き朝霧橋を渡って宇治神社前を右に進んでいくと、宇治川沿いにある綺麗な紅葉を見ながら興聖寺の入口へ

 宇治川のほとり、興聖寺石門(竜宮門)から山門に至る200mばかりの参道は、「琴坂」の名にふさわしい緩やかな坂道となっている。両側にモミジの古木が繁り、紅葉の季節の美しさは格別だそうですが?

 琴坂を歩きながら後を振り向くと、この時期は日が傾くのも早いもので石塔に日が当たり琴坂の風景です。

 紅葉の名所として知られ宇治十二景の一つに数えられています。今日は、紅葉の見頃の時期が少し終りかけていますが、それでも まだまだ紅葉の綺麗なところがあります。

 興聖寺の参道は、脇を流れる谷川のせせらぎが琴の音に似ていることから琴坂と呼ばれています。
紅葉の名所として知られる琴坂の風景は、昔から多くの人に親しまれてきました。隠れた紅葉のスポットのようです。

 1649年、宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に、当時の淀城主、永井尚政が、廃絶した道元禅師開祖の興聖寺を惜しみ、両親の菩提寺として慶安元年(1648)諸堂を建立しました。興聖寺は1747年に越前・永平寺末寺となり、曹洞宗永平寺派の修行道場、本尊は釈迦如来です。

 興聖寺は、鎌倉時代初期に曹洞宗の開祖・道元禅師を開祖として天福元年(1233年)に日本最初の禅寺として京都市の深草に建てられた由緒あるお寺でしたが、重なる戦乱のために廃絶していました。その後の慶安元年(1648)に淀城主永井尚政(ながいなおまさ)が宇治の地にこれを再興して今日にいたっています。

 開山堂(老梅庵)前にある金明竹は、明暦4年(1658)に明正天皇より淀城主永井尚政会を通じて興聖寺に植えられたものと伝えられています。

 ここ法堂は、伏見城の遺材を使って造られたといわれ、血天井や鴬張りの廊下などがあるようです。

 興聖寺の石門から覗くと、琴坂の向こう200m先の山門に続く紅葉が綺麗です。

 紅葉の最盛期には、紅葉のトンネルとなる晩秋の琴坂は素晴らしく綺麗でしょうね、それが頭に浮かぶようです。
 次回をお楽しみに では またね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

平等院・最勝院の源頼政の墓 2014.12.03

2014年12月04日 09時29分23秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   源頼政の墓   京都府宇治市宇治連華116

 平等院塔頭2ヶ寺の1つで天台宗寺門派聖護院末で、承応3年(1654)京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧が平等院に移り、その住庵を最勝院と呼んだことに始まります。

 境内に建つ春日型石灯篭は、鎌倉時代初期のもので、石灯篭は灯火器を仏教の伝来について発展させた我が国独自の灯明器で春日形は藤原家氏神として繁栄した春日神社参道に寄贈された一連のものです。

 ここ不動堂は、最勝院の本堂で、本尊不動明王像を祀っています。

 平等院の中に、なかなか気づきませんが「頼政の墓地」があります。鳳凰堂の右後方にある最勝院の本堂である不動堂の左側にそれはあります。

 治承4年(1180)4月、源頼政は後白河天皇の皇子以仁王から打倒平家の令旨をうけ、5月挙兵したが、平知盛の平家軍2万に破れ、以仁王・頼政の長男仲綱らが討死、頼政は平等院で自害した。現在、頼政公の墓が、この地にあります。毎年5月26日には「頼政忌」の法要が営まれています。 辞世の和歌 「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果 てぞ 悲しかりける。」

 門の内側から鳳凰堂は前面にある阿字池付近が望めます。人でも多いようですね。
 次回をお楽しみに では またね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

秋が深まる平等院  2014.12.03

2014年12月03日 23時06分07秒 | 季節のたより


  所在地   平等院   京都府宇治市宇治蓮華116

 紅葉には遅いか?京阪電車宇治線「宇治」駅下車して、宇治橋を渡り、直ぐ左折すると平等院参道の標識があるので、それに従い土産物屋の並んでいる参道を道なりに進んで行きます。

 途中から、「あじろぎの道」を歩きます。思ったより紅葉が残っていて綺麗です。

 宇治川沿いに歩いていると、川を背景に紅葉した風景がそよ風に吹かれて良いですね、今日は、思ったより寒くなく行楽日和です。

 これは、何の花でしょうね、紅葉の中に、紫の花が川辺に咲き色合いが綺麗です。

 平等院の入口に来ました。紅葉が見頃を迎えて素晴らしく綺麗で良かったです。

 表門から平等院境内に入ると、まず目に入るのが観音堂の後姿で、観音堂は鎌倉時代の建物で、平等院設立当時の平安時代は、観音堂の建っている位置には本堂があったと伝えられています。観音堂付近の紅葉が今が1番綺麗ですね。

 紅葉の一部の落ち葉が積もりジュウタンのように引き詰められ綺麗ですね。

 向こうに見える、鳳凰堂は前面にある阿字池側から見ると美しい左右対称の姿が見られます。中堂の屋根には一対の鳳凰が飾られていてそれが鳳凰堂と呼ばれる由来となっています。

 側面から「鳳翔館」へ、ここは、国宝の鳳凰・梵鐘を含む寺宝の数々、発掘調査による出土品などを収蔵・展示する博物館です。外へ出ると鐘楼がそこには展示品のレプリカの梵鐘が釣られています。

 平安時代の後期、1052年に宇治関白藤原頼道(よりみち)が、父道長の別荘を寺院に改めたものです。「鳳凰堂(ほうおうどう)」は、その翌年に阿弥陀堂として建てられ、仏師定朝(じょうちょう)の作になる阿弥陀如来坐像が安置されている中堂と、左右の翼廊、背面の尾廊で成り立っています。

 鳳凰堂内部の修復も3月に終わり拝観の集中もそろそろ一段落しただろうと思い、平日を選んで出かけましたが、それでも修学旅行生や観光客は多く紅葉の見頃もそろそろ終りですね。

 世界遺産の平等院は、10円硬貨のデザインとなった鳳凰堂が有名で、池の水面に映り込む鳳凰堂と紅葉が見どころです。平等院の近くには、宇治川が流れていて、川沿いを歩くのも楽しめます。
 次回をお楽しみに では またね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加