Tabi-taroの言葉の旅

何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない

さようなら 「日の丸油田」

2008年01月20日 | 雑学
アラビア石油は「国産の石油」を実現したいとする山下太郎の執念によって実現した原油生産会社であった。山下の人生は「波瀾万丈」の一言に尽きる。札幌農学校(現・北海道大学)を卒業した山下が巨万の富を築いたのは満州に渡ってから。南満州鉄道の社宅の建設を請け負って「満州太郎」のあだ名で呼ばれた。

敗戦で無一文になった彼が、戦後再び事業欲を燃やしたのが油田の開発。1960年、アラビア湾沖で油田を掘り当てた。成功率は30本に1本といわれる油田採掘で、彼は最初のボウリングで油層に到達したのである。「日の丸原油」の誕生だった。日本で最初の海外油田開発に成功した山下は「アラビア太郎」の異名をとった。

山下の凄いところは、70歳を過ぎても「国産の石油」を実現するため海外油田開発に挑んだ事業欲だった。しかし、山下が亡くなった後のアラ石は、通産官僚の天下りする指定席になった。官僚に山下のような強烈な事業欲があるわけがない。「日の丸原油」を手に入れたのが人なら、失ったのも人・・・・・2000年2月にサウジの利権協定が終了、2003年1月にはクウェートとの利権協定も終了した。石油採掘権がなくなった後も、アラビア石油はKuwait Gulf Oil との技術サービス契約で、共同操業に参画してきたが、今回、この契約の更新が出来なかった。

年明けの今月4日、株価大暴落のニュースの陰にこんな見出しが踊っていた。
【アラビア石油、クウェート・カフジ油田の操業から撤退】
日本にとって戦後初の自主開発油田であったカフジ油田は、こうして半世紀に及ぶ元祖「日の丸油田」の役割を終えたのである。

ひとことで言えば、古手の役人の天下りです。ご存じの通り、事業家の山下太郎が苦労して創業し、財界の協力で1958年に発足したアラ石は、最初の18年間は民間出身の社長であり、四代目まではビジネス経験者が社長でした。だが、山下太郎の息子の水野惣平が社長を辞めた以後は、1976年に通産OBの大慈弥社長になり、ずっと役人の天下りが現在まで続きました。

〝アラビア太郎〟と呼ばれた山下太郎の場合は、事業家として不眠不休で血の小便をしながら、自己責任で目的達成のために邁進したお陰で、中東に油田を持つ夢を実現しています。楠木正成の子孫であることを誇りにした彼は、アラブ人たちに鎧をプレゼントしており、いまだにその気迫がアラブ世界に残ってます。だが、無念にも20年後には役人の植民地になり、建て前としては民間会社のはずなのに、アラ石は官僚が支配する組織になり果てました。

「天は人の上に人を作らず」とも言いますが、「人は人の上に立つ人を作らない限り、何事もなし得ない」というのが教訓でしょうか。 


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