hasyan の 旅の散歩道

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黒田官兵衛ゆかりの広峯神社  2014.01.24

2014年01月27日 19時42分43秒 | 神社・寺院

  所在地   広峯神社      兵庫県姫路市広峯山52

 市街地の背後に連なる増位・広峰の山なみは、西播丘陵自然公園の指定を受け、ハイキングコースで結ばれています。広峰山(標高311m)の中腹にある大鳥居前駐車場から本殿まで徒歩約10分を歩きます。

 鳥居をくぐり左側は、車道(新しい道)で右側が本来の参道です。歩きにくい道ですがここを歩いていきます。

 井上家屋敷跡。広峯神社参道には、最盛期に75家も社家が建ち並んでいた言われています。

 社殿まで歩く参道のの中ほどに“天祖父社”なる社殿がひっそりと建っていました。天祖父とはアマサイと読むらしいです。天祖父神社(あまさいしゃ)祭神:伊弉諾尊・天照大御神・伊弉冊尊のようです。

 天祖父神社の脇には、夫婦石があり、ここ辺にも社家の跡地かな~

 しばらくで土塀があり、ここが「御師屋敷」肥塚家です。

 やがて広峯神社の本殿前の石階段の前に来ました。

 途中の宝篋印塔は、広峯神社表門に向かって右側斜面に建っています。反花式基壇の上に置かれた基礎は、各面に輪郭を巻き、格狭間を入れていますが、内部は素面であるようです。塔身の四面には線刻月輪内に胎蔵界の種子を刻んでいます。

 石階段を上がると、正面に拝殿が、広峯神社は奈良時代に吉備真備が唐から帰国の際、神託によって社殿を造営し、明石浦より牛頭天王を勧請して広峯社と称した古社で、京都祇園の八坂神社の本社とも言われ、古い歴史と由緒を誇っています。それだけに神社には室町時代に再建された本殿、拝殿(ともに国指定文化財)など、数多くの文化財があります。

 広峯神社のこの神輿は、享保2年(1717)の作で、9月には天祖父社(あまさいしゃ)への御幸(みゆき)の神事がありました。残念ながら現在は途絶えています

 霊木(息吹木)の由来の説明板が、
「昔より之を千年松と云う。其幾千百年を経るを知らず。年は幾度過ぎ経しも人の言は変わることなく幾年たてども今も昔も千年松と称ふるなり。伝説久しく人の心にしみわたるが故に千年松と云えば、この地の地名ともなれり。今昔、円融天皇の天緑3年(972)社殿を白幣山(現在、吉備神社の鎮座地)より現社殿の地に遷されるとき、この地には付近一帯に此の木が多く繁茂せしこと知られたり。宮殿建設に障りなき東隅のこの木を残されしもの。今に至るまで青々と繁り栄えて幾千年を経来しものなるべし」

 本殿の裏には、広峯神社摂社・末社はいずれも江戸時代に属する神社本殿の建築で、17世紀前半の荒神蛇から19世紀後半の熊野権現社まで、江戸時代の全時代を通じた遺構群であります。

 広峯神社の境内にある、蘇民将来をまつる社です。素戔嗚尊(すさのおのみこと)は蘇民将来の門戸に茅輪(ちのわ)を造らせ疫神を禁止し給ひたり、之によりて蘇民将来は病気にかからなかった。全国各地の神社で「輪ぬけ」の神事の行われているのも此の社の古事にならえるものであります。

 蛭子社近くの絵馬殿は休憩所となっており、ちょっと休憩です。そこからは姫路市街が眼下に、さらにその先、播磨灘沖の家島諸島まで眺められます。

 ここ広峯神社は黒田家三代のゆかりの 重隆・官兵衛・職隆の地です。

 ここから奥に山の中へ歩いていくと薬師堂が、

 更に奥へ進むと御師屋敷(魚住家)があります。御師屋敷(魚住家) は 赤い屋根の大きな建物なので 分かります。 廣峯神社には 社家や 下級神官で組織された御師制度があり 東は 若狭から 西は安芸まで お札を配って廻ったと 言われています。官兵衛の時代は 50家以上もあった御師屋敷は 現在 残るのは わずかかに2家(魚住家、肥塚家=非公開)のみです。

 立派な石垣などが道に沿ってある竹林の細い山深い道を歩いていくと

 ここが黒田家跡のようですが、あまり大きな敷地ではありません。黒田家の発展の礎を築いたとも言われるのがこの広峯神社。神社の御師(おし)が、神符と共に黒田家の目薬を売ったことが、黒田家の財政の基盤になったと言われています。

 神社の周囲には多くの御師の家の跡が残っており、家守家跡の前にも廃屋がそのひとつあります。藤井家跡かな?

 更に少し上って行くと、屋根に覆われた 荒神社と 吉備神社が 並んでいます。手前にあるのが、素盞鳴(すさのおの)尊(みこと)をお祭りする「荒神社」のようです。

 吉備神社は 吉備真備が 最初に社殿を建てた 白幣山の山頂にあります。 岡山の下級官吏の子として生まれた 真備は 勉学に励み・・・遣唐使として唐に渡り 陰陽道を極めた真備ですが 他にも 兵学を含め十二道を修め 藤原仲麻呂の乱では 孝謙天皇の軍師を務め 日本初の軍師と言われています。 学者から 右大臣まで 昇進したのは 菅原道真と 二人だけです。

 家守家跡まで戻り、土塀のある細い道を下っていきます。

 広峯神社の本殿近くまで来ました.江戸時代中期以降の主な社家には、内海家もありますが、今は、このような状態であります。

 拝殿へ行く石階段の手前にある御師屋敷(谷口家跡)には「憩いの広場」がそこには、黒田家が目薬の材料としたといわれる目薬の木が植えられています。

 憩いの広場 御師屋敷跡(谷口家)に作られた公園、谷口家の祖は 赤松一族と言われ 神社の宮司でした。 明治になり この地を離れる際 約1万坪の土地を 姫路市に寄贈しました。

 黒田家は、黒田家秘伝の目薬を売って財を成し、御着城を中心に西播磨で大きな勢力を持っていた小寺家に仕えて姫路城の城代となった。 官兵衛は、万吉と呼ばれていた幼少の頃から、よく姫山の館を抜け出してこの神社の御師の家や近くで目薬を作っている祖父重隆の所に来ていたようです。
 次回をお楽しみに  では またね 
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広峰山黒田氏の墓所 (播磨の親父)
2017-06-24 01:32:11
広峰山の山奥、須加院に抜ける山道の傍に黒田氏の墓所をみつけました。
大河ドラマで見た黒田氏と同じ家紋のようです。
黒田氏の墓所に隣接して、数家の墓所もありました。黒田氏ゆかりの家かもしれません。中に、黒田家と同じ藤紋を基調とした墓所(藤井家)を見つけました。
歴史の語り部はおらず、歴史の謎は深まるばかりですが、しばし歴史を体で感じることが出来たように思います。

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