最初に業務連絡です。
23日の夜の部にお出になる方
レジュメが長文(刑法などを引っ張っているため)になったためファイルでお送りしています。
お一人お一人手作業で送っています。
本日中には全員にお送りする予定です。
当日はスマホ等でそれをごらんになるか、打ち出してお持ちください。
よろしくお願いいたします。
さて、本日の記事の本題です。
先日の「ベムの浅知恵」でも触れたあのころの件です。
レジュメ書いてるといろいろ思い出すのですね。
ベムこと宮本晋が最後消えるとき、悔し紛れにこんなこと言ってました。
「あっちだっていいことは起きない」。
また、そらパパと争っているとき、こういうおせっかいを言ってくれた人がいました。
「争っている姿を見せることは、どちらにもいいことがないと思うのです」
つまり「争っているのは悪いこと。そのツケは双方が払うことになる。だから喧嘩はやめて」という思想です。
私がそのアドバイス(おせっかい)を受けてどう思ったか?
くだらん。
なんて迷信深い、です。
そんな迷信を振り回すこと自体、彼らのエビデンスガーがご都合主義に過ぎないと露呈しているようなもんです。
合理的に考えてください。
争っている二者があって、どっちかが消えていけば消えないほうは隆盛方面に進む、というのが自然な流れです。
「どっちにもいいことがない」なんていうのは負けていく方の負け惜しみに過ぎません。
事実この七年を見てください。
当時声を上げられなかった「治るものなら治りたい人たち」が声を上げるようになり、成果を上げるようになり、自閉の神様が応援するように様々な著者との出会いと別れをくださり、ますますエッジがかかった出版物が次々と生まれ支持されています。
私が迷信を真に受けなかったからです。
また、専門家からの妨害行為。
これは「発達障害、治るが勝ち!」にも書きましたね。
=====
こっちの主張が気にくわないと「おまえのところの本なんか二度と買わない」と言われる。それが脅し文句になると思っているのである。そして零細版元の考えを揺るがそうと「不買運動起こしてやる」とか医師や臨床心理士、大学教授や発達障害者支援センター長、といったリッパな人たちが脅しをかけてくる。だから私は言い返す。「わかった。じゃあ二度と買わないでね。私はこれからもいっぱいいい本出すよ。評判になるのもあるかもよ。中には読みたい本もあるかもよ。読みたいんだけど花風社だから買わない、と唇かみしめて我慢してね。買わないと自分で決めたんだから絶対買うなよ!」と。
一回当事者らしき人から電話がかかってきて「もう花風社の本は絶対買わない!」と言われたので「わかった。ぜーったい買わないでくださいね。死ぬまで花風社の本は、ただの一冊も買わないでくださいね! どんなに読みたい本が出ても買わないでくださいね」と言ったら、わっと泣いていた。
=====
私が当時思ったのは、いやしくもプロならば、たとえ主張の違うところの本でも、必要とあらば目を通すのが一流だということです。きちんと批判するためだけのためにもね。少なくとも、私はそうします。
その結果自分の嫌いな著者に売上がいく。そういうことをドケチな人は気に病むんですね。私はドケチではないので到底そういう考えはしません。相手に金を払う=相手のコンテンツを得る。そのフェアな商取引の手続きを踏んで他人が損するより自分が得することを優先しますから、たとえ嫌いな人の本でも自腹切って買います。そして堂々と批判する。「わ~こんな本に金出しちゃったよ損したな」っていう痛みを味わうのも版元の修行のひとつだからですよ。でも他人がちょっとでも得をすると自分が損をしたように思うドケチ卑屈マインドの人はそれができないんでしょうね。
そして私がいやしくもプロだと思っている心理士とか医師とかたちがもし「ここは気にくわないからここの不買運動を!」なんてやってたら、なんて不勉強で感情に振り回されているプロ意識を欠いた人たちだろう、と思います。信用しなくなります。
そのリスクを冒して「花風社の本の不買運動をします!」の人たちはごくろうさんというところです。それで客を失ったって痛くもなんともない。一方で私がきっちり自分の意見を言うことで、得ているお客もいらっしゃるから。来るものは拒まず、去る者は投げ飛ばす、でいいのです。
なんで私がこんな脅しに負けなかったかのか。
それは愛着障害がなかった、薄かったからですね。
それで「愛着障害は治りますか?」を作ったのです。
愛着の土台がしっかりしている人は、脅しにも同調圧力にも負けないと思うから。
そして脅しや同調圧力に負けていては、主体性が発揮できないし
主体性が育たないと、治らないからです。
23日の夜の部にお出になる方
レジュメが長文(刑法などを引っ張っているため)になったためファイルでお送りしています。
お一人お一人手作業で送っています。
本日中には全員にお送りする予定です。
当日はスマホ等でそれをごらんになるか、打ち出してお持ちください。
よろしくお願いいたします。
さて、本日の記事の本題です。
先日の「ベムの浅知恵」でも触れたあのころの件です。
レジュメ書いてるといろいろ思い出すのですね。
ベムこと宮本晋が最後消えるとき、悔し紛れにこんなこと言ってました。
「あっちだっていいことは起きない」。
また、そらパパと争っているとき、こういうおせっかいを言ってくれた人がいました。
「争っている姿を見せることは、どちらにもいいことがないと思うのです」
つまり「争っているのは悪いこと。そのツケは双方が払うことになる。だから喧嘩はやめて」という思想です。
私がそのアドバイス(おせっかい)を受けてどう思ったか?
くだらん。
なんて迷信深い、です。
そんな迷信を振り回すこと自体、彼らのエビデンスガーがご都合主義に過ぎないと露呈しているようなもんです。
合理的に考えてください。
争っている二者があって、どっちかが消えていけば消えないほうは隆盛方面に進む、というのが自然な流れです。
「どっちにもいいことがない」なんていうのは負けていく方の負け惜しみに過ぎません。
事実この七年を見てください。
当時声を上げられなかった「治るものなら治りたい人たち」が声を上げるようになり、成果を上げるようになり、自閉の神様が応援するように様々な著者との出会いと別れをくださり、ますますエッジがかかった出版物が次々と生まれ支持されています。
私が迷信を真に受けなかったからです。
また、専門家からの妨害行為。
これは「発達障害、治るが勝ち!」にも書きましたね。
=====
こっちの主張が気にくわないと「おまえのところの本なんか二度と買わない」と言われる。それが脅し文句になると思っているのである。そして零細版元の考えを揺るがそうと「不買運動起こしてやる」とか医師や臨床心理士、大学教授や発達障害者支援センター長、といったリッパな人たちが脅しをかけてくる。だから私は言い返す。「わかった。じゃあ二度と買わないでね。私はこれからもいっぱいいい本出すよ。評判になるのもあるかもよ。中には読みたい本もあるかもよ。読みたいんだけど花風社だから買わない、と唇かみしめて我慢してね。買わないと自分で決めたんだから絶対買うなよ!」と。
一回当事者らしき人から電話がかかってきて「もう花風社の本は絶対買わない!」と言われたので「わかった。ぜーったい買わないでくださいね。死ぬまで花風社の本は、ただの一冊も買わないでくださいね! どんなに読みたい本が出ても買わないでくださいね」と言ったら、わっと泣いていた。
=====
私が当時思ったのは、いやしくもプロならば、たとえ主張の違うところの本でも、必要とあらば目を通すのが一流だということです。きちんと批判するためだけのためにもね。少なくとも、私はそうします。
その結果自分の嫌いな著者に売上がいく。そういうことをドケチな人は気に病むんですね。私はドケチではないので到底そういう考えはしません。相手に金を払う=相手のコンテンツを得る。そのフェアな商取引の手続きを踏んで他人が損するより自分が得することを優先しますから、たとえ嫌いな人の本でも自腹切って買います。そして堂々と批判する。「わ~こんな本に金出しちゃったよ損したな」っていう痛みを味わうのも版元の修行のひとつだからですよ。でも他人がちょっとでも得をすると自分が損をしたように思うドケチ卑屈マインドの人はそれができないんでしょうね。
そして私がいやしくもプロだと思っている心理士とか医師とかたちがもし「ここは気にくわないからここの不買運動を!」なんてやってたら、なんて不勉強で感情に振り回されているプロ意識を欠いた人たちだろう、と思います。信用しなくなります。
そのリスクを冒して「花風社の本の不買運動をします!」の人たちはごくろうさんというところです。それで客を失ったって痛くもなんともない。一方で私がきっちり自分の意見を言うことで、得ているお客もいらっしゃるから。来るものは拒まず、去る者は投げ飛ばす、でいいのです。
なんで私がこんな脅しに負けなかったかのか。
それは愛着障害がなかった、薄かったからですね。
それで「愛着障害は治りますか?」を作ったのです。
愛着の土台がしっかりしている人は、脅しにも同調圧力にも負けないと思うから。
そして脅しや同調圧力に負けていては、主体性が発揮できないし
主体性が育たないと、治らないからです。
別に長沼先生とご縁が切れた覚えはありません。詮索は余計なお世話で不快です。そういう質問は無礼で他人を不愉快にさせますね。
この地では、まだ、先生を頼りにしている親御さんや子供で溢れています。ですが、花風社の著書棚に置いてあります。
私が浅見さんは当事者の立場で考えてくれていると感謝し、ギョーカイ批判を支持するのは、浅見さんの利他的な想像力が優れていて信用しているからです。実際に利他的な行動を多くとっているから想像が働くのだと思います。フェアな取引には利他的なところがあり、社会に居場所を求める上で必要なことだと思っています。ギョーカイはフェアな取引をしてないから近づくまいとも思っています。もっと言うと当事者の想像力の弱さにつけこんでると警戒してます。
私は特に気を使うほうなのですが、彼らのあの無神経さ反省のない態度に驚かされることばかりです。頭が痛くなってきます。すみません私はどうも大分疲れているみたいです。