H野さんの勧めで『ワッパ義民顕彰会』に入会し、そして今回このご案内をいただいた。
さてさてワクワクするような興味はあっても、深くは識らないまったくの初心者である。勢いだけで参加を決めた。ふむ。
爽やかな天候に恵まれた、午前9時から午後3時までの半日の間、諸先生方には大変お世話になりました。
「高坂村へ下田沢村からって、遠いですよね? 徒歩では一日ががりでしょう?」「早いんですねぇ、当時の農民の情報伝達方法って?」「肝煎って農民ですよね、同じ村だから親戚筋もいただろうに…」「平野部の農民と山間部の農民はどっちが生活が大変だったんだろう?」などと無知で子供のような質問をするこんな私にも先生方は詳しく解説してくれた。心より感謝。
改めて当時の農民の(土埃が舞い上がるような)熱気を想像し、僅かながら知識が深まった研修でした。ありがとうございます。はいっ!! もっと勉強します。
そして研修が終わり解散式後に『ワッパ騒動義民顕彰会誌』に載せるから、400字程度で今日の感想を書けと仰せつかってしまった。はぁぁ、こんな私の(晩酌)文章でイイんだろうか? まずいだろうなぁ。
◯下山添村 八幡神社
明治7.8.1:八幡神社にて浦西利久、大友宗兵衛が「石代会社の規則」を読む。
◯片貝村 鈴木弥右衛門跡地附近
明治7.1.下旬:鈴木弥右衛門は明治6年分の貢米の石代金納を願いでる。
同7.3.2:酒田県聴訟課が「金納は許可できない」と述べる。
同7.3.21:酒田県が弥右衛門の家(母屋)を取り壊す。
◯本郷村 河内神社
明治7.8.上旬:(河内神社に)田沢組中のものが打ち寄せ評議。
同7.8.21:農民およそ400人が他家に押しかけ帳簿の公開を迫る。
同7.9.4:本郷組の重立(おもだち)の者が集まり肝煎一同を呼び出し追求。
同7.9.6:本郷組農民470~80人が、地券入費取立米・畑石代米(=畑石売上代金:畑の貢租金納の分を正米で取り立てた分)・浮役(雑税)の返還を要求。
◯上田沢村 本覚院
明治7.8.上旬:(本覚院に)田沢組中のものが打ち寄せ評議。
◯下田沢村 寂光院
明治7.6.25頃:高坂村の重助ほか3名が下田沢村に。
同7.9.7:田沢組中が(寂光院に)打寄せ、肝煎に迫る。
◯松沢村 集落通過
同7.7.17:高坂村の重助ほか一人が松沢村佐左衛門に止宿し、村々より二人ずつ呼び集め協議。松沢村指導者は佐左衛門・助右衛門。
◯田麦荘ななかまど亭
◯石臼挽き手打ち げそ天そば
◯田麦俣村 集落散策
◯番所跡
渋谷多七(田麦俣村、29才):本多允釐ら指導者の放免嘆願のため10月6日居村を出発し着京のうえ、10月18日に第五大区警視出張所に出訴したところ取り調べをのうえ、12月25日渋谷多七ら24名が酒田県に引き渡された。
◯大網村 番所跡
明治8.4.7 大網村 渡部次郎左衛門、下名川村 渡部弥次兵衛ら4人が「田川農民総代」として上京し、警視庁に嘆願するが受理されず。
同7.5.? 森藤右衛門と渡部次郎左衛門ら3名が原告となり裁判に。
◯旧大日坊境内跡地
大日坊は明治8年(1875)火事で焼失。42間x12間もある本堂をはじめ庫裏、大日堂ほか多くの伽藍が広大な敷地に配置されていたという。
◯皇壇ノ杉
高さ約27m、根周り約8m、枝の長さ東西・南北とも約22m。皇壇とは
景行天皇(けいこうてんのう)の御子、御諸別(みもろわけ)皇子がこの地で亡くなり、そのお墓に植えられたという伝説によるもの。樹齢1800年といわれる。
◯黒川橋(別名:酒呑み橋)・黒川の渡し
明治7.9.11:酒田県はついに騒動の指導者500人余を一斉に逮捕。本郷組の中では13~4人。
同7.9.12:下山添八幡神社に数百人を動員(金井質直帰県の陽動作戦)。
同7.9.16:黒川の渡し場付近に黒川組1500人がほら貝、鯨波。
(以上、鈴木良春氏作成資料、他より抜粋)