治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

頼りにならない「発達障害ならではの才能」にいつまでも縛り付けますか?(議論板を受けて)

2017-08-18 12:12:23 | 日記
さて、今日は炎上しそうなネタです。あ、いつもか。
昨日ちょっとFBで発言したんですけど、まとまったらここに書くつもりだったんですけど、一晩寝て朝まったく違う作業をしていたらかなりまとまったので書いておきますね。

これです。Shihokoさんのご懸念。

=====

素直な当事者が、自分を助けてくれるはずの親や支援者に、“「治る」という言葉は、「本人や社会にとって有利不利に関わらず、自閉症(あるいはADHD)の特性全てが消える」という意味だ”と、“それを推奨しているのがこの出版社だ”と吹き込んだら、そのまま信じてしまいそうだな、と思ったのです。

花風社さんの本をちゃんと読んでいれば、そんな事を言っているのでは無いことは火を見るより明らかなので、私自身はそこに何の不安も抱かずここまで来ましたが、当事者の中には読み書きが苦手だったり、長文を読むのに辛苦する状態の人も少なくないわけで、その上、この本に書かれているような、支援者や親の悪意(あえて悪意と断言しますが)の存在を思うと、彼らが自分たちの勝手な思惑のために、書かれている“治る”の意味を曲げて伝えるのは、いかにもありそうなことだと、思ってしまいました。

自閉っ子の記憶力が減るとか、ADHDっ子の、アラームを使う程度でコントロール可能な過集中が無くなるとか吹きこまれたら、きっと恐怖だろうと思うのです。

苦手がいっぱいある当事者にとって、命綱みたいな存在かもしれない、希少な強みは、ぜったいに手放せない特性であることも少なくない中で、支援者や親が、そこにつけ込むことは、赤子の手をひねるより簡単に思えます。

あるいは、「治る」という言葉だけで、勝手に曲解する当事者もいるかもしれませんが、悪意ある支援者や親達が、その曲解を解こうとするはずも無く…と、案外そんな風にして、強固な「治りたくない症候群」の一大勢力は作られてきたんじゃないかなぁと…そんな事をつらつらと考えていました。

=====

率直に言ってこのコメントを呼んだ時には「取り越し苦労だな」と思いました。
私自身は、取り越し苦労って過去のものなのです。
若いころはしていたような気がします。でもそれがだんだんなくなってきて、最終的にすっばりとなくなったのは実は、父の死がきっかけだったのですね。
「ああ、私って大丈夫なんだ」とあれで腑に落ちたのです。不思議ですね。

でもこのコメントには捨て置けない何かがあり、数日考えて、「あ、これだ」と思ったことを書きます。
長文になりますので読む方は覚悟しておいてください。

まずは挑発的かもしれないけど結論を。

私は

私の考えでは

「発達障害者ならではの才能」が一種のフィクションだと思っています。
そしてそれは保護者支援者の負け惜しみが生んだフィクションだと思っています。

驚異的な記憶力。カレンダーボーイ・ガールは確かにすごいですよね。でもそれを社会の中で「自分の食い扶持」に交換するには体力なり実行機能なり社会性なりが必要なのです。でなければたんなる宴会芸で終わります。

過集中は役に立つでしょう。でもクリエイターなんてみんな過集中です。学者もそうかもしれません。そして過集中をやはり「自分の食い扶持を稼ぐ」ために役立てるには体力、実行機能、社会性、そして黄色本で推奨しているような「一晩寝れば回復できる身体」が必要なのです。それがない過集中はむしろ病のもと。それを私たちはさんざん見てきたのではないですか?

じゃあなぜ驚異的な記憶力や過集中をそれほど、それ自体が尊いものとして本人に吹き込まれるのでしょう?
それは「ほめろほめろ教」のカルトに知らず知らずのうちに組み込まれた支援者保護者が、ほめるところを目を皿のようにして探したあげくの無責任な行為ではないですか?

なぜ無責任か。
本人は「自分はこれで世の中を渡っていけるのだ」という誤学習をしてしまうからです。
そして実際には、そこに拘泥しているからこそ世の中に出られないからです。

世間には障害がなくても記憶力のいい人はいるし、外付け頭脳たるコンピュータもあるし、過集中だと言われるほど集中できて一方で卒なく社会性を発揮できる人たちもいるのです。

自閉症者に有利な仕事にはどんなものがあるでしょう?
などという議論がよくなされていて、とても無責任な言論が行き渡りますが、私としては

障害がある方が有利な仕事なんてこの世に一つもない

というのが現実だと思います。

厳しいこと言いましたね。
でも違いますか? 何か思いつきますか?

学歴はあった方がいい。
お金はあった方がいい。
頭はいい方がいい。
身体は丈夫な方がいい。
才能があった方がいい。
ルックスはいい方がいい。
家柄はいい方がこねや情報に恵まれている。

こんなの当たり前の話ですよね。でもパーフェクトにそろえている人はいないからそれを組み合わせしてなんとか自分の食い扶持を稼ぐ。それが現実だと思います。

そして私は、「持って生まれたもの」に関しては、誇る必要もないし褒める必要もないと思っているんです。ただ、そこにあるだけ。だったら本人がそれを使って世の中わたっていけばいいだけで。

私が宴会芸としての驚異的な記憶力を披露されたら「すごいねー」くらいは言うと思います。それはカラオケで歌が上手な人に拍手するようなもんです。

でもだから「それこそがあなたの強みだ」なんて言いません。私は神様じゃないんだから。そしてそんなこと言ってしまうのは、過ぎた行いだから。

でも「治ったら自分の才能もなくなる」なんて心配する人がいそうだっていうことは、みんな神様みたいに「それこそあなたのいいところ」とか上から言ってるんだろうなと思います。そしてそれが「ほめろほめろカルト」とか「負け惜しみ」から発したもので、その結果ご本人が「これが自分のしがみつくべき才能」という誤学習の中に置かれると、本当にかわいそうだなと思います。

そういうところをやたらほめたたえる支援者保護者は、結局そこに本人の人生を縛り付けてしまっていると思いますね。それにすがって生きようとするご本人たちがかわいそうです。

過敏性が治る人はいますね。たとえば街歩いていてにおいが気にならなくなったら、残念なんですかね。むしろうれしいんじゃないですかね。嗅覚で商売している食品開発の人やなんか以外は役立たない能力です。そしてそれを役立てている人は、社会性や体力と両立しているんでしょうね。そういう風にできるのなら、治っても過敏性は残るんじゃないですかね。役に立つものとして。

というわけで私にとって「自閉症者ならではの才能」はフィクションですが、逆にいうと「それがあるとして、霧散するくらい治ってみろよ」とも思います。それくらい治ったら大したもんですよ。

一方で「自閉症者ならではの美徳」というものの存在を私は強く信じています。

それはりちぎさだったり、まじめさだったり。ちゅん平さんは健康になって過敏性がなくなり街を歩いてもくさく感じなくなりましたけど、りちぎさ、まじめさは残っていて、修行にも生かしているし、お仕事にも生かしています。それは役に立つものだから残ったのでしょう。

そのほか、こよりさんにしろニキさんにしろ、私はそこに美しいものを見出します。その一部は確実に、自閉症とリンクしています。そしてそれは生涯残るものなんだと思います。ご本人たちの役に立つ限り。

読めなかった南雲さんが表現することをもとめてもがいた先に話す仕事があった。それも読字障害の人なりの発展だと思います。読字障害だから今の仕事にたどりついたのではありません。自分の読字障害と向き合い、「含んで越えた」から今のお仕事があると思います。

そして自分の「負け惜しみ」のために当事者を役に立たない「発達障害者ならではの才能」(というフィクション)なんかに縛り付けている人たちは

残酷なことをしていると思いますね。
しかも自覚もなく。

=====


「発達障害、治るが勝ち!」
花風社HPからのお申し込みはこちらへ。
Amazonはこちらにお願いいたします。