hasyan の 旅の散歩道

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多田銀銅山 2016.12.10

2016年12月12日 09時25分00秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   多田銀銅山     兵庫県川辺郡猪名川町銀山字長家前4-1

 多田銀銅山悠久の館は、北摂の山並みに広がる多田銀銅山の中心として栄えた銀山地区(旧銀山町)の歴史を紹介する施設です。館内には多田銀銅山に関わる絵図や古文書、鉱石・鉱山道具などの資料を展示しており、休憩の場としてもお使いいただける交流スペースで無料です。

 多田銀山周辺はかなり栄え、芝居小屋や遊郭などの娯楽施設があるほどの規模だったようですが、今は、静まり返った集落のようです。

 少し歩くと代官所の門(広芝邸) は、銀山の中心街の本町通りにあります。明治の初めに銀山役所を廃止した際、門だけが広芝邸の門として移築されました。当初の門は馬に乗ったまま通れるほど高いものであったと伝えられていますが、移築の際低くされました。 広芝は、銀山に古くからある地名でもあり、秀吉時代広芝陣屋として重要な役割も担いました。

 金山彦神社は鉱山の神様であり、金銀財宝守護、鎮火、防火の神としても知られていて、金山彦神社の鳥居をくぐると右手に石を積み上げた石垣があり、上部が平地となっており、赤く焼けた土が露出しています。崖の突端には石垣が築かれていて、「平炉跡」の案内標識が立っています。

 炭坑夫が山に入る前にここの神社で安全を祈願したのでしょうね。

 「銀山町山神宮由来記」には、大同2年(807)、氏神(大山咋命)山神社として建立され、天禄2年(971)に鉱山師・金瀬五郎により、社殿が御修造されたと記録されています。 寛政年間の鉱山繁盛期には、男御輿、女御輿が造作されました。現在では女御輿が一基残っているのみです。

 山地の中に生える常緑低木の「アオキ」が間歩(まぶ)の周辺に密生していたところから、「青木間歩」と名付けられたと言われているところがあります。

 この坑道が、青木間歩の入口で入抗無料です。左の階段を上がると「手掘の旧抗道跡」へ

  昭和38年、日本鉱業によって開坑されました。坑口は大きく、大人二人が並んで歩ける程です。平成12年、町によって整備され、体験入坑できる唯一の間歩です。 機械掘りで、全長52メートル。坑内の天井の一部に鉱脈を見ることができます。

 こn抗道の、年代は特定できないようで鉱脈に沿ってノミやタガネを使って掘った手掘り跡です。

 川沿いまで降りてきて左へ進むと「坑道を掘って出た地下水を手動でバケツリレー、滑車などを使って水を”水抜き通風穴”から流していた」と云われています水抜通風穴跡のようです。こちらの穴が水を抜くための穴だったんでしょうね。

 しばらく歩くと、今から約7,000万年前、鉱脈を含む地下の地層は長い年月の間に盛り上がり山となりますが、その後、山の頂が浸食作用によって削られ、鉱脈が地表に現れたものがあります。

 秀吉時代に開坑された間歩で、銀・銅が豊富に採掘され、大坂城の台所(財政)を賄うほどだったことから「台所間歩」という名がついたということです。

 秀吉の採掘時期(天正〜慶長期)の代表的な間歩です。 瓢箪にはじまり瓢箪に終わるといっても過言ではない大富鉱の銀鉱です。 秀吉の馬印の千成瓢箪を間歩の入口に立てることを許されたことから、「瓢箪間歩」と呼ばれるようになったということです。
  悠久の館から瓢箪間歩まで散策する。片道1.5キロぐらいあるでしょう。
 次回をお楽しみに では またね

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