昭和43年頃からEE(自動露光)カメラが普及しはじめたように記憶している。
私の使っていたこの写真を撮っていたカメラは今の撮り切りカメラ程度のサイズだが、
金属的な重さがあった。
私は紙と土と木などの植物に囲まれた環境の中で、金属に憧れていたのかもしれない。
ここに写っている友人が構えているカメラはどこのメーカーのものだろうか。
三重県松阪市
私の使っていたこの写真を撮っていたカメラは今の撮り切りカメラ程度のサイズだが、
金属的な重さがあった。
私は紙と土と木などの植物に囲まれた環境の中で、金属に憧れていたのかもしれない。
ここに写っている友人が構えているカメラはどこのメーカーのものだろうか。
三重県松阪市
標高817mの白猪山の山頂で友人二人を撮る。
この山は伊勢三山の一つで山頂には石尊大権現が祀られている、
ということは今ネットを検索して初めて知った。
人物の後ろに写っている幼木も今は大きく成長していることだろう。
三重県松阪市
この山は伊勢三山の一つで山頂には石尊大権現が祀られている、
ということは今ネットを検索して初めて知った。
人物の後ろに写っている幼木も今は大きく成長していることだろう。
三重県松阪市
中学の友達数人とこれからこの山に登るところ。
白猪山(しらいざん)という標高800m余りの山だ。
この山登りハイキングのとき、私とあと2人は下りではぐれてしまって
全然違うところに下りてしまった。
このとき山登りというのは上りは一本道だが下りはいくつもの分かれ道があるということを
初めて知ったのだった。
三重県松阪市
白猪山(しらいざん)という標高800m余りの山だ。
この山登りハイキングのとき、私とあと2人は下りではぐれてしまって
全然違うところに下りてしまった。
このとき山登りというのは上りは一本道だが下りはいくつもの分かれ道があるということを
初めて知ったのだった。
三重県松阪市
櫛田川とその支流である朝柄川を、新しくできた「勢和大橋」から見下ろす。
この新しい橋は私が小学6年生の頃にできたのだが、
それまではこの写真の左上に写っている低い橋しかなかった。
通称「沈み橋」というコンクリートの橋には欄干もなく、
バタと呼ばれていたオートバイや、自転車、歩行者しか通れなかった。
また、台風などで大水が出ると橋は水に沈んでしまって渡ることができなかった。
私は小学校に上がる前の2年間、この橋を渡って保育所に通っていた。
保育所からの帰り道、道草をして橋の途中で川に降りて河原で遊ぶことも多かった。
三重県多気町
この新しい橋は私が小学6年生の頃にできたのだが、
それまではこの写真の左上に写っている低い橋しかなかった。
通称「沈み橋」というコンクリートの橋には欄干もなく、
バタと呼ばれていたオートバイや、自転車、歩行者しか通れなかった。
また、台風などで大水が出ると橋は水に沈んでしまって渡ることができなかった。
私は小学校に上がる前の2年間、この橋を渡って保育所に通っていた。
保育所からの帰り道、道草をして橋の途中で川に降りて河原で遊ぶことも多かった。
三重県多気町
櫛田川に架かる「高橋」という名の橋。
私の住んでいた地域から川を越えて丹生(にゅう)という地域に向かうには
この橋が唯一のルートだった。
丹生はかつて江戸時代には水銀を産出した地域だった。
それをもとにして伊勢おしろいを製造し財をなした三井家は江戸で呉服店「越後屋」を開き、
その後、三越百貨店へと発展し、そして三井財閥となった。
この高橋は老朽化し取り壊されて今はもうない。
三重県多気町
私の住んでいた地域から川を越えて丹生(にゅう)という地域に向かうには
この橋が唯一のルートだった。
丹生はかつて江戸時代には水銀を産出した地域だった。
それをもとにして伊勢おしろいを製造し財をなした三井家は江戸で呉服店「越後屋」を開き、
その後、三越百貨店へと発展し、そして三井財閥となった。
この高橋は老朽化し取り壊されて今はもうない。
三重県多気町
この写真を撮ったとき私は中学1年か、2年か、3年か覚えていない。
制服の丈が短くなっているので1年の時ではないようだ。
祖母は明治32年の生まれ。祖母からは「もったいない」という精神を叩き込まれた。
ところでこの祖母は実は私とは血が繋がっていないのが残念なのだが、
彼女のおじさんは国文学者の林古渓(はやしこけい)である。
林古渓といえば「浜辺の歌」という歌の作詞家として有名だ。
またその息子が林大(はやしおおき)という人だったのだが、
この人は金田一春彦氏と東京大学で同期だったという国語学者で
国語辞典の編纂や戦後の当用漢字の策定などに関わった人だった。
私は小学6年生の時に林大氏から「星の王子さま」を手ずからいただいた記憶がある。
三重県多気町
制服の丈が短くなっているので1年の時ではないようだ。
祖母は明治32年の生まれ。祖母からは「もったいない」という精神を叩き込まれた。
ところでこの祖母は実は私とは血が繋がっていないのが残念なのだが、
彼女のおじさんは国文学者の林古渓(はやしこけい)である。
林古渓といえば「浜辺の歌」という歌の作詞家として有名だ。
またその息子が林大(はやしおおき)という人だったのだが、
この人は金田一春彦氏と東京大学で同期だったという国語学者で
国語辞典の編纂や戦後の当用漢字の策定などに関わった人だった。
私は小学6年生の時に林大氏から「星の王子さま」を手ずからいただいた記憶がある。
三重県多気町