さて、「自慢の娘」に朔さん自身からコメントをいただき、それにまたコメントを返しました。
キリソルさんからもコメントいただきました。
貼らせていただきます。
=====
Unknown (キリソル)
2016-12-05 15:22:52
朔さんのコメントと、それへの浅見さん・愛甲さんのお返事。そして、そのお返事に対しての朔さんのコメント。
どう表現したら良いのか思いつかないのですが、こうやって治っていかれる方がおられること、とても分かりやすい言葉で書いてくださっていること……がすべて嬉しく、こうして載せてくださっていることに本当に感謝です。
支援する側の片隅にいる私ですが、私自身愛着に不安を感じた記憶がないのです。
浅見さん的に表すと「愛着障害の人の気持ちがわからないことが私の愛着障害」なのかもしれません。
また愛甲さんが書かれた「恐怖麻痺反射の生活世界を理解できます」。
私にはその世界を理解できていないのだなぁ。だから、「この子はどの段階の愛着の抜けがあるのか」がすぐに見抜けないのかなぁ。と…。
しかし、私には想像力があります。考えようとする力があります。
恐怖麻痺反射の世界。自閉っ子の困難さ…
100%理解、体験はできないけど想像することはできるはず。
そのための手がかり、助けが花風社の本であり、朔さんのコメントです。
何よりも、本人と話すこと。わからないことは本人に聞くこと。
「常識を持ち、事の是非を一つ一つ自分で考える支援者」でありたい。
なんだかまとまらない文になってしまいました。(お三方のやりとりを読み、私も何かを伝えたい気持ちになったものですから。)すいません。
今後もよろしくお願いいたします。
=====
これを読んで告白する気になりました。
「愛着障害の人の気持ちがわからないことが私の愛着障害」だと私は書きました。
同じような立場で、キリソルさんはそれに同調された。
想像力を駆使すると言われる。
私もそうしようと思います。できるだけ。
でも実は「愛着障害の人の気持ちがわからないことが私の愛着障害」という表現は
私の状態を表すのにかなり「抑制した」表現なのです。
私の実際のところは
私は
・胎児性の愛着障害
・恐怖麻痺反射
を抱えた人が
大嫌い
というのが正直な気持ちなのです。
愛甲さんはネット上で私に絡んでくる人たちを見て
「あの人たちは浅見さんに甘えている」と言いました。
長年その意味がわかりませんでした。
でも「愛着障害は治りますか?」を作って、彼らは甘えの回数券を使い切っていないから、不適切な相手(この場合は私)にゆがんだかたちで甘えているのだと言うことが理解できました。
私が「卑屈クラスタ」と呼んで忌み嫌っていた人たちは、恐怖麻痺反射なり胎児性の愛着障害なりの持ち主でした。
そして支援の世界では、この人たちに同情を寄せるのがスタンダードな対応のようです。
私は卑屈には卑屈の意味があると知りました。
そういう意味では「理解」しました。
でも彼らを好きにはなれません。
問題があっても見て見ぬふりして策を取らないギョーカイ人たちを私は「死んだふり」と呼んできました。
でも死んだふりというより、まだ胎児の戦略をとっているんだ。「生まれてなかった」んだ、ということを知りました。
胎児の戦略を、大人になってもとるのは卑怯です。
そう。
私は基本的に
恐怖麻痺反射の残存している人は「卑怯者」だと思っています。
何かあると怖がって、誰かがひどい目にあっていても助けにいかずに身を丸めている。
そういう生き方は卑怯者だからです。
私は愛着障害を「理解」しました。
その解決策として本を出しました。
黄色本、芋本、人間脳、そして「愛着障害は治りますか?」、さらに猫本。
すべて愛着障害の解決につながる具体的な方法が書いてあります。
それが私の支援です。
そして私はどうしても、支援者の人たちのように、彼らを「おおよしよし」することはできません。
それが失敗するケースをたくさん見すぎたし
何よりのバリアは
私が今も昔も恐怖麻痺反射の人、胎児性の愛着障害を抱えた人たちが
大嫌い
だということです。
おそらく私は、読者と版元という関係以上の関係を、この人たちと持たないほうがいいのだと思います。
その方が傷つけあわないのだと思います。
なぜなら私がその人たちに提供できるのは
解決策をどんどん本にする
ことと
強烈にダメ出しする
ことだけだからです。
この人たちへのダメ出しはこれからも強烈に続けます。
だから
それが怖い人は私を遠巻きに見ていた方がいいと思います。
正直に書きました。
難しいのはかと言って、恐怖麻痺反射や胎児性の愛着障害を背負った人全員に嫌悪感は感じないところなんですけどね。
キリソルさんからもコメントいただきました。
貼らせていただきます。
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Unknown (キリソル)
2016-12-05 15:22:52
朔さんのコメントと、それへの浅見さん・愛甲さんのお返事。そして、そのお返事に対しての朔さんのコメント。
どう表現したら良いのか思いつかないのですが、こうやって治っていかれる方がおられること、とても分かりやすい言葉で書いてくださっていること……がすべて嬉しく、こうして載せてくださっていることに本当に感謝です。
支援する側の片隅にいる私ですが、私自身愛着に不安を感じた記憶がないのです。
浅見さん的に表すと「愛着障害の人の気持ちがわからないことが私の愛着障害」なのかもしれません。
また愛甲さんが書かれた「恐怖麻痺反射の生活世界を理解できます」。
私にはその世界を理解できていないのだなぁ。だから、「この子はどの段階の愛着の抜けがあるのか」がすぐに見抜けないのかなぁ。と…。
しかし、私には想像力があります。考えようとする力があります。
恐怖麻痺反射の世界。自閉っ子の困難さ…
100%理解、体験はできないけど想像することはできるはず。
そのための手がかり、助けが花風社の本であり、朔さんのコメントです。
何よりも、本人と話すこと。わからないことは本人に聞くこと。
「常識を持ち、事の是非を一つ一つ自分で考える支援者」でありたい。
なんだかまとまらない文になってしまいました。(お三方のやりとりを読み、私も何かを伝えたい気持ちになったものですから。)すいません。
今後もよろしくお願いいたします。
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これを読んで告白する気になりました。
「愛着障害の人の気持ちがわからないことが私の愛着障害」だと私は書きました。
同じような立場で、キリソルさんはそれに同調された。
想像力を駆使すると言われる。
私もそうしようと思います。できるだけ。
でも実は「愛着障害の人の気持ちがわからないことが私の愛着障害」という表現は
私の状態を表すのにかなり「抑制した」表現なのです。
私の実際のところは
私は
・胎児性の愛着障害
・恐怖麻痺反射
を抱えた人が
大嫌い
というのが正直な気持ちなのです。
愛甲さんはネット上で私に絡んでくる人たちを見て
「あの人たちは浅見さんに甘えている」と言いました。
長年その意味がわかりませんでした。
でも「愛着障害は治りますか?」を作って、彼らは甘えの回数券を使い切っていないから、不適切な相手(この場合は私)にゆがんだかたちで甘えているのだと言うことが理解できました。
私が「卑屈クラスタ」と呼んで忌み嫌っていた人たちは、恐怖麻痺反射なり胎児性の愛着障害なりの持ち主でした。
そして支援の世界では、この人たちに同情を寄せるのがスタンダードな対応のようです。
私は卑屈には卑屈の意味があると知りました。
そういう意味では「理解」しました。
でも彼らを好きにはなれません。
問題があっても見て見ぬふりして策を取らないギョーカイ人たちを私は「死んだふり」と呼んできました。
でも死んだふりというより、まだ胎児の戦略をとっているんだ。「生まれてなかった」んだ、ということを知りました。
胎児の戦略を、大人になってもとるのは卑怯です。
そう。
私は基本的に
恐怖麻痺反射の残存している人は「卑怯者」だと思っています。
何かあると怖がって、誰かがひどい目にあっていても助けにいかずに身を丸めている。
そういう生き方は卑怯者だからです。
私は愛着障害を「理解」しました。
その解決策として本を出しました。
黄色本、芋本、人間脳、そして「愛着障害は治りますか?」、さらに猫本。
すべて愛着障害の解決につながる具体的な方法が書いてあります。
それが私の支援です。
そして私はどうしても、支援者の人たちのように、彼らを「おおよしよし」することはできません。
それが失敗するケースをたくさん見すぎたし
何よりのバリアは
私が今も昔も恐怖麻痺反射の人、胎児性の愛着障害を抱えた人たちが
大嫌い
だということです。
おそらく私は、読者と版元という関係以上の関係を、この人たちと持たないほうがいいのだと思います。
その方が傷つけあわないのだと思います。
なぜなら私がその人たちに提供できるのは
解決策をどんどん本にする
ことと
強烈にダメ出しする
ことだけだからです。
この人たちへのダメ出しはこれからも強烈に続けます。
だから
それが怖い人は私を遠巻きに見ていた方がいいと思います。
正直に書きました。
難しいのはかと言って、恐怖麻痺反射や胎児性の愛着障害を背負った人全員に嫌悪感は感じないところなんですけどね。
記事「自慢の娘」を拝読してから、確かに私もそうだったことを思い出しました。
しかし私が浅見さん達と決定的に違っていたのは、可愛がってくれる人たちの中心にいても、全く「ドヤ顔」を見せなかったことでした。
自閉の無自覚もあってか、周りがやけに騒いでいてうるさいというような罰当たりなことでも感じていたのでしょう。
親に愛されて誇らしげな幼児の顔ほど、家族を和ませ絆を強めるにふさわしいものはありません。それは陽だまりのように暖かい。
しかしながら冷やかな私もまた、強烈に親に愛されたのでした。一年間、女性親族が養育権を奪い合った末、私を養子にすることができたのが母でした。父とその親族が必死に止めるのを意に介さないまま。
もちろんドヤ顔が全くできない娘でしたから、母の憔悴は、私に魅入られながら年を追うごとにひどくなりました。与えた情愛が全く報われた感じがしなくて辛かったはずです。
薄情であるとよく言われました。母による躾は、長じるにつれ、念入りな麦踏みのようでした。そこに至るまでの母の心境が今ならわかります。本当に申し訳なかった。
しかし、ドヤ顔ができてもできなくても、もともと家族に愛されるのが子供という存在なのではないでしょうか。そこに矛盾はないはずです。
無い物ねだりでしょうが、やはり私はドヤ顔ができる浅見さんが羨ましいです。
支援者にならなかった浅見さん。「恐怖麻痺反射の世界を理解している朔さんは良い支援者になれる」と書かれた愛甲さん。
それを読んで私は「じゃあ、私は良い支援者になれないのか?」と受け取ってしまったのですね。(もちろんそんな意味で書かれているわけではありません。)けれどすぐに「それは違う。そうなのであれば、当事者しか支援者になれない」と思い、強みの想像力を使おうと思ったわけです。
それは、「よしよし」するためでも「周りの理解がなければならない」からではありません。
支援・指導する場合、その人の弱みを知っておいたほうが的外れなことをしないと思うからです。
何か事象があったときに「あかんことはあかん」と言うのは当然のこと。それに加え「どんな方法が良かったのか」を提示できたり、一緒に考えたりすることが私のすることだと思うのです。
「身体を緩めること」を伝えること、実践することもです。
「赤本」を読んで知ったことから始まった世界。何冊もの本の力を借りて、治る人が一人でも増えてほしいし、増やしたい。
それと、浅見さんの強烈なツッコミにどれだけ共感できるか、それは私の常識度を測る尺度でもあります。
ここまで書いてきて、「私って理屈っぽい。文章にすることで気持ちを整理していく脳なんだ」と実感しました。
なんか私の理屈っぽさにつき合わせてしまいすいません。
(けどこの理屈っぽさが私の強み。と思う楽観的なとこも強み)
まだまだ、お世話になると思います。
よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
海市さんが「愛着障害は治りますか?」を読んでいるかどうかわからないのですが、海市さんが向けられてたのは本当に愛なのか、私にはわかりません。そういう経緯で子どもを奪い合うことは、少なくとも子どもへの愛だけではないように感じます。それを幼い海市さんは感じていたのではないですかね。
なんとか浮上したいというもがきではあるけれどしがみつかれるのは苦痛です。浅見さんの持つ健全さが拒否するのだと思います。愛甲さんの仕事のような人は一緒に沈んでもなんとか希望を見て耐える訓練をしているのだと思うけど、それでも協力して治療するという決意が二人の間でなされているからなんとか成り立つのであって、ただしがみつくだけでは結局救われない。なんとなく気になって突きにくるだけのようなのはガキっぽくて付き合いきれない。一人や二人じゃないので本当に厄介。得るものもない。それに自分を守れない傷つけるから他人に矛先が向かうのは割とすぐな気がします。
決意があれば治す手立ては教えてくれている。自分でやるのをやってもらえると勘違いしないことが大事。
自分を傷つける人を見るのは嫌なことです。理屈じゃなくするんじゃないと止めてくれるような身近な人がいたかという点が原始恐怖麻痺反射を残していても付き合いやすい人の違いじゃないでしょうか。もしくは大切な人のために自分を賭けてぶつかった経験があるかどうか。身近な人が存在を賭けて向き合うことで伝わるものがあると思います。だから親が死んだふりしちゃいけない。そこにドヤ顔の必要はないのでドヤ顔云々は違う気がします。
とにかく決意なく一歩も踏み出していない人が頭でだけわかったつもりでもそんなに簡単じゃないのだと思います。
私はこれまで、何人かの人に
私はあなたが嫌いです
って言ったことがあります。
でもよく考えたらそれほど嫌いではないんですよね。
ただ、私がこのまま受容してるとこの人は依存するな
と感じた時にはねつけるみたいです。
キリソルさんは愛着障害がある人が嫌いではないのですね?
愛着障害がある人を嫌いではないのか?
「なんでそういう反応になるの?」と腹が立ったり、悔しい気持ちになりますが、
そういう子どもたちを指導・支援するのが仕事なので、なんとかしたい、というのが一番にきます。
だから「嫌いか?」と聞かれると「嫌いじゃない」という答えになります。
私が会社を自分で作った理由のかなり大きな一つが「嫌いな人と付き合いたくない」なんです。
20年やってみてわかるのは、完全に付き合わないのは無理だけど、自分でリスクをとる分、かなり減らせたということです。たとえば公務員とかは安定しているけど同僚を自分で選べませんよね。もちろん上司も。
仕事上付き合わなければいけない相手というのが、支援者の人の場合には当事者だと思うのです。
私の場合にはそっちじゃないんですね。別のところにその人たちはいるのです。
一般の人たちは愛着関係発達のピラミッドを知りません。それを知らなくて愛着障害の人を嫌っているんだと思います。
私はそれを重々承知の上、ちゃんと嫌ってあげようと思います。
支援という金魚鉢の中にいる間は、職業として自分を嫌わない支援者としか接触できない。
だから私はピラミッドを知ったうえで、それでも嫌いだという気持ちを隠さずに
人として当たり前に持っている「誰かに嫌われる権利」を行使してもらおうと思います。
またお越しくださいませ。