治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

なぜ「治る」という言葉を使うのか

2015-03-04 10:48:03 | 日記
さて、前エントリに栗林先生からコメントをいただきました。
コメント欄にも書いたとおり「そうそう」というところと「そこちょっと違うな」というところがありますが
先生のコメントで、私がなぜ「治る」という言葉を使うのか再考するきっかけをいただきましたので、ここに書きますね。

まず先生のコメント。

浅見さんのこの記事の文章が、ことさら私の心を動かすのはなぜなんだろう。
いつもストレートな表現でスカッとするのを感じるのとはまた何か違うこの感覚は何だろう。
幸せな気持ちになるのです。

そして失礼だけど、初めて実感したこと。
「治ってもらいたい」が浅見さんの真心なんだね。
一切の霧が晴れて、さわやかです。


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そのとおりですよ。赤い本の当時から、「異文化で面白いなあ」という気持ちと、「でも大変そうだなあ、治らないのかな、これ」という気持ちがありました。そしてね、いくら自閉っ子が異文化で面白くても、「私たちを楽しませるためにずっと異文化でいてね」っていう人がいたら、それこそ残酷だと思いませんか? 夜が来ると眠れて、自然に季節の切り替えを乗り切っている身としては、同じようにラクをしてもらいたいと願うのは無礼なんですかね? そこで「自閉っ子は苦しくてもそのまんまでいろ」という「治るなんて差別」系の人とは私、話が合いません。自閉っ子は健常者が異文化を楽しむための飛び道具じゃないですからね。
=====

ふたたび栗林先生。


私が思う「育って欲しい」と「治ってもらいたい」は、同じなんだと思う。
私の障害観は「育ってない状態」なんです。
だから育てばいいんです。
浅見さんは「患っている状態」が治ったらいいと思ってるんですよね。
違ったら笑ってください。


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わははあははは。
はい。笑わしてもらいました。

栗林先生が「育って欲しい」というのは当たり前なんです。
だって先生は教師なんだもの。
そして私が「治ったらいいな」と思うのは当たり前なんです。
だって私は自閉っ子やその周辺の人のつらさを日々目撃している一般人なんだもの。一般人の目線は「困ってるんだな。治ったらいいな」なんです。
そして本来は医療が「治したい」と思うはずなんです
でもギョーカイは違うんです。医療のくせに「治せない」「治すなんて間違い」と言い切る。
そのギョーカイにつられて本来は「治ったらいいな」という気持ちを持っていい人たちが「治りたい」って言えないのが現状なんです。
だから私は「治る」という言葉を使い続けるのですよ。
=====
でまた栗林先生。

私と浅見さんの障害観が違うのかと思うことがあったけど、同じなんだと喜んでいるのです。
ぬか喜びだろうか?\(◎o◎)/!

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栗林先生も私も、ターゲットが一次障害っていうところが同じですよね。一粒の卵ボーロで行動を変えてぱちぱちぱち、みたいなレベルの変容を狙っているわけではないでしょ。
根本的にその子に生きる力が宿るところを目的としているでしょ。
それは同じなんではないのかな。だからどっちも身体からのアプローチに興味があるんだと思いますよ。身体が育てば行動は勝手に変わっていくからね。しかもそれは持続する。卵ボーロがなくなっても。

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栗林先生。


只ね、もしかしたら、「育つ」と「治る」のスタートラインは違うかもしれない。
私にとっての「育つ」にはスタートラインの絶対値が無い。ゴールも決まっていない。どこまででも、できる限り育って欲しい。
「治る」には「健康に戻る」という社会的に認められた「健康」の絶対値があるように感じる。


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それはちょっと違いますね。いやちょっとじゃない。すごく違いますね。
健康の絶対値って何? 誰か、絶対的に健康な人が存在しますか? 少なくとも私の周囲にはいませんね。
「育つ」に限りがなくて「治る」に限りがあると考えているとしたら、それは教師の持っている教育原理主義だと思います。
治るだって育つだってスペクトラムです。そして「ここまではクリアしとくべき」という線はある(他者の助けを借りることも含めて)。そこまで持っていくのが教育であり医療であるはず。そしてそれをとりあえずクリアしたら「ここまででいい」と決める権利は本人に属するのではないでしょうかね。
ただその責任は自分で負うべきだよね。
あくせく働かなくても節約生活でいいや、って決めるならそれでいい。ただあくせく働いている人と同じようにお金は使えない、っていうだけですよ。

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小難しく考えちゃったなあ・・・やめよう、こういう考え方。ごめんなさい。
やっぱり、素直に、同じだったんだぁと喜ぶ自分が、今の自分。\(◎o◎)/!


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同じか違うかわからないけど「一次障害に働きかける」ことが教育現場にもいると私は思っていて
(医療の現場にも一次障害に手をつけられない人は多いみたいだけど)
そのお一人が栗林先生だと思っているのは確かです。
それに死んだふりしないしね。
「自閉っ子のための友だち入門」。川崎の事件のあれこれが明らかになってきたからこそ、今皆さんに読んでほしいですね。私はあの中学に栗林先生がいたらよかったと思う。あの子は死なずにすんだかもしれない。

あと、患っている状態うんぬんの話。
よくギョーカイは一次障害は治せない、治るのは二次障害、っていうでしょ。
でも二次障害をものすごく恐れるでしょ。あの恐れ方そのものが、「ギョーカイは二次障害も治せない」何よりの証だと思うのです。そして二次障害を恐れるから資質が開花しない→余計治らないという負の芋づるになっているんですよね。ギョーカイ周辺はね。

でね、私のみたところ、二次障害を治す人は、一次障害も治ってます。治す人、治る人、双方にそれは言えます。
でも治らない人はどっちも治りません。
そしてギョーカイの啓発活動を真に受けるゆえに、炭坑のカナリア意識を高めていって、治らない人も多いです。

ニキ・リンコは実在しない。浅見淳子のでっちあげキャラだ。
なんていうのを思い込むのは、どう見ても一次障害ではないです。何かの「生きづらさ」(ぷ)がもたらした妄想のはず。だったら治せよ、と私はギョーカイに要求したわけです。
そうしたら
・大人になったら治らない
・治す気のない人は治らない
ということでした。大人になったら治らないのなら、成人支援はおおいなる税金の無駄遣いですね。社会に還元せず、事業者の懐に血税が落ちるだけなら、今すぐやめたらどうでしょうかね。
治す気のない人は治らない、って、でも「治らなくていいんだ。社会があなたたちの面倒をみればいいんだ」って言ってるのは支援ギョーカイじゃないですか。支援ギョーカイは「啓発活動」によって「治る気のない人」を量産しているわけです。

たとえば睡眠障害。
睡眠障害がある、というと「自閉症ですからね」で終わり。それって別に納得する所じゃないと思います。眠れないことはたくさんの困ったことを生む。じゃあ眠れる身体を作りなよ、っていう発想をするんです。一般人は。「治してあげられないものか」って思うんです。一般人は。

だから私が「治る」という言葉を使い始めたのは、一般人としての普通の感覚からです。
愛甲さんがこの世界に入ったきっかけは、お寺の留守番をしていたら檀家の方がやってきて、「この子は言葉が出ません。治してください」と言った。りちぎな愛甲さんは治してあげたいと思って大学院に行って、言語聴覚士の資格を取った。愛甲さんをこの世界につれてきてくれたのは、一人のお母さんの「我が子を治したい」という気持ちなんです。
私が「治る」という言葉を使うのも、それと同じ。

お寺の檀家の方のようにね
「治りたい」って思うのは自由なんですよ、皆さん。

その気持ちに蓋をしようとする人がいたら
その目的は何なのか、見極める習慣をつけましょう。

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3 コメント

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病気も障害もスペクトラム (はる)
2015-03-04 11:43:48
治るってどういう事だろうと最近ずっと考えていました。
でも、今日のこのブログで腑に落ちました。
私は発達障害も2次障害も自分や息子を通して
治っていく過程の中に来ている最中です。
うちの親子の場合

私=一次障害が軽度、2次障害が重度
息子=一次障害が重度、2次障害は軽度

っていうパターンでした。
その治っていく過程の中で私たち親子の共通点だった事は
身体を元気にする事からの脳が楽になり一次障害も軽くなっている
そう、浅見さんのいうスペクトラムの状態の真っ只中なんですね。

医学的に言えば、私はもう一次障害ではなかったまたはなくなったといわれるかもしれません。
でも、自分の中にはまだまだ、定型脳の方との違いを感じる事もありますが、すごくマシになったなぁと思いますし
コンディショニングに気をつけてる事もあり2次障害も軽くはなっています。薬も減りましたし。
私を知る友だちや家族は、病気も障害も治ったまたは軽くなった元気になったという人もいます。

『治った』状態に線引きをするのはあくまで書類上なだけで
『治った』状態のゴールっていうのはないのかなって
今日の浅見さんのブログを読んで私の中で感じています。

本人が治ったと思っても他者からみれば治ってないと感じる事もありますし
周囲が治ったと感じても、本人は治ってないと感じる場合もありますし…
医学上の『治った』が本当の『治った』でもないと私は感じていて
結局のところ、治るとか治らないとかじゃなくて
楽になったという事が大切で、ゴールを決めなくてもいいのかもしれないなんて感じています。
WEB上対談の続き (栗林です\(◎o◎)/!)
2015-03-04 23:51:55
浅見さん、私のコメントについてのご意見、私こそ更に考えが整理できました。

浅見さんは、私の「育って欲しい」を教師だからと評しましたね。それは違います。

私の感じるところでは、多くの教師が「指導する」ことに追われ、「育てる」こともままならず、まして「育って欲しい」などと夢見がちな表現を現実のこととして語ることは、ほとんどないと思います。

教育を美談にする教師は、そんな表現を多く使うかもしれないけれどね。(皮肉です)

偏見と言われるかもしれないけれど、現場はそんなロマンチックな教育環境ではありません。

私が「育って欲しい」と願うのは、「大人」とか「親」とか表現される、成人としての生物本来の子孫繁栄を遺伝子に組み込まれたものの願いだと思います。

あらゆる教師が本気で「育って欲しい」と願っているのなら、もっともっと今の世の中は変わっていたでしょう。

そしてもう一つの気づきは、私の誤解です。
浅見さんの「治る」には絶対値が無いという事。
本当に自然な想い。人ととして当然の想い。
「治って欲しい」「育って欲しい」
それは、その人にとっての幸せを十分に味わって生きて欲しいという事ですね。

私のライフワークである「ムーブメント教育・療法」は教育することや療育することが目的ではない。人が自分の力を十分に発揮して、自分が望む幸せを獲得することが目的です。

だから自分が望む幸せを獲得するために、自分自身が興味関心を抱き、自分自身が楽しみたくて、自分自身が努力する。

できないことができるようになることの喜び。
できそうなことが見つかる喜び。
誰かと一緒にできる喜び。
誰かと一緒と思える喜び。

浅見さんは、私の目には健康的に自立している人。
誰もがそのことを目指して生きるべき。
できる形でいいから、妥協しないで、自分が納得する幸せを求めて、獲得して欲しい。

こんな方法があるよ。
こんな環境があるよ。
こんな人がいるよ。

私が提供している支援は、ただのカタログかもしれないけど、可能性は諦めない。
欲しいと思うかどうかは、本人次第だけど、実演販売が流行るのは、一目瞭然だからだと思う。

「自分にとってこれが必要と思うきっかけを提供する」ことが、私の支援かもしれない。
ありがたいことに、実感した人は、その人の周りの人にも、きっかけを与えることになる。

浅見さんの提供する本は、そういう意味で、まさに幸せになるきっかけ作りの材料として、すぐに手に取ることのできるリアル情報だよね。
ラクになったあとの人生 (浅見淳子)
2015-03-06 08:59:14
はるさん、栗林先生、ありがとうございます。
昨日は朝からばたばたしていててレスできませんでした。午後からミーティングというか取材というかの会合でした。そこで「治るに絶対値はない」となぜ私が自然に考えてきたか答えを見つけられたような気がします。
私は今、心身共に臨床的なレベルの問題を抱えていません。そしてそういう人は世の中にいっぱいいるでしょう。いわゆる健常者と言われる人の大半がそうでしょう。じゃあその人たちが何も苦悩や欠点を抱えていないかというと、それはないと思います。みんなそういうものと向き合いながら乗り越えたり折り合いをつけたりしているのだと思います。それが人間のデフォルトだから、私は治るに絶対値を想定してこなかったのです。でもとりあえずラクでない人、ラクでないひとを育てる立場からすると、到達目標みたいなものが設定された気になるのかも知れませんね。

それと栗林先生の、教師は育てることを必ずしも欲していないというかそこまで手が回らない、ってそういえばそうだなと思いました。
人として当然つかめる幸せをつかんでほしい、というのが私の気持ちです。それには周囲の支援も必要ですが、なぜ「本人の力」という貴重なリソースを使わないのかというのが私のギョーカイに対する疑問です。支援っていったいなんでしょう。

それにも答えがじきに与えられそうな気がします。
そのヒントは次のエントリで触れようと思います。

またお越しくださいませ。