支援者が安易に自由業的な職業を勧めて、あたかもそこに凸凹特性がある人の生きる道があるかのようなお花畑を展開するのがどうにも苦手である。愛甲さんや神田橋先生とも、この辺私は考えが違う。おそらく、医師や心理士と言った人々より自由業者に接する機会が多く、その実態を知っているからだろう。実態とは「食っていけない」ということだけではない。一緒に仕事をする仲間はなんとか食っていっている人たちなので、逆に長年やっていると「食っていけない」人の姿は見えなくなってくる。そして食っていけている人を見ると、会社員もそれなりにできるだろうし、できてきた人たちなのだ。まあ会社も色々ありますけどね。だから「会社でやっていけないのなら自由業」という人たちは、ある意味自由業をバカにしていると思います。
仕事とはつまるところ「他人の都合に合わせて時間を使う」ことであって、お母さんたちが今朝もお弁当を作るために早起きしたのならそれがお仕事。逆に「空いた時間で何か」というのは仕事ではない。仕事は空いた時間でやるものではなく、そのために時間を空けるほど生活において優先すべきこと。それが仕事の定義だと思っている。
バブルの時代にはよく雑誌に「家でなんとかサロン」みたいなのを開いている(しばしば)アッパーな奥様が仕事人として紹介されたりしていたものだが、あれは仕事ではない。十中八九、扶養を抜けていない。人集めて楽しい時間を過ごしただけで、材料代がやっとかもしれない。いくらやりがいを感じようと見た目にかっこよかろうと、扶養を抜けていないということは仕事人としては半人前ということである(主婦としては別)。
シビアすぎますかね? 私の仕事観は。
でもそういうシビアな仕事観を持っているから、ライセンスビジネスの粗も見えるのかもしれません。
なんとかセラピストとかなんとかコーチとか目指す主婦の皆さんは、かっこいい仕事がしたいんじゃないかな。でもそういう仕事を目指すとぼられるのはある程度当たり前ですよ。だって世の中が(さほど)必要としていないんだもん。逆に世の中が(とても)必要としている仕事はいっぱいあるんです。コンビニの店員、スーパーのレジ、ドラッグストアの販売、お弁当屋さん。そういうところでは主婦の労働力を求めている。私なら、そういう地道な仕事をこなせない人をなんとかコーチとかなんとかセラピストに育てようとは思わないね。本気で仕事をしてもらいたいのならね。だってどの職場だって必要とされているのは基本的な挨拶、体力、時間を守ること、何より他人の都合に合わせて自分が動くこと。この基本ができていない人はなんの仕事をやったってうまくいくわけがありません。
お料理が上手でも、修行を積んだプロの料理人とは違う。家族や親しい知人が喜んでくれたとしても、それで金を取れるかどうかはよく考えた方がいい。都会に住んでいるとそういうのは見えやすい。お菓子ひとつ取ったって、駅ビルに行くだけで名だたる名店が競合している。でも田舎でろくすっぽ店もないところだと、自分の作る素人っぽいものが売り物になるとカンチガイはしやすいかもしれないね。
翻訳家をマネージメントしていたときに気づいたこと。会社勤務の経験がある人の方が伸びる。逆に翻訳家の修行を専業にしている人は伸びどまる。唯一の例外がニキさんだった。それだけシングルタスクと言う特性が強かったという言い方もできるかもしれない。だから翻訳家になるのだって、障害があることは不利なの。私は正直、どんな仕事だって障害がない方が有利だと思っています。
その中であるお父さまが、息子はまだ小さいけど自分と同じサラリーマンになってもらいたいとおっしゃっていて、それはいいなと思いました。結果的に息子さんはやがて別の何かになるかもしれません。でもサラリーマンは基本です。バカにすべき仕事ではない。企業勤務経験がないということは世の中で不利。ただ、会社も色々あって、どこでも地方公務員メンタリティが重要視されるわけでもなく、多少の変人枠でも務まる会社があるのは確か。
でもその中では勤務時間があり、規則があり、同僚がいて、ノルマもあるかも。逆に言うとそこを飛ばして何か自由業をしようとしても、誰もほしくないものを作って利益は上げられずに終わります。
どうも福祉周りの人はえらい人たちも含めてそのあたりの見積もりが甘いみたいなんで、正直なところを書いてみました。
仕事とはつまるところ「他人の都合に合わせて時間を使う」ことであって、お母さんたちが今朝もお弁当を作るために早起きしたのならそれがお仕事。逆に「空いた時間で何か」というのは仕事ではない。仕事は空いた時間でやるものではなく、そのために時間を空けるほど生活において優先すべきこと。それが仕事の定義だと思っている。
バブルの時代にはよく雑誌に「家でなんとかサロン」みたいなのを開いている(しばしば)アッパーな奥様が仕事人として紹介されたりしていたものだが、あれは仕事ではない。十中八九、扶養を抜けていない。人集めて楽しい時間を過ごしただけで、材料代がやっとかもしれない。いくらやりがいを感じようと見た目にかっこよかろうと、扶養を抜けていないということは仕事人としては半人前ということである(主婦としては別)。
シビアすぎますかね? 私の仕事観は。
でもそういうシビアな仕事観を持っているから、ライセンスビジネスの粗も見えるのかもしれません。
なんとかセラピストとかなんとかコーチとか目指す主婦の皆さんは、かっこいい仕事がしたいんじゃないかな。でもそういう仕事を目指すとぼられるのはある程度当たり前ですよ。だって世の中が(さほど)必要としていないんだもん。逆に世の中が(とても)必要としている仕事はいっぱいあるんです。コンビニの店員、スーパーのレジ、ドラッグストアの販売、お弁当屋さん。そういうところでは主婦の労働力を求めている。私なら、そういう地道な仕事をこなせない人をなんとかコーチとかなんとかセラピストに育てようとは思わないね。本気で仕事をしてもらいたいのならね。だってどの職場だって必要とされているのは基本的な挨拶、体力、時間を守ること、何より他人の都合に合わせて自分が動くこと。この基本ができていない人はなんの仕事をやったってうまくいくわけがありません。
お料理が上手でも、修行を積んだプロの料理人とは違う。家族や親しい知人が喜んでくれたとしても、それで金を取れるかどうかはよく考えた方がいい。都会に住んでいるとそういうのは見えやすい。お菓子ひとつ取ったって、駅ビルに行くだけで名だたる名店が競合している。でも田舎でろくすっぽ店もないところだと、自分の作る素人っぽいものが売り物になるとカンチガイはしやすいかもしれないね。
翻訳家をマネージメントしていたときに気づいたこと。会社勤務の経験がある人の方が伸びる。逆に翻訳家の修行を専業にしている人は伸びどまる。唯一の例外がニキさんだった。それだけシングルタスクと言う特性が強かったという言い方もできるかもしれない。だから翻訳家になるのだって、障害があることは不利なの。私は正直、どんな仕事だって障害がない方が有利だと思っています。
その中であるお父さまが、息子はまだ小さいけど自分と同じサラリーマンになってもらいたいとおっしゃっていて、それはいいなと思いました。結果的に息子さんはやがて別の何かになるかもしれません。でもサラリーマンは基本です。バカにすべき仕事ではない。企業勤務経験がないということは世の中で不利。ただ、会社も色々あって、どこでも地方公務員メンタリティが重要視されるわけでもなく、多少の変人枠でも務まる会社があるのは確か。
でもその中では勤務時間があり、規則があり、同僚がいて、ノルマもあるかも。逆に言うとそこを飛ばして何か自由業をしようとしても、誰もほしくないものを作って利益は上げられずに終わります。
どうも福祉周りの人はえらい人たちも含めてそのあたりの見積もりが甘いみたいなんで、正直なところを書いてみました。
小さな事務所とはいえ正職員一人とパートさん三人を雇用していますので、商売する稼ぐ事そして人を雇う難しさです。
幸い長男には特別な秀でた才能もなかったので、お勤め出来る人間に育てなければと小さな頃から言葉遣いも含めて見通しを立てて来ました。
支援者は彼が幼い頃から「特性を伸ばして将来につなげましょう」とか「背が高いし栗原君も出て来たし(栗原君がテレビに出始めてすぐそうだと気づいていたので)モデルにしたら」とか無責任極まりない発言でしたが、正直会社員すら難しい現実が何故見えないのか不思議でした。時に総合的に時に相対的に物事を見られなければ、なんの自由業も務まらないと思われ、芸術家として生きられる人など希少価値なはず。
結局、支援者は相当な世間ズレでも生きられる職種なのだと私は出会ったたくさんの支援者を思い起こしています。
そして、会社員を目標にして努力してさえも現実はとても厳しいのが現状。もし自由業であったなら、仕事をしていても常に不安定な生活なのだから、果たしてそんな不安感の中で病まずに生きられるかと不思議です。
自由業自営が向いてるなんてとんでもない絵空事。三月まで任期の仕事がある長男は、秋からの就活でもう10社から書類選考だけでお断りされていますが、年明けから4社に向けて履歴書その他を提出しました。「目指せ!会社員」です。
娘に障害があるとわかって一番に考えたのは、どうやって一人前にしよう?ということでした。普通に一日一緒に生活していくだけヘトヘトになる。いくら鈍い私でもこれは何か作戦が必要だとわかりました。道は険しくてもやるぞと決めたものの、数年は不安だらけでした。一才の妹に湯船で無理やり潜水させようとし、泳ぎを教えてあげるいいお姉ちゃんだと思っているなど、私がしっかり育てないと大変だと自覚する場面もありました。これでやっていけると思えてすごくホッとしたのは、『発達障害は治りますか?』の本に出会えた時です。神田橋先生の言っていたことはこういうことかと、二重写しのようになって理解が深まることがとても多い。同じぐらい参考になるのがこのブログで、浅見さんの感じたこと、体験してきたことを目にすることで、私の社会経験では思いつかなかった課題や実際の引っかかるところ、変化していくことなどを、自分の生活に重ねながら考えられるのです。
でも、自由業であろうが会社員であろうが、相手にするのは結局、仕事。
仕事をすることに変わりはないのに、会社で働くことすら出来ない自分が、一から十まで自己責任な自由業など、出来る訳がない。
そう思い直して、会社員を目指すべく体力を付けに掛かっている今に至ります。
それに、自分の時間を自分以外に割いて、何かしらの形で利益になる喜びみたいな感覚を、一番分かりやすく教えてくれ、身に付けられる場所は会社だと思います。
その感覚なくして自由業に転向しても...少し前までの私の浅はかさがイタイです。
最近は、『仕事をする上で、今、一番不安定なのが会社だ。起業できるだけのスキルを持っていると強い』という言葉もよく聞きますし、起業ブームみたいなところもあるのかも知れません。その前に最低限食っていける材料が自分に揃ってなきゃ、会社員も自由業も行く末同じですよね。
周りの人間が、感覚過敏とかを仕事にいかせるといいよねと言っていると、本人もそう思ってしまい、生きづらいと思います。
特に、専門家が言っていることより、親がそう思っていて、子どもに言うほうが、二人三脚みたいになって、害が大きいんじゃないかと思います。
この前、母があんたのそういうとこが活きる仕事があるといいね、と言っていて、私がそんな仕事あるわけ無いじゃんっと言ったら、探せばあるかもしれないじゃんと言われて、それを聞いて、あ然というかがっくりというか、苛立ちみたいなものを感じました。
ヘッドホンさせたりとかしてうちの子、感覚過敏なんです。と、相談してるのに、なんで過敏とかをいかせる仕事に就けるといいとか言うのか理解不能です。理解したくも無いですが。
母が親同士でうちの子は、時刻表が頭に入っていて、出かける時に助かるとか、私は方向音痴だけれど、子どもが絶対に迷わないから、一緒に連れていくと助かると言っていて、それを仕事に役立てるといいよね~、という話をしたと言っていて、モヤモヤするような、いや~な気持ちになりました。
看護師養成の専門学校入る人には大卒どころか大学院卒の人までいる時代です。社会人経験者までいます。
私が大学卒業した当時は、大学または大学院を卒業してから新卒で就職決まっても、正社員になれず派遣や契約社員の枠でしか就職できない人が女性では多かったです。
地元の名門国立大学を出ている男性でも、就職が決まらなかったり、公務員試験に落ちたりして卒業後にモスバーガーでバイトしていたり、予備校講師になっている人を見たことがあります。
定型発達の人でさえそうなのですから、まして発達障害者がよい雇用条件で仕事を決めて継続できるかというと至難の技ではないかとも思います。
誰でも正社員の枠で会社員として継続して安定して働ける時代ではなくなったと思います。公務員試験も難関ですし、公務員といっても、業務内容にはそれぞれ向き不向きもあると思います。
使い捨て派遣が社会問題となり、いわゆる「ネットカフェ難民」がテレビ等で取り沙汰された際、当事者として取り上げられていた若者世代です。
小学校の卒業文集の将来の夢欄に「OL」と書き、一般事務で正社員として都内のメーカーに就職した経験からですが...
会社員を目指すならば、学生時代に土台を積む以外にないと思います。
耳障りの良い自己実現をすることでもなく、自由な時間を活用して自分探しをすることでもなく、実務を積むことかなと思います。
学生の試験が終わって休暇に入るタイミングで、期間限定の事務バイトの求人を出す企業は結構ありましたので、4年間のうちに何社か経験しました。そういった求人がない時は、お客さんの顔が浮かぶ環境もいいかなと、物流倉庫や工場で働きました。
面接まで辿り着くのも大変なことではありますが、もし通ったらそういう話は担当者は聞いてくれます。
ポイントは「即戦力になりまっせ!」と鼻息荒く話さないことと(企業には人材を育てるだけの懐の広さはありますから)、安い自己実現系とコミュニケーション能力アピールの仲間の大切さを語る系は避けて差別化を図ること。
地に足の着いた話を落ち着いて伝えられるよう、就職したい業界、職種に照準を合わせて経験値を学生のうちに上げておくことです。
色々厳しい世の中ですが、悲観しなくとも、できることはあると思います。