旅猫江戸日記

〜江戸を歩く〜
江戸の記憶を訪ね歩いた日々を綴ります。

鬼平犯科帳 第6話「暗剣白梅香」 扇橋代地の居酒屋

2008-07-20 | 鬼平犯科帳
鬼平犯科帳 第1巻 第6話「暗剣白梅香」新装版P.227

一ツ橋御門外の火除地から平蔵を尾行してきた金子半四郎が、平蔵の入った船宿『鶴や』を見張っていたのが、堀川を隔てた扇橋代地の居酒屋。二刻もの間粘っていた半四郎は、この後、扇橋を渡り『鶴や』斬り込み、『鶴や』の主で、親の敵である森為之介の返り討ちにあり絶命してしまう。
扇橋代地は、深川石島町と大横川をはさんで向かい側にある南本所扇橋代地町のことであろう。現在の三好四丁目6番あたり。写真は、三石橋から旧南本所扇橋代地町の方角を撮ったもの。奥に写っている橋は亥之堀橋。(2008-1-5撮影)
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鬼平犯科帳 第6話「暗剣白梅香」 一ツ橋御門外の火除地

2008-06-09 | 鬼平犯科帳
鬼平犯科帳 第1巻 第6話「暗剣白梅香」新装版P.224

剣友・岸井左馬之助の誘いを受け、深川石島町の船宿「鶴や」へ向かうために役宅を出た平蔵は、小川町の通りへかかるころ、誰かにつけられているのに感づいた。つけていたのは金子半四郎で、一ツ橋御門外の火除地で見かけたのである。
この一ツ橋御門外の火除地は、現在の一ツ橋二丁目や神田錦町三丁目などにあたり、如水会館や共立女子大がある場所は四番明地と呼ばれていました。写真は、一ツ橋御門跡から三番明地(神田錦町三丁目)の方を写したもの。四番明地は、三番明地の左側になります。清水御門外の役宅からだと、雉子橋を渡り、四番明地と丹波亀山藩5万石松平家の上屋敷の間(現在の共立女子大と共立女子中の間)の道を通ると思われるので、金子半四郎はそのあたりで平蔵を見かけたのだろう。(2008-3-16撮影)
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鬼平犯科帳 第6話「暗剣白梅香」 新黒門町・鰻屋「春木や」

2008-03-22 | 鬼平犯科帳
鬼平犯科帳 第1巻 第6話「暗剣白梅香」新装版P.223

入谷田圃での暗殺の翌日、上野不忍池ほとりに現れた金子半四郎は、池之端仲町の浪花やで「白梅香」を買い求めた後、広小路へ出て向かったのが、新黒門町の鰻屋「春木や」。町人姿で尾行してきた同心・酒井祐助は、ここで金子半四郎にまかれてしまう。
「新黒門町」は、広小路の南端の突き当たりにあった町で、上野黒門町というのが正式な町名。新を付けたのは、広小路中ほどに元黒門町が存在するためだと思われます。
現在は、道路整備が進み、町自体がほぼ消滅してしまいました。写真の銀行がある辺りが、黒門町の中を通る道があった場所で、町はその前の中央通りと、銀行の向こう側にありました。現在の上野1丁目18、19番に辺ります。(2007-8-19撮影)
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鬼平犯科帳 第6話「暗剣白梅香」 入谷田圃

2008-03-09 | 鬼平犯科帳
鬼平犯科帳 第1巻 第6話「暗剣白梅香」新装版P.218

平蔵が、外出をしなくなってから6日後、金子半四郎が別口の暗殺をやったのが入谷田圃。殺害されたのは、本石町三丁目の蝋問屋「葭屋専右衛門」の婿宗太郎。女道楽がはげしかったことから、場所から推測して吉原帰りだったのだろう。
入谷田圃とは俗称で、このあたりは坂本村と呼ばれていました。江戸時代以前には、千束池という大きな池がこのあたりにあり、入谷田圃のあったところは池の底だったそうです。後に埋め立てられ、江戸時代を通じて長閑な田園風景だったそうだ。現在の入谷一丁目から松が谷四丁目にあたります。写真は、入谷田圃の中を通っていた道で、両側は松が谷四丁目の街並みです。(2008-2-16撮影)
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鬼平犯科帳 第6話「暗剣白梅香」 池の端・仲町「浪花や」

2008-02-23 | 鬼平犯科帳
鬼平犯科帳 第1巻 第6話「暗剣白梅香」新装版P.217

湯島横町の〔近江や〕に立ち寄った平蔵が、店の女房の大丸髷から漂う濃厚な香りに気付き、一瞬顔色を変えた。女房が使っていたその髪油を扱っているのが、池之端仲町にある「浪花や」。このあと、平蔵は、駕籠で池之端仲町へ向かうことになる。
写真は、不忍通りに面した旧池之端仲町。不忍通りの場所には忍川が流れていましたが、今は暗渠になっています。江戸のころは、写真の街並みの左手に、今も続く老舗の蕎麦屋〔蓮玉庵〕がありました。現在でも、260年あまりの歴史をもつ老舗の鰻屋「伊豆栄」が店を構えています。池之端界隈は、今でも、江戸から続く老舗が10軒あまりもある街なのです。
なお、『江戸買物独案内』には、下谷仲町通廣小路ヨリ入口で「御伽羅之油」を扱う「萬屋吉兵衛」という商人が載っているので、これが「浪花や」のモデルだと思われる。〔伽羅之油〕とは、鬢付油の一種で、蝋燭の溶けたものに松脂を混ぜて練った練油と呼ばれるものに、丁子、白檀、竜脳などの香料を配合したもの。「白梅香」は、これをヒントに創作されたものではないだろうか。(2007-8-19撮影)
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鬼平犯科帳 第6話「暗剣白梅香」 湯島横町 菓子屋「近江や」

2008-02-16 | 鬼平犯科帳
鬼平犯科帳 第1巻 第6話「暗剣白梅香」新装版P.216

深川石島町の船宿「鶴や」から舟に乗った平蔵は、神田川に架かる昌平橋近くで舟から上がり、橋の北詰、湯島横町にある菓子屋「近江や」に立ち寄った。この店の〔羽衣煎餅〕が、平蔵の妻女久栄の大好物だあることを思い出したためである。
写真右側の街並みが旧湯島横町。江戸城に対して横に続く町だから名付けられたとされる町です。その南側(写真左手)が昌平河岸のあったところ。昭和の初めまで、荷揚げが行われていたそうです。奥に見える緑は、湯島の聖堂です。
ちなみに、〔羽衣煎餅〕は、江戸で実際に売られていた菓子ですが、場所は両國米澤町で、井筒屋與兵衛が商っていました。(2008-1-26撮影)
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鬼平犯科帳 第6話「暗剣白梅香」 本多屋敷

2008-02-16 | 鬼平犯科帳
鬼平犯科帳 第1巻 第6話「暗剣白梅香」新装版P.213

粂八の屋台に顔を出した荷船の船頭風の中年2人連れ、その会話の中におつとめの匂いを感じ取った粂八であったが、毎晩呑みに来る本多屋敷の中間4人が入れ違いに首を突っ込んできたため見失ってしまう。
本多屋敷とは、鎌倉河岸近くの神田橋御門北詰にあった駿河田中藩本多家上屋敷のこと。田中藩本多家は、家康の知恵袋と言われた本多正信の弟正重の家系。
屋敷跡は、現在の内神田一丁目12番、13番にあたります。(2008-1-5撮影)
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鬼平犯科帳 第6話「暗剣白梅香」 鎌倉河岸

2008-02-02 | 鬼平犯科帳
鬼平犯科帳 第1巻 第6話「暗剣白梅香」新装版P.211

小房の粂八が〔聞き込み〕のため、夜毎に味噌おでんと燗酒の屋台店を出しているのが神田鎌倉町に面した鎌倉河岸。
鎌倉河岸は、家康による江戸城普請の際、鎌倉からの石材を陸揚げした場所だったために呼ばれた場所。現在、鎌倉河岸のあった堀の上には首都高が覆いかぶさってしまいましたが、北側に面した旧鎌倉町に建つ鎌倉河岸ビルにその名を僅かに残しています。
ちなみに、写真の鎌倉河岸ビルのあった場所には、雛祭りのときに売る白酒が有名だった酒屋「豊島屋」や江東区高橋にあるどぜう料理で有名な「伊せ喜」の前身が店を構えていました。(2008-1-5撮影)
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鬼平犯科帳 第6話「暗剣白梅香」 深川石島町 船宿「鶴や」

2008-01-18 | 鬼平犯科帳
鬼平犯科帳 第1巻 第6話「暗剣白梅香」新装版P.210

金子半四郎に襲われてから5日後、平蔵が小房の粂八と会っていたのが深川・石川町にある船宿「鶴や」。この船宿の主人利右衛門は、元大洲藩士で金子半四郎の親の敵。後日、半四郎がこの船宿で平蔵を襲撃した際、利右衛門により半四郎は刺殺されることになる。
石島町は、江戸時代に干拓によって出来た深川十万坪に、正徳3年(1713)に成立した町で、西側を大横川(写真手前)が流れています。町名の由来はよく分からないが、干拓以前は低湿地だったことからきているのではないかと云われています。現在の江東区扇橋1丁目と石島の一部にあたりますが、江戸の面影はありません。(2008-1-5撮影)
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日比谷稲荷神社

2008-01-03 | 江戸
創建年代は不明らしいが、太田道灌の江戸築城の頃、当時は海岸だった日比谷(現在の日比谷公園内大塚山)に建立されたと云われています。当時は、旅人等に社務所を開放などしたことから、「旅泊稲荷(さばいなり)」とも称していたそうです。徳川家康の江戸入府による江戸城拡張に伴い、芝口三丁目へ遷座。この頃から、「鯖稲荷」と呼ばれるようになり、虫歯に罹った人が鯖を断ち祈願し、治癒の後に鯖を奉納することに因んだものだそうです。
明治の鉄道敷設に際して現在地へ再遷座。社殿左側の小さな社が稲荷社です。
なお、境内全域が、2009年開通予定の東京都市計画道路幹線街路環状第2号線の予定地になっており、今年秋に汐留シオサイト内に移転するそうである。すでに周囲の立ち退きは完了していて、神社だけが取り残されている状況でした。
この道路は、60年ほど前に、東京都戦災復興都市計画街路として計画されたもので、GHQの命令で縮小された経緯もあり、「マッカーサー道路」と呼ばれているそうです。ちなみに、この道路の予定地には、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭が切腹した田村右京太夫の屋敷跡も含まれています。すでに、石碑は撤去されていました。(2008-1-1撮影)
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